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□党首討論・のようなもの [国会TV]
http://seiji.yahoo.co.jp/column/article/detail/20070521-01-0601.html
2007年5月22日
党首討論・のようなもの
5月16日、参議院第一委員会室で今国会初の党首討論が行われた。安倍政権が誕生してから三回目、およそ半年ぶりの安倍総理対小沢民主党代表の論戦である。参議院選挙を2か月後に控えた時期だけに大いに注目を集めたが、大方の評価は「期待はずれ」だった。
翌17日の新聞各社の社説は、朝日新聞「生煮えで終わってしまった」、毎日新聞「聞きたい話を論じていない」、読売新聞「もっと論戦を掘り下げて欲しい」、産経新聞「憲法こそ語るべき問題だ」などといずれも討論の内容に不満を表明した。
45分間の討論時間で民主党の小沢代表が取り上げた論点は概ね三つあった。第一は安倍総理の国家観と総理としての資質。第二は教育問題。第三は国から地方への補助金の問題である。参議院選挙と重ねてみると国家観や教育問題は安倍総理が争点として掲げたいテーマであり、三番目は小沢代表が掲げる「格差」につながる。「格差問題」を前面に立てて論戦を仕掛けると思っていたが、小沢代表はまずは相手の土俵に登って論争しようとした。
冒頭、小沢代表は安倍総理の著書「美しい国へ」を取り上げ、安倍総理の国家観の根幹にあるのは全て天皇制だと断じた上で、防衛大学校の卒業式での安倍総理の訓辞を問題にした。安倍総理は自衛隊幹部になる卒業生を前に「将来訪れる危機に直面したときには、自らの信念に基づいて的確に判断して行動すべし」と訓辞していた。
「危機に際して判断をするのは国民の代表である政治家で、それを軍人に任せるような言い方は文民統制をないがしろにし、民主主義を危うくする考えだ」と指摘するのが普通だが、小沢代表はそういう直截なもの言いをしない。「理解が出来ない」と言って説明を求めた。これに対して安倍総理は「生命の危険を冒しながら国民を守る任務に就いている者に緊急の際の心構えを説いたのであって、文民統制に外れることになるんですか。皆さん。ならないですよね」と早口になり、いささか気色ばんで応える。すると小沢代表は「言葉尻を捉えたり、揚げ足を取るつもりで質問したのではない」とそれ以上追及することなくあっさり次の論点に移った。安倍総理が気色ばんだことで目的は達したと思ったのであろうか。
安倍総理が登場して以来、民主党は「総理としての未熟さ、危うさ」を浮き彫りにしようとしている。就任直後の予算委員会でも菅直人代表代行や田中真紀子衆議院議員がそうした意図の質問を行った。この戦術はもともと安倍総理に批判的な層には受けるだろうが、一般の国民の共感を得られるかどうかはなはだ疑問である。その時も国会TVの視聴者からは「北朝鮮の核実験という重大問題に直面している時に、安倍総理の個人的資質ばかりを問題にする民主党に疑問を感じる」と批判の声が寄せられた。
今回の党首討論でも小沢代表は冒頭19分間に渡って総理の個人的資質を取り上げたが、国民が聞きたかったのはそうした問題だったのだろうか。
次いで取り上げられた教育問題も聞いている方には難しかった。教育問題は憲法と並んで安倍政権が最も力を入れているテーマである。昨年の臨時国会では改正教育基本法が成立、今国会でも教育関連3法案が成立する見通しとなっている。いずれの場合も民主党は対案を出していて、その対案は自民党内からも評価されていたのだが、修正協議に持ち込むことは出来なかった。
本来、教育や憲法は与野党が対立してはならない問題である。国家の根幹に関わる問題はなるべく幅広い合意を形成して成立させるというのが先進民主主義国の政治で、その為には与党も野党も互いに譲り合って合意点を模索する努力が必要になる。
国の根幹部分で与野党が合意出来ない国家では政権交代は容易でなくなる。かつての55年体制のように政権交代がない時代の与野党は全て対立しても良かった。しかし政権交代が可能な時代には対立すべき問題と対立してはならない問題の種分けが必要になる。与野党に共通部分が多ければ多いほど政権交代は実現しやすくなる。だから教育と憲法で自民党と民主党が協力できない状況は、双方に言い分はあるだろうが、日本の政治にとって幸せな事ではない。
ともかくその教育問題で、小沢代表が教育委員会に対する国の関与が強まることを批判したのに対して、安倍総理は60年振りに改正したことの実績を強調するといった具合に議論は全くかみ合わず、双方が自分の言いたいことだけを言って終わった。
やっと分かる話になったのは討論時間も半ばを過ぎた頃、小沢代表が最も言いたかった筈の「格差」の話になってからである。福井県のある町が雪を溶かす設備を作るために補助金を申請した所、スキー情も作らなければ補助金を出せないと言われ、無駄なスキー場を作る羽目に陥った事例を紹介し、小沢代表は政府が総点検をして税金の無駄をなくすよう求めた。
これに対して安倍総理は「我々は無駄のない筋肉質の政府を作ることを約束している。口で言うだけでなく実際やっている」と反論。すると小沢代表が「中央官庁が決めている補助金を一括して地方に自主財源として渡すべきだ。口だけだというが、我々にやらせてくれればやってみせる」と応え、いよいよ党首討論らしくなってきたが、そこで時間切れ、タイムアップとなった。なぜ三番目の論点から入らなかったのか、その論点だけでやりあっても良かったのではないか、それが不思議だった。
冒頭で紹介したように新聞の社説はことごとく批判的だった。確かに「議論が生煮え」、「深く掘り下げていない」との印象を持たせたことは事実だが、しかし党首討論はそもそも「深く掘り下げて」議論するものなのだろうか。
党首討論のモデルとなった英国議会の「クエスチョンタイム」は1回の討論時間が日本より短い30分である。とてもじっくり掘り下げて議論をする場ではない。その代わり毎週1回必ず行われる。首相への質問は一般の議員も行うことが出来る。ただ野党党首に優先権があり、野党党首は一般の議員を差し置いて質問することが出来る。
かつてサッチャー首相と労働党のキノック党首が教育バウチャー制度を巡って討論する様子をテレビで見たことがあるが、深く掘り下げた議論というよりも「言論による格闘技」という感じで、キノックが「教育に格差を生じさせる」と攻撃すれば、サッチャーは「それは古くさい共産主義者の論理だ」と反論し、それに伴って議場の野次が騒然となるなどなかなか楽しいものであった。
日本版クエスチョンタイムが正式に日本の国会に導入されたのは2000年の通常国会からで、当時自由党の党首であった小沢一郎氏の提案による。それを小渕総理が受け入れて実現した。当時は毎週1回開かれることになっていて、民主党党首だけでなく社民党や共産党の党首も質問をした。
小沢氏が日本版クエスチョンタイムを提案した狙いは、国会が官僚支配の構図に組み込まれている事からの脱却にあった。それまでの国会は、本会議での代表質問や予算委員会の基本的質疑、重要法案の初めと終わりの質疑に総理が出席することになっていたが、答弁の言葉尻を捉えられて野党に批判されることを恐れるあまり、官僚が作成した原稿を棒読みするという形が多かった。言ってみれば立法府が行政府の作成したシナリオに沿って進行していたのである。大臣が答弁すべき所もほとんどが政府委員という肩書きの官僚によって行われていた。そうした状態を変えて政治主導の立法府を作るために政府委員制度を廃止し、副大臣や政務官という政治家が答弁する形にし、一方では党首討論が導入されて、官僚の作文によらない党首同士の論戦が始められたのである。
ところが本会議、予算委員会、各重要法案審議への総理出席はそのまま据え置かれたから、毎週行われるはずの党首討論も、他の審議に総理が出席する週は行われないことになり、毎週が毎週ではなくなった。民主党以外の野党党首は議席の数で質問時間が配分されていたが、議席の減少と共にわずか2、3分とかになり、結局は民主党だけになってしまった。その結果、党首討論は毎週どころか滅多に開かれないようになり、いつのまにか導入時の精神も忘れさられて「党首討論・のようなもの」に成り下がったという気がする。
廃止された筈の政府委員制度も、最近では「政府参考人」という名前で官僚答弁が復活している。かつて官僚主導に代わる政治主導を目指した国会改革は再び後戻りをしているのである。
官僚作成の国会答弁では国民は興味を持てないし、1日6時間もかかる委員会審議を見続けられる国民もいない。そうした意味で短い時間で毎週行われる党首討論は国民が総理の資質やものの考え方を知る上で貴重な機会なのである。そう考えれば新聞各紙が批判すべきは党首討論が「党首討論・のようなもの」になってしまった点についてではなかったか。
このままでは党首討論の存続に疑問の声が出かねない状態だが、もう一度原点に立ち返り、英国議会のように毎週行うことを原則とし、民主党党首には優先権を認めるものの、他の野党党首や一般の議員にも質問する機会を与えるようにすることが必要ではないか。
そうしないと国権の最高機関と言われる国会までもがかつての「国会・のようなもの」に後戻りしそうな気がする。
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