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□「ライブドア事件にみる検察資本主義の到来」 ゲスト:村山治氏(朝日新聞編集委員) [ビデオニュース・ドットコム]
http://seiji.yahoo.co.jp/column/article/detail/20070418-01-0901.html
2007年4月18日
「ライブドア事件にみる検察資本主義の到来」
ゲスト:村山治氏(朝日新聞編集委員)
3月16日、ホリエモンこと、堀江貴文ライブドア前社長に2年6か月の実刑判決が下った。執行猶予付きになるとの大方の予想を裏切っての厳罰に対して、メディアでは「厳しすぎる」との論調が支配的なようだが、裁判所は市場経済の秩序を維持するために、ルールの違反者は厳しく訴追するべきであるとする特捜検察の意志を全面的に支持する選択を下した。
長年にわたり特捜検察を取材してきた村山治氏は、厳しい判決はある程度予想されたものと言い切る。それは、このライブドア事件が、日本経済を官庁が「事前調整」する時代から、競争原理を導入し、一定のルールの元で検察、警察が「事後チェック」する時代へと転換したことを象徴する事件だからだという。そしてそのことは、大蔵省支配の終焉と、検察が国税や金融庁と連携しながら、ルール違反者を厳しく追及する事後チェック型検察資本主義時代の始まりを意味するというのだ。
村山氏は、バブル崩壊以降の検察と大蔵省の関係を克明に描いた著書『特捜検察vs.金融権力』の中で、1990年代前半までは、リクルート事件や東京佐川急便事件に代表されるように、検察は大蔵省傘下の国税や金融当局と連携しながら、もっぱら政治家や企業の汚職や脱税の追求に力を注いできたと記している。そしてこれが、戦後日本の経済秩序維持の源泉でもあったという。
しかし、バブル以降、大蔵省による「護送船団方式」は立ち行かなくなる。膨れあがった膨大な不良債権の山の前で、大蔵省の「一行たりとも潰さない」という方針は挫折し、同時期に発覚した大蔵官僚の接待汚職によって、大蔵省そのものが検察捜査の対象となってしまう。ほどなく大蔵省の力の拠り所の一つだった金融部門は分離され、金融監督庁(のちに金融庁)は「事後チェック型」の市場統制システムの番人としての役割を担うようになっていく。ライブドア、村上ファンド両事件は、まさに検察と金融庁の協力体制が結実した、新しい日本経済の統治形態の象徴だと、村山氏は指摘する。
村山氏はまた、ライブドアが「国策捜査」ではないかとの批判に対しても、「検察はもともと国策捜査を行う機関」と言い切り、これを一蹴する。警察が全ての犯罪を捜査することが義務づけられているのに対し、検察は「必要に応じて」事件を捜査することになっている。そこで言う「必要性」の判断は、検察の裁量に委ねられており、その意味では検察捜査はもともと国策的な意味合いを含むことになる。法律からして、検察は「国策捜査」を行い「一罰百戒」を旨とする行政機関だというのだ。
こうして検察はある時は大蔵省と組み、また大蔵省が落ち目になったとみれば金融庁を新たなパートナーに選ぶというように、それぞれの時代に対応しながら経済秩序維持のために働いてきた。しかし、もし「正義の味方」の検察自身が、腐敗したり堕落した場合、どこが検察をチェックすることができるのか。政治家も検察が怖い。もはや官僚相手にも検察は容赦しない。以前この番組に出演した元特捜検事の堀田力氏は、一人一人の検察官の正義感が検察正義の拠り所であると言い切ったが、それで本当にシステムとして盤石と呼べるのか。
制度ではなく、人がちゃんとしているということを頼りにするというあり方は「近代社会とはいえない」という宮台氏。村山氏も、検察の裁量の大きさゆえに、捜査が恣意的な要素に左右される可能性を否定しない。しかし、仮に検察が「百罰百戒」を行うとすれば、捜査の恣意性は排除される代わりに、その統治コストは現実的でないほど莫大なものとなるだろう。誰かがこの社会の統治を行わねばならず、それもタダで行うことはできないという現実を踏まえれば、その統治コストは「こんなものではないかなという感じがしています」という村山氏。
矛盾は矛盾のまま読者に読んでほしいと思い、見たまま聞いたままを書いた」という村山氏とともに、ライブドア事件で完成した検察資本主義の内実と、日本で事後チェック型の統治システムが本当に機能するのかどうかを考えた。
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