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http://politicalaffairs.seesaa.net/article/37039749.html
東京都知事選に出馬している外山恒一(政治活動家、前衛芸術家、評論家)が奇天烈な政見演説を行い、一部で話題になっている。
外山恒一の政見放送 [2007/03/25]
http://www.youtube.com/watch?v=ccwpbsJsWvM
この演説だけ観ていると、全てが単なる受け狙いではないのかという疑問が真っ先に浮かんでくる。外山恒一は鳥肌実に似ているという声を掲示板でしばしば見かけるのもよく判る。だが鳥肌実は純然たる芸人であり、その主張は完全に現実の政治から遊離している。一方、外山恒一の主張は現実の政治思想や政治状況に立脚している。政見演説の内容はその上澄み、結論だけを、しかも派手にネタ的に口にしているので、ネタ扱いされるのも当然である。
演説の中で外山は、「奴等多数派は……」「我々少数派は……」などと繰り返しているが、その真意がどこにあるのかは演説を最後まで観たところで不明なままである。
しかし外山が書いた文章をいくつか読めば、こうした疑問は氷解する。彼の言う多数派とは、自由の価値を理解せず、むしろ進んで自由を国家権力に差し出し、その代わり国家権力による強力な社会統制を望む人々の事。一方少数派とは、自由を最も重視する人々の事である。
外山は下獄中にファシストに転向したと公言しており、自らが書いた「ファシズム基本文献」をネットで公開している。これらの文章を読む限り、彼のファシズムはネタではなく大真面目であるようにも思える。
以下、外山の論文を簡単に紹介する。
・「ファシズム基本文献」
「まったく新しい左右対立──イデオロギーX──」
http://www.warewaredan.com/contents/sayu.html
これは要約すると、体制が左翼と連帯して伝統的価値と自由を抑圧しつつある今、「イデオロギーX」(左翼と連帯するとアナーキスト、右翼と連帯するとファシストとなる立場)と右翼は連帯してこれに立ち向かうべきであるという主張である。
以下は抜粋。
現在もはや、右上の右翼領域に身を置く人々は、時の政権から見限られていると考えるべきである。
政権はそれが持続するために、常に何らかの「正義」のようなものを必要とする。(中略)しかし大勢は、決定的に変化している。
これまた分かりやすい例を挙げれば「アジアの国々」へのいわゆる「謝罪外交」は、もはや規定路線として(我々の革命が実現しないかぎり)覆されることはないだろう。
我々は、社会のPC化を推進する左翼勢力と、諸個人を監視・管理するハイテクを獲得した国家権力との結託による、まったく新しいスターリニズム体制の実現に抵抗し、これを阻止・粉砕する闘争に決起しなければならない。
「わが『転向』」
http://www.warewaredan.com/contents/tenko.html
外山恒一の思想の変遷を語ると同時に、ファシズムの真の姿を解説する文章。
以下は抜粋。
....しかし私はこの本を読むことで、ムソリーニが展開したオリジナルのファシズム運動が、実は私が数年前から「ファシズムがこうであれば真っすぐに共感できるのに」と思い描いていたイメージそのままのものであることを確認するに至ったのである。(中略)最大の収穫は、ファシストが民主主義に反対するのは、国家主義的な理由によるのではなく、むしろそれが個人を抑圧するものだと考えているためであることが分かったことだ(「すべての色彩を消し去り、すべての個性を平板化する匿名にして灰色の民主的平等主義」ムソリーニの論文より)。
私は、ムソリーニの主張に完全に同意できると感じ、ファシストとして生きてゆくことを決めた。
「ファシズムは誤解されている」
http://www.warewaredan.com/contents/gokai.html
現在ファシズムは徹底的に悪魔化され誤解されているが、そうした誤解に反論してファシズムを擁護し、グローバリズムに対抗するにはファシズムしかないと主張する文章。
「ファシズムとはおおよそこんな思想である」
http://www.warewaredan.com/contents/oyoso.html
ファシズム、ファシストにとっての敵、ファシズムに近い思想。これらについてざっくりと語っている。
以下は抜粋。
ファシズムは、ニーチェとハイデガーを主要な参照先とする革命思想である。
ファシストは、民主主義に反対する。
民主主義は、諸個人の自由を、最終的には否定するからである。
ファシストは、大衆を蔑視する。
現在の監視社会化の急速な進行を見れば明らかなように、大衆こそは自由の敵である。「自由からの逃走」という有名な言葉どおり、大衆は自由を忌避する本性を持っている。
ファシズムに最も近いのはアナキズムである。
しかしアナキストは、かつて一度も勝利したことがないし、これからも決して勝利することがない。
アナキズムの次にファシズムに近いのは、ナショナリズムである。
天皇陛下万歳。どうせ害はない。
「ファシズム断想(アナキスト諸君へ)」
http://www.warewaredan.com/contents/danso.html
ファシストのあり方を原理的な方向から語っている。現代日本のPC(ポリティカル・コレクトネス)つまりいわゆる「政治的正しさ」を完全に無視した、歯に衣着せない文章である。
「今こそ共産主義を警戒せよ 」
http://www.warewaredan.com/contents/kyosan.html
要約すると、資本主義は伝統的共同体を破壊し人間を動物化させ、社会に危機をもたらす。その危機に対処する為、資本主義体制は必然的に共産主義体制へと移行する。ファシストはこうした事を何としても阻止しようとする、という内容である。
以下は抜粋。
スターリニストの顕著な特徴は、自らがスターリニストであることにまったく無自覚なことだ。
左翼は、結局のところブッシュのやり方が「エレガントでない」と不快感を示しているにすぎない。
こんな「批判」の延長線上には、「エレガントなブッシュ」しか生まれようがない。
そして我々ファシストはそのことを、「PC的な左翼の正義と、ハイテクを獲得した国家権力との結合」であり、新たな、真の共産主義社会の実現であるととらえている。
「ブッシュは共産主義者であり、ブッシュの戦争は共産主義革命戦争である」
http://www.warewaredan.com/contents/bush.html
表題の通り、「ブッシュの戦争」が結果的に世界を共産主義社会の構築へと駆り立てる、という内容。
以下は抜粋。
左翼的正義と国家権力が結合したものをスターリニズムと呼ぶならば、資本主義の必然的な危機を克服するため現在構築されつつあるまったく新しい社会環境システムは、字義どおりのスターリニズムだし、資本主義発展の必然的帰結として登場するという、本来の意味での共産主義なのです。これを全世界に押しつけようというブッシュの戦争は、だから共産主義革命戦争だということになります(ブッシュにその自覚はないでしょうが)。
伝統的価値を、何か自明のものとして称揚するのが右翼思想ですが、ファシズムは、あくまでもPC的ハイテク監視社会を阻止するためのやむを得ざる唯一の方策としてこれを選択します。ファシズムは、資本主義そして民主主義の必然的発展に、少数派による自由のための団結をもって対峙する思想です。
私はファシストとして、「伝統的共同体の再建」という課題を、右翼と共有しています。
「ファシズムの原理」
http://www.warewaredan.com/contents/genri.html
これはまだ未完成原稿であるが、資本主義と民主主義による伝統的共同体の破壊、自由主義と民主主義の対立等についてかなり突っ込んだ内容である。資本主義と民主主義の世界化であるグローバリズムが世界をマルクスの予言通りに共産主義の実現へ向かわせていると主張し、また、ファシズムが自由主義者による選民主義的思想である事を包み隠さず宣言してもいる。
以下は抜粋。
現代の資本主義は、全人類を個体単位で監視するために必要な、高度なテクノロジーを有している。また現代の民主主義は、PC(Political Correctness)を普遍的正義として有している。来たるべき共産主義社会は、この両者が弁証法的に統合されたものとなる。
左翼的正義と国家権力とが結合したものをスターリニズムと呼ぶ。来たるべき共産主義社会は、ゆえにもちろん、スターリニズムの世界国家である。
・「自由の擁護者」としてのファシスト
外山の主張で重要なのは、左翼と国家権力との結合が警察国家化・超監視社会化・超管理国家化をもたらすと指摘している点と、ファシストとはそうした社会に対して抵抗し自由を求める者であると規定した事である。
超監視社会の問題は、2002年の雑誌「新現実vol.1」の東浩紀と大塚英志の対談の中でも取り上げられていた。大塚が古典的な左翼の立場から、超監視社会=自警団社会=戦前=右翼といったステロタイプな連想で右翼批判を断片的に語るのに対し、一方の東は生活の安全を強く求める「市民の声」が超監視社会化を推進する、という実に鋭い指摘をしていた。
そうした市民の動きを、大塚は右翼や国家権力の陰謀と結びつけたがったが、実際は東が言うように「一般市民の意志と国家権力の結合」であり、更に外山的に言えば「左翼的正義と国家権力の結合」である。左翼と言っても大半は自覚のない、単に生活の安全を求めているだけの無辜の市民である。しかし外山曰く、「スターリニストの顕著な特徴は、自らがスターリニストであることにまったく無自覚」である。国家など公的機関による監視や規制を強化していけば、必然的に自由は損なわれていく。しかもそうした強力な監視や規制は、技術の進歩に従って半自動的に容易に強化され、逆に緩和する事は極めて難しい。そうして行き着く先は「スターリニズム社会」というわけである。
東がこの対談で語った、超監視社会についての問題意識は以下のようなものである。
(以下は新現実vol.1 P41〜46から引用)
生活道路に警察がカメラをつけるということが、子どもの安全を守るという理由だけで推し進められていいのだろうか。ぼくは疑問に思うけれど、いまの市民はみんなそれでいいって言うんですよ(笑)。
セキュリティの発想と多様な人々の共存という発想は、遠いようでいて表裏一体なんですね。(中略)通学路に監視カメラをつけるのをやめよう、という議論を立てれば、当然、じゃあ少年犯罪や痴漢はどう防ぐんだという話になる。カメラをつけないんだったら、道徳や懲罰の強化しかない。おそらく「新しい歴史教科書を作る会」の人なんかは監視カメラは嫌いだと思いますね。一人一人が日本人としてぴしっとしてれば、カメラなんかいらないんだと(笑)。
単一文化主義の近代社会は(中略)とにかくノーマライズして「国民」に包摂するという話になっていた。多文化主義のポストモダン社会は、そういう「ノーマライズ」こそが人権の侵害だと考えるから、いろいろなひとに勝手に生きていてください、ということになっている。しかしその代償として求められたのは、そういう多文化主義の空間を安定されるセキュリティの装置であり、要は、本当にアブナイやつは事前に排除しておこうという発想なわけですね。
東のこの問題意識は、外山が言っている事と基本的に同じである。というか外山は東の文章から引用する事がよくあるので、この辺りも東から影響を受けたのかも知れない。
さて、この問題をいかにして解決するかという話になると、東は「市民に監視社会の問題点、欠点を知らしめ、その上で監視社会の是非を判断して貰う」位の事しか言っていない。民主主義を肯定する立場からすれば仕方のない事である。民主主義国家では、絶対多数派の国民が全国民の自由を抑圧する選択肢を支持すれば、そのようになるのである。
一方外山の場合は、「自由を自ら放棄し、他者にも自由の放棄を強要する国民」による民主主義というものを否定する。ここで、「自由の為にファシズムを選ぶ」という一種違和感のある言葉が意味を持ってくる。なお、彼の言う「自由」が「全国民の自由」ではない事は指摘しておく必要がある。多数派国民が彼らの「自由な意志」によって自由を放棄するからと言って、少数派の外山はそんな「自由からの逃走」に付き合う気はないし、多数派が少数派の自由まで放棄させようと欲するなら、そんな連中の「自由な意志」は否定する。しかし民主主義国家では、絶対多数派=国家権力である。従ってそのような状況下では、己が自由を守り抜く為には反民主主義のファシズムしか方法が無い、というわけである。
ファシズム体制がいかにして「多文化主義のポストモダン社会」の不安定を解消するのかというと、外山によればその手段は「ナショナリストとの連帯」という事になるようである。多文化主義から単一文化主義への回帰、その文化が有する伝統的価値観による社会の安定、これが処方箋である。この処方箋を用いる意図は、伝統的価値観それ自体が素晴らしいからではなく、ただただ「自由の擁護」である。ナショナリストは伝統的価値観それ自体を尊ぶが、ファシストは「自由」と「社会の安定」を両立させる為に伝統的価値観を選び、手段として用いるのである。
ここで当然、「単一文化主義や伝統的価値観・伝統的共同体を前面に出せば、その時点で自由が損なわれるのでは?」という疑問反論が出てくるだろう。その問題については外山は、左翼とは異なり別に重大な事とは考えていないようである。例えば天皇陛下の存在に対して、古典的な左翼は「市民抑圧体制の元凶」のように捉えているが、外山は「別に害はない」の一言である。そもそも外山は、戦前の大日本帝国の方が現在の日本よりある意味ずっと自由だったんじゃないかという趣旨の文章をファシストに転向するよりも前に書いているほどである。
戦後偏向教育を糺す!!
http://www.warewaredan.com/contents/b97-2.html
何にしても外山としては、単一文化主義・伝統文化尊重社会の自由抑圧レベルは、少なくとも多文化主義・ポストモダン社会における超監視社会・超管理社会のそれよりも遙かにマシであるという考えなのだろう。
外山のファシズム論や、彼の「前衛芸術家」としてのネタ臭さをどう判断するかは別として、彼が提起した超監視社会・超管理国家の問題と、これを推進する「スターリニスト」の問題は誰しも熟考する必要がある。以前から日本は「理想的な社会主義国家」などと言われてきた。経済的には長年「大きな政府」指向でやってきて、今度は国民の思想や行動の自由を抑圧する方向性がひたすら強化されるとすれば、確かに国家権力の極大化、外山の言うスターリニズムの実現に限りなく近付くという事になろうか。
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