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スティールメイト化する世界、延期される「シナリオ」、無意味化するメディア
日本テレビに明日はあるのか?
昨日(14日)夜、東京の北区・滝野川会館で総勢500名の方々に集まっていただき、現下の国際情勢と日本の行く末に関する私なりの分析、そして個人投資家としてこれからを危惧する方々に対する私のメッセージをお伝えする「謝恩セミナー」が開催した。
今回のセミナーは、本年4月2日をもって無事に株式会社化し、「個人としての日本人のためのシンクタンク」として、リテールに徹したサービスを提供することを新たに決意した弊研究所としては初めての大規模行事であった。
開催告知開始より3週間あまりで定員を裕に超えるたくさんの方々からのご応募をいただいたのには驚いた。この場を借りて、ご参集いただいた意識ある個人投資家の方々に対して心より御礼申し上げると同時に、今回、抽選に外れたため、およびできなかった方々に対し、心からお詫び申し上げることとしたい。
そして何よりも驚いたのが、講演の冒頭でも申し上げたとおり、今回、名だたる欧米系外資金融機関の、しかも時には「本国」からの参加応募が多々あったということ。また、いくつかのメディアから「取材」の申し入れもあった。
しかし、弊研究所のクライアントであり、またそのメッセージの宛先人は、あくまでも迷える個人、そして投資家としての日本人の方々である。まことに恐縮ながら、「外資金融」「メディア」の両者には、あらかじめお引取り願うことにした。―――しかし、わざわざ「本国」から派遣しようとまでするところに、「彼ら」の情報収集能力の高さを痛感してしまったのもの事実だ。アンテナ、そして地雷はいつもすぐそこにある。
さて、この講演の際に同じく申し上げたことなのであるが、私は開催前日の13日に放映された日本テレビの収録番組に出演した。タイトルは「太田光の私が総理になったら・・・秘書田中」という番組。日本テレビ放送網が毎週金曜日夜に放映する人気番組である。
今回は特別番組ということで、いくつかのテーマによるオムニバス。私は、「日米同盟を一旦破棄すべき」との太田流マニフェストへの是非を問うコーナーに出演した。
結論からいうと、上記の講演会直前の「宣伝」という効果を除けば、全く意味のない出演であった。その「意味の無さ」の理由は次のとおりだ:
(1)収録中、「日米同盟破棄賛成論」の陣営にすわった私が指名されたのはたった2回。しかも、1回目は軽く発言し、2度目は重めの発言をしたものの、放映分では2度目の発言は完全にカットされていた。
(2)1度目の発言については、「在日米人」という役柄を完璧に演じるケビン・クローンの罵声が完全にかぶさり、意味不明なものへ演出された。
(3)そもそも、「日米同盟の破棄」という時に、「米国による金融覇権の確立」、さらには「米国による金融・メディアを通じた対日統治の継続」を語らなければ、全く議論のベースは整わない。しかし、主たる「破棄論者」を演ずる太田光自身が日米経済問題について全くの不勉強。結局は、「日本は守ってもらっているのだから、経済で多少むしられたからといって文句言うな」という定番の議論へと流される。
(4)また、出演者の太宗が「日米同盟論者」として肩で風を切っているタレント教授たち(森本敏、村田晃嗣など)や、なぜかあらゆる番組に出演している米国系タレントたち(パックンなど)で占められており、「議論」の大勢は最初から見えていた。予定調和の結論ありきという、ありきたりな演出に閉口した。
それでもなお、私がこの番組に出演したのには理由がある。
それは、日米関係について真正面から語る日本の大手メディアがほとんどない中で、それらの渦中にあえて身を置くことによって、日本の大手メディア自身が感じている、対米関係の「潮目」を体感することができるからだ。
日本テレビ放送網は、その創設以来、米国との関係を常に意識せざるを得ない立場におかれてきたテレビ放送局である。単なる「噂」でしかなかったこの事実を、最近、有馬哲夫氏(早稲田大学)がその著作「日本テレビとCIA」(新潮社)で明らかにされた。そういった「日テレ」に、真正面から対米関係について論ずる役割など、最初から期待するべきではない。
しかし、実際に収録に立ち会って大変驚いたことが一つだけある。それは、これまで大手メディア、とりわけテレビが一度たりとも「本物」を画像の形で取り上げたことのなかった、米国の「対日年次改革要望書」を映し出したことである。もちろん、不勉強な太田光以下、芸能人出演者たちには、そのことの「凄さ」が分かるはずもない。そうした文書が日米間で交換されてきたことを、あたかも「自明の理」であるかのようにして、「議論」を展開していた。だが、そうではあっても、このことを許した日テレ最高幹部層にしてみれば、ある意味、「薄氷を踏む思い」であったに違いない。そのことは、これについて、同席していた国会議員たち(石破茂ら)が、この文書をあえて無視するかのような態度に終始していたことからも明らかだ。
したがって、親米派で知られる日本テレビであっても、確実に「舵を切って」いることは明らかなのだ。日本国内における「対米論」について、金融資本主義の「潮目」を探る立場から「定点観測」している私にはそれが見て取れる。
だが、真正面から反米を唱えれば、かつてGHQによって「しょっぴかれ」、「公職追放」の憂き目にあった正力松太郎と同じことになりかねない。そこで、まずは「これまで語られてこなかった米国の対日統治の動かぬ証拠」を示しつつも、反米論者を揶揄し、最後はお決まりの「守ってもらっているのだから、仕方が無い」流日米同盟論へと流し込んだのだろう。―――これが、おそらくは今の日本テレビにとっての「限界」であるはずだ。
それでは、なぜ、日本テレビが密やかな「反抗」を始めようとしているのか。実はこれもまた、米国が新たに打ち出し、日本にも着実に浸透しつつある金融資本主義と深くつながっている現象なのだ。
「西武鉄道事件の記憶も生々しい(2004年)11月5日、東京証券取引所は『日本テレビ放送網株式会社を整理・監理ポストに割り当てる』と発表。日本テレビは、『通知を受け非常に驚いている』とのコメントを出しました。この日、同社が2000年3月期から04年3月期までの有価証券報告書の訂正報告書を、関東財務局に提出したことを受けての処置でした。」(河内孝「新聞社 破綻したビジネスモデル」新潮新書)
この時、読売新聞の渡邉恒雄・主筆の株は読売新聞グループへの名義貸しであるので訂正する、と日本テレビは「訂正」したのである。これに対し、東証は「同社の株式事務の体制等が投資者の保護を損なう恐れがある」とのコメントを発表。週明けの11月8日の株式市場で、日本テレビ株は値幅制限(2000円)一杯の「ストップ安」まで売り込まれる惨事となったのである。―――まさに「会社存亡の危機」であった。
もちろん、単なる「企業不祥事」とこの3年前の出来事を片付けるのは簡単だ。しかし、新聞社と在京キー局とが複雑に絡み合った資本構成という「門外不出のテーマ」が表ざたとなったことは、日本テレビ最高幹部、さらには読売グループのトップに立つものたちにとって、強烈なショックであったはずだ。
なぜならば、こうした「不可思議な資本構成」を作り上げたのは、他ならぬGHQ=米国自身だったからである。拙著「『日本封じ込め』の時代 日韓併合から読み解く日米同盟」でも記したとおり、GHQがもっとも介入したのが、日本の大手メディアの筆頭であった有力新聞社の資本構成なのであり、その槍玉にあがったのが読売新聞なのであった。その後、日本テレビ放送網の設立に至るまでの一連の過程に米国の意向が反映されてきたことはいうまでもない。
ところが、そうしたGHQ=米国によって刻印された「資本構成」という不文律を墨守し、その「対米関係上の意義」を知るものだけが国内で利益を独占するというシステムは、「情報公開」「透明性」を唱える米国流の破壊ビジネスという、金融資本主義の「潮目」の中では完全に時代遅れになっているのである。
しかも、上記のような3年前の「古傷」を、今度は新潮社が広く売れている「新書媒体」を使ってさらに暴こうとしている。新潮社は1946年1月よりGHQによる「出版社の戦争責任追及」の対象出版社として掲げられた7社の一つとされたが、その後、巧みにこのターゲット・リストから巧みに逃げた経緯を持つ。ーーーそしてあれから60年余。新潮社は再び、「時代の旗手」として米国流金融資本主義の伝道者の立場から、盛んに日本テレビ放送網を攻撃しつつあるのである。
それに対する日本テレビの「反撃」はまだまだ不十分であることは、先ほども述べたとおりである。及び腰ではなく、本気のファイティング・ポーズをとらない限り、このままいけば、米国から押し寄せる金融資本主義の怒涛の流れに押し流されるだけであろう。日本テレビ放送網、そして読売新聞の最高幹部たちには、「勇気を出して自らの足元を固めべく、対米関係を清算すること」をおすすめしたい。今ならまだ間に合う。
延期される「シナリオ」の数々
なぜまだ「間に合う」のかといえば、ここにきて、さしもの米国であっても、国内外の両面で「スティールメイト」、すなわち引き分けの状況にならざるを得ない立場に追い込まれているからだ。圧倒的な力を誇示できない米国に対し、今ならば自己主張することが、わずかばかり許されている。
このコラムの3月18日号および4月1日号で記したとおり、こうしたスティールメイト状態は、マーケットにおける指標としての「北朝鮮」および「イラン」を巡る情勢を見れば明らかだ。
北朝鮮では、いわゆる「バンコ・デルタ・アジアに対する米国の金融制裁問題」が解決されたかのように見えつつも、前々回の六カ国協議での義務履行期限を過ぎても、北朝鮮側が一向に前向きな態度を見せないまま終始している。ところが、これに対し、米国はというと、じりじりと後退し、期限延長をなし崩し的に認めるようになってしまっている。
イランについても状況は同じだ。米国の統合参謀本部内には「イラン攻撃」のシナリオを堅持しようとする力が依然として強いという情報がある。しかし、その一方でイランといえばまずは英国兵の拘束とその解放という、英・イランの巧みな共同演出によってつくられた「独占交渉ルート」の存在を無視できないようになっている。
米国がイランを締め上げたいことの理由の一つには、危機の醸成によって原油先物価格を高騰させ、昨年11月の中間選挙の前までにそうしたように、「選挙資金」を大量に捻出したいという意向が働いている可能性は十分にある。つまり、地政学リスクは世界中のどこかで生じるが、そのマーケットにおける評価は原油先物価格にとって支配的なNY市場で決まるという、おきまりの集金システムの発動である。
しかし、こうした原油先物価格の「形成プロセス」そのものについて、欧州勢は反旗をひるがえしつつある。たとえば、4月12日付フィナンシャル・タイムズ(ドイツ版)はあまりにも投機的になりすぎているNYの原油マーケットが主導する価格形成メカニズムに大きな「疑問符」を投げかけてすらいる。
「テロ」「地域紛争」を理由に世界中で「地政学リスク」を演出までして、マーケットでの集金作業に励んできた米国、とりわけ原油ロビーをバックにした共和党系勢力にとっては聞き捨てならない展開であろう。過熱感はあるものの、方向感に乏しい原油マーケットの動きは、そうした共和党勢とこれに対峙する民主党勢(非原油エネルギー関連企業をバックに持つ)、さらにはそれと国際金融資本でつながる欧州勢とのせめぎあい=「スティールメイト」と考えるべきである。
賢明な読者の方々は既にお気づきだろうが、日本のマーケットにおける「大手メディア」の位置づけも、こうしたスティールメイト化する現下の世界情勢に直結している。とりわけいくつかの報道番組における「衣替え」は、新しいフェーズの到来を告げるものであり、「潮目」を予感させるものではあるが、今期の番組改編で日本のメディア文化が根こそぎ変わるような騒ぎが生じているわけでもない。米国流の破壊ビジネスの覇者として「この世の栄華」を体現していたものの、最近ではすっかり身を潜めた感のある宮内義彦オリックス会長兼CEOとかつて「勝つ経済」(PHP研究所)などという破壊ビジネス推奨本を堂々と出した田原総一朗が、未だにブラウン管の中を跋扈している有様だ。一昨年頃より、こうした「メディアの貴族たち」の降板がまことしやかに検討されてきたとの情報が絶えないにもかかわらず、である。
しかし、昨日(14日)の講演会でもじっくりとご説明したとおり、現在の流れを見る限り、この秋にもこうした「スティールメイト状態」は解消し、その爆裂によって生じた大きな波が日本のマーケットを襲いそうだ。そして、やがてそれはメディアを含む全ての日本企業にまで及ぶ。その中で、かろうじて「破壊ビジネス」を逃れてきたセクターは、まずは有無をいう余裕すらなく、「潮目」の中で構造改革を強いられ、改変を余儀なくされ始めるのかもしれない。
まずは読売、朝日といった二大メディアで培われてきた「戦後のGHQによるメディア・コードの生き字引」たちの去就が注目されよう。これが織り成す波紋は、やがて2011年7月24日に迎えるテレビの地上デジタル放送への完全移行もあいまって、大きな「潮目」となっていくはずだ。
地上デジタル放送への移行は、多額の設備投資を必要とし、それだけ大手メディアと金融資本主義を密接不可分なものとする。朝日放送(9405)の株式の10.5パーセントを、最大の米系投資銀行であるモルガン・スタンレーが既に握っていること(2007年3月15日現在)の意味は、そこで読み取らなければならない。放送持ち株会社の解禁に、メディア側は大賛成のようだが、その先には「放送事業」とは縁遠くなった持ち株会社に対する外資規制の「解禁」というシナリオがあったらどうなるのか。―――金融資本主義の世界に「不可能」という文字はない。あるのは「損益計算」だけである。
山本七平の言葉を考える
これまで逃げてきた金融資本主義の荒波がいよいよ自分の足元まで来たことにより、テレビを含む日本の大手メディアたちは、いつものとおり、まずは自社の保身のための報道を繰り返すであろう。上記の日本テレビの番組のような論調、すなわち、「日米同盟」を落としどころにしつつ、米国からの金融資本主義の流れには牽制球を暗に投げるというやり方だ。
しかし、それではあまりに議論として「上級」すぎる。情報リテラシーや、米国を中心とした金融資本主義の構造をそもそも知らない視聴者にとっては、単なる「米国礼賛」としかうつらないことであろう。それでは、個人としての日本人は誰も救われない。
私自身、今回の番組出演で受けた「日米同盟論者」たちからの罵声をかいくぐってこれからも発言を続けることに対し、新たな戦術が必要なのではないかと思うに至った。そうする中で、今、次のような山本七平の言葉をかみ締めている。
「真の危機は、いくら大声で叫んだとて実際には人の耳に入らない。それは・・・(中略)・・・その人の自己規定が、有形無形の組織内の組織における身のまわりの小さな危機・・・(中略)・・・で規定され、それ以上の大きな危機によって自己を制御するということが、実際にはできないからである。・・・(中略)・・・人びとは危機を叫ぶ声を小耳にはさみつつ、有形無形の組織内の組織に要請された日常業務に忙しい。そしてこの無反応を知ったとき、危機を叫ぶ者はますますその声を大にする。しかし声を大きくすればするほど、・・・(中略)・・・人びとは耳を傾けなくなる。だがそのとき、だれかが、危機から脱する道はこれしかない、と具体的な脱出路を示し、そしてその道は実に狭く補足かつ脱出は困難をきわめ、おそらく全員の過半数は脱出できまい、といえば、次の瞬間、いままで危機々々と叫ぶ大声に無関心・無反応だった人びとが、一斉に総毛立って、その道へと殺到する。危機というものは、常に、そのように、脱出路の提示という形でしか認識されない。」(「日本はなぜ敗れるのか」山本七平 角川Oneテーマ21)
自己保身に走る大手メディアの中で、「ひな壇芸人」よろしく「電波芸者」になることは、私の本意では全くない。
むしろ私の戦うべきは「現場」である。今年は日本国内の各地方へと直接出向き、「ゲリラ戦」「地上戦」を展開する予定だ。
そこでの「出会い」が、やがて日本人による「今すぐそこにある危機」への猛攻へと、大きなうねりとなっていくことを祈念してやまない。
2007年4月15日
原田武夫記す
[新世紀人コメント]
山本七平の言葉は、日本社会だけに当てはまる日本人らしい言葉である。山本の苦悩がしっかりと詰まった言葉である。
今の日本は山本の時代よりはやはり進歩していると私は見る。
米国の戦後対日統治は、戦争に引きずり込んで叩き壊しておいて、その上で「民主主義国家の育成」を語ると言うもので、イラク戦争とその後のイラク統治政策と全く同様である。スンニー派とシーア派の対立を造り上げ弱体化を図りその上で統治する形は、戦後日本の左右対立による不安定の上に立った統治が行われてきた事と全く同じ遣り方である。
対立的弁証法の思考を離れられない限りはワン・パターンを免れる事は無い。
イラクと日本の違いは、スンニー・シーア共に反米抵抗であるのに対し、日本では左右共に親米であったと言う事だ。従って米国は日本統治に手を焼くと言う事が無かった。
今でも多くの知識人は民主主義国家米国の看板を信じて左右のイデオロギーのシナリオ路線を走らされている。この癖を直ぐに直す事は出来ないだろう。自然に枯れる時を待つ他は無い。新しい芽はそこからは無縁のところから発生し伸びてゆくのである。
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