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中立・中道を疑う(非国民通信)
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投稿者 heart 日時 2007 年 4 月 16 日 22:10:09: QS3iy8SiOaheU
 

http://blog.goo.ne.jp/rebellion_2006/e/28d69fc8f346e1fbb6ee30d742283dafより転載。

中立・中道を疑う

 このブログは極左的な視点から書かれたものであり、政治的な中立性を意図したものではありません。

 ・・・っと、まぁ、公平な視点で書かれている、バランスがとれていると評していただけるのであれば、ありがたく頂戴する次第ですが、とりあえずこのブログは左端から書かれたものであることを宣言いたします。何をわざわざそんなことを、と思われるかもしれませんね。敢えてこんなことを明言したのは、中立とか中道、特に自ら中道を称する人々、中立の立場を装う人々に不信感を感じたからでもあります。真ん中でバランスがとれていれば、それは良いことのように見えるわけですが、実はその実態はかなり怪しいものではないかな、と。

 右にしろ左にしろ、どっちもあまりイメージの良いものではありません。堂々と右翼、左翼を自称する人はあまりいないのではないでしょうか。いるとしたら「悔い改めた」元左翼ぐらいでしょうかね。分類上便利なので右と左という言葉を私は頻繁に使うわけですが、厳密に言えばこの分類は安易であって不適切な部分もある、右と左という分類が通用しなくなっている部分も少なくありません。だから右も左ももう流行らない、いまどき右や左を自認する人は減る一方と思われます。

 代わりに増えているのが、自称中道です。安倍総理と取り巻き一派もそうですね。いわゆるネットウヨの人もそう、彼らの主張は極右であっても、自ら堂々と極右を自認したりはしない、むしろ中道であると自称するわけです。彼らに言わせれば、今までの日本が左に偏りすぎていたので、それを修正する自分たちの立場こそが中道なんだとか。ふーん。

 彼らが本当に中道かどうかの議論はさておくといたしまして、ここで注目したいのは彼ら極右勢力から見ても「右翼」よりも「中道」の方がステータスが高いらしいことでしょうか。「中道」より「右翼」の方がステータスが高いのであれば堂々と右を自認すればいいはず、それを敢えて「中道」を自称する、政治的主張は中道でなくとも「中道」の価値は高く評価しているようです。

 これは左派の場合も似たようなものですね。左寄りの政治的主張を展開しているブロガーでも、自ら左を自認している人は滅多にいません。むしろ多いのはやはり、自称「中道」でしょうか、自分は左でも右でもありません、そういう立場を自認している人が多いです。左から見ても「左翼」より「中道」の方がステータスが高いようで、堂々と左を名乗るのではなく「中道」であろうとする傾向は否めません。

 偏りがないということは、たぶん肯定的に捉えられる場合が多いのでしょう。右にも左にも偏りがない、偏りのない「中道」がバランスのとれた立場だ、そうみなされているからこそ、右も左も「中道」を自称したがるわけです。だけどその「中道」の中身を検証してみないわけにはいきません。

 たとえば安倍晋三の自称「中道」はいかがでしょうか? 私のブログの読者でも、自ら「左」意識を持っている人は多くないと思いますが、とは言え安倍晋三の政治的主張を左右偏りのない「中道」だとみなす人はほとんどいないと思います。自分ではバランスのとれた「中道」のつもりでも周りがそれに頷いてくれるかは別の話、身内は賛同してくれるのでしょうが、対立する立場から見れば「中道」だなんてお笑い種に過ぎません。

 安倍晋三にしてみれば従来の左に偏った日本と極右的主張の中間ぐらいだから「中道」のつもりのようですが、まぁ前提となるものが少しおかしい主張でもあります。そして前提の誤りもさることながら、より疑問を感じさせるのは「中道」とは右と左の見解を足して2で割ったものなのか?と言うことです。

 自称中立のメディアにとりわけその傾向が強いですね。新聞もそう、テレビもそう、wikipediaもそうです。右の見解と左の見解を足して2で割ったものを中立的な意見と見なしている。そしてそんな中立的な観点に私は疑問を感じるわけです。

 私が子供の頃、学校の備品を壊した人がいまして、その場に居合わせた私と、備品を壊した犯人を含む仲良しグループ数名が職員室にて聴取を受けることになりました。私は、正しく犯人の名前を告げました。一方で犯人グループは口裏を合わせて私が犯人であると主張しました。聴取に当たった教員は全員の見解を足してそれを割った「中立」的な裁定を下しました。すなわち、その場にいた圧倒的多数、一人を覗く全員が犯人として名指しした「私」が犯人であると。

 結局、私は親まで呼ばれて謝罪を求められ、一方で犯行グループ側はその場に居合わせたにも関わらず「私」の犯行を制止しなかったとして注意を受けるに止まりました。まぁ、その場に居合わせた全員の主張を取り入れて、それを頭割りにすればそういう結論になったのでしょう。裁定した教員の側としては、全員の意見に耳を傾けた、特定の誰かの意見に偏らなかった、中立的な立場でバランスのとれた裁定を下した、そう自認していたのでしょう。

 要は事実とウソの二つの主張があったときに、これを同列に論じてその中間を取ることが本当に「中立」「中道」なのかということです。歴史問題などは特にそうですね、歴史的に検証されてきた史実と、新たに創造された物語、これを同列に論じてその中間を取ろうとする傾向が強まっているのではないでしょうか?

 ともすると左派が史実を語り、右派が物語を語る傾向が強い中で、史実と物語の対立が左と右の対立に置き換えられてしまうことがあります。こうなると両者が同じ土俵で論じられ、両者の主張が等価でるかのように―――史実とフィクションが等価であるかのように語られるようになります。この結果、両者の見解を足して割ったものが中立的な見解として新聞、テレビ、wikipedia、そして歴史教科書などに現れてきたわけです。

 あまり言いたいことではありませんが、左派ブロガーの間にもこの「中立」の罠に嵌っている人が少なくありません。日頃から応援しているブロガーが、単なる誹謗中傷と批判を等価において、さも「自分は中立でござい」、みたいな顔をしているのを見るのは辛いものがありました。あばたもえくぼと言います、それが真っ当な批判であっても、自分が応援すると決めた候補への批判は誹謗中傷に見え、対立する候補への誹謗中傷は正当な批判に見えるのでしょうか、差別表現を連発して共産党叩きに血道を上げる反共ブログをさんざん持ち上げておきながら、少しでも批判を受けると「野党内部での叩き合いは止めよう」「石原三選を助ける行為」などと言い出して沈黙と同意(http://blog.goo.ne.jp/rebellion_2006/e/9bec810125315110b8fc7d800e1750d9)を迫る有様。これは感心できません。

 共産党叩きに血道を上げていた人に関しては話してわかる相手とは思っていませんので、こちらから何か言うことはありません。私が言いたいのは、共産党叩きと浅野史郎・民主党への左からの批判を同列視して「喧嘩は止めよう」などと中立面して主張した人に対してです。単に両者の間に立つだけの中立で良いのですか、と。事実を語る人々とフィクションを奉じる人々が対立したとき、両者を等価に置いて、その中央に立てば中立として満足できるというのであれば、それはもう結構ですが。

 少し話が脱線気味になりましたが、ともあれ「中立」「中道」は一見すると肯定的なイメージが強く、誰しも自然と「中道」へと引き寄せられていきます。右にしろ左にしろ、「偏り」は好まれないのです。そしてそれは政党への「偏り」も似たようなものでしょうか。明確に特定の政党を支持する人が減って「無党派」が増えたのはこの「偏り」への忌避感、「中道」志向の結果かもしれません。

 偏りがない中立的な立場、この場合の「偏りがない」は「しがらみがない」とも言い換えられるでしょうか、いずれにせよ有権者の多数―――「無党派」が好む言葉であります。では本当に「無党派」は中立かというとどうでしょうか? 政治家の感覚と庶民の感覚にはどうしてもズレがあります。このズレが大きければ大きいほど、政治家の企図と庶民の願望の間の隔たりも大きくなります。だから庶民は「政治家」の側に偏りすぎない、政治家らしくない政治家を望むのですが、さてその結果は?

 こうして広範な支持を獲得したのが石原慎太郎であり、小泉純一郎、東国原英夫などでしょうか。彼らはいずれも政治家らしからぬ、政治家として異質な存在、少なくともその異質さをアピールできる存在でした。浅野史郎も無党派色をアピールしてはいましたが、政治家としてより異質、異常であったのは明らかに石原慎太郎であり、それこそが無党派の票を分けたのではないでしょうか。より政界への偏りがない、しがらみのない、政治家の感覚とは違う感覚を持っている、そう錯覚させることに成功した候補が無党派の支持を得たのです。

 日本が右傾化しているとは言っても、右翼が栄えているわけでもありませんし、左翼の衰退は言わずもがな、みんな中道なのです。自民党支持層だって昔に比べれば減りましたが、その他の野党支持層だって減っています。みんな偏りがない、バランスがとれたものを目指しているわけです。そしてこのバランス志向、中道志向が知識人階級や大手メディアの沈黙へと繋がっているのかもしれません。つまり特定の立場に立つことは良くないことであるとする気運が、中立という名の沈黙を求め、明らかに誤った政体への批判を封じているのではないでしょうか。

 偏らないことが悪いことというわけではありません。ただし、偏っていないつもり、バランスがとれているつもりの自称中道には要注意であり、増えているのもそういう人です。レイシストと人道主義者の間で、修正主義者と歴史家の間で、反共主義者と左からの批判をする人の間で、仮想敵の脅威を煽る輩と偽りに立ち向かう人の間で、その両者の真ん中に立って我こそは中立、不偏なりと勘違いしている自称中道に頷くことは出来ません。それが少数の意見であっても正しいことは正しい、多数の意見であっても誤っていることは誤っている、たとえそれが最大公約数的な意見から外れることになろうとも、足して割った中立に擦り寄るのではなく、敢えて偏った立場を引き受けて発言する覚悟、それが求められるのではないでしょうか。

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