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二度と戦争させてはならぬ
下関・戦争体験者の座談会
武器もなく殺された戦友
2007年4月4日付
敗戦から62年たった今日、焦土の中から立ち上がり平和で豊かな国をめざして骨身を削って働いてきた戦争体験者の努力とは裏腹に、日本は荒れはてた植民地状態となり、新たな戦争の危険すら現実味を帯びてきた。人人の心身に、いまわしい傷痕を残した戦争を体験した世代が、本当のことを若い世代に語り残すことはますます重要になっている。本紙では、下関在住の戦争体験者の座談会を持ち、戦地での生死の境をくぐった体験、原爆、空襲、学徒動員などの体験、戦後の苦労や次代に託する思いなどを気兼ねなく語り合ってもらった。
出席者
池田 節夫(陸軍・中国)
河野 勤治(陸軍・内地)
河野 宏逸(陸軍・中国)
前田 勲(海軍・南方)
安岡 謙治(海軍・テニアン)
徳村 進(空襲・学徒動員)
吉本 幸子(広島被爆)
食べ物もなかった戦地
安岡 私は零戦に乗っていた。テニアンで最後までジャングルでがんばって奇跡的に帰ってきたが、世の中がこんなになってしまったという思いがある。山口県甲飛会会長もやっていて、1年に1回集まっているが、なによりも仲間の慰霊だ。慰霊をやらねば気が落ち着かない。みんな苦労しているので、なによりも平和が1番たいせつだといっている。
池田 私は84歳になる。昭和18年の終わり頃に入隊、門司を出て、北支(中国北部)に行った。15、6の時から、稲刈りが済んだあと教練用の銃に実弾を込めて川棚で野戦の訓練をしていた。そんな教育を受けたから死んでもいいという思いだったが、行軍で朝は一緒だった戦友を晩は焼かねばならなかった。明日は我が身で、涙が出た。
河野(勤) 私は内地勤務で戦地には行っていない。17の時に志願して、足かけ3年、大竹の航空隊に入って飛行機の整備から始めた。館山から最後は松山の航空隊に行き、乙種予科練を訓練した。敗戦で軍艦旗を降ろすとき、頭が真白になり、兵隊にいたときのことをなにもかも忘れてしまった。
私も82歳で先が見えている。国のため、天皇のためと教えられたが、みんなデタラメだった、ウソだった、純粋な気持ちで志願したのに、全部だまされたという気持ちになっている。若い人に戦争を2度とやるもんじゃない、特攻隊の人は笑顔で行かれたというが、肉親の者はみんな涙で別れたということを声を大にしていいたい。
河野(宏) 昭和19年、「航空兵」ということで赤紙が来た。「航空」といってもあの時、もうB29が飛んで来て、北九州の方は爆弾が落とされていた。それで、歩兵に変わって8月20日、山口に入隊した。そこに1週間いて、博多へ行って1晩泊まって、明くる日は釜山に渡った。そこから、軍用列車に乗って、北京から南京の城外、下関(シャーカン)に着いた。翌日、城内に入って教育を受けた。あの頃は武器がなかった。飛行場の使役にも行ったが、加藤隼戦斗機もみんなやられてしまって、すでになかった
3月頃から行軍で300里。初めはワーワーいっていたが、落伍者には綱をつけて引っぱって行くようになった。アメリカの航空圏に置かれて、B29が来て、12発ずついっぺんに爆弾を落としていた。P51の機銃掃射も受けた。
前田 私は87歳になる。当時は、国民の義務として兵役義務があった。「水呑み百姓」といわれる苦しい時代に育ったので、独立心が自然と身についた。当時、子ども心にあちらこちらで事件、事変が続発したのを覚えている。「兵隊で男になってやる」という気持ちで、16歳の時に海軍の航空兵に志願し、昭和12年6月、呉の海兵団に入った。翌月の7月7日、盧溝橋で「支那事変」が起こった。
10月には航空母艦龍驤(りゅうじょう)に乗せられたが、友人が空母のリフトの間に挟まれて死んだ。その後、呉に帰って横須賀から、佐伯、宇佐の航空隊に。16年暮れには、爆発しそうな情勢のなか、零戦部隊として台南の航空隊に移った。12月6日に下士官がこっそり集められて、「明晩夜中12時を期して、米英を相手にして戦端が開かれる。相手の土手っ腹に剣先を差し込め。命をもらった」といわれ、みんな遺言を書いた。いよいよとなると気持ちは動転した。
戦争が勃発したとき、最新鋭といわれた零戦隊は350機程度しかなかった。そのうち台南の航空隊にいたのは30機だった。南鳥島に整備員とわずかの者が行ったが、その留守に本隊はミッドウェー海戦に行った。ミッドウェーでは「帝国海軍の宝」といわれた大型の航空母艦4隻がやられた。私の仲間もみんな泳いだといっていた。箝口(かんこう)令なのか、7月12日にはラバウルに行けといわれた。翌18年の4月18日、山本元帥が私たちのテントの裏からの電報を電波探知機でとられて、雲の中にかくれていたP38に落とされた。
その後、ブーゲンビル島のブインで航空隊に進出したが、その頃は制海権制空権ともとられて身動きができず、昭和19年の初め、航空隊の隊員が駆逐艦に乗せられてトラック島の竹島まで帰ってきた。飛行機はない。食べるものも自給自足で、唐イモをつくったり、爆弾の導火線を引いて浮かんだ魚やパンの木を食べたりしたが、栄養失調になった。
国内は空襲や原爆投下
徳村 先輩方が苦労された時に、小学校、中学校の教育を受けた。77歳になる。小学校を卒業したのが、昭和16年。学校の教科で畑でのイモ作りや野菜作りをやった。小学校時代は、火の山に登ってはいけない、知らない者を見つけたら通報せよなど戦時体制の教育を受けた。工業学校に進み、1年の時はかつがつ勉強を習ったが、戦争がひどくなると、防空壕掘りの毎日だった。
昭和20年、工業学校2年の時に三菱の彦島造船所に学徒動員で行った。そこでも、寮から夜かけこむための防空壕掘りをやらされた。食べるものは大豆ご飯で、大豆の方が多く下痢をするようなものだ。下関空襲の時は彦島から、焼けた町の中を通って家に着いたが、焼夷弾が天井を突き抜けて、畳に突き刺さっていた。
吉本 結婚してすぐの昭和12年7月主人に召集がかかった。山口の42連隊で北支へ出て、2度目の応召が19年5月だった。その時、はじめて下関に空襲があった。4、5機が日和山から撃たれて墜ちたが、当時はみんなわからず、物干しにのぼって手をたたいていた。
主人が久留米から戦地に出るので行って会うことができ、朝5時から6時頃見送った。その帰りに八幡や枝光が空襲にあった。
危ないから広島に帰ったが、次の年の8月に原爆にあった。下関は空襲で岬之町は丸焼けになった。家の奥の方に物資を置くところがあり、岩盤になっていた。あとで、近所の人たちが蒸し焼きになっていたことを知った。家におれば、子どもと2人そういう目にあっていたと思う。
広島が空襲にあわないのはおかしいと、不安だった。昭和20年になってからは、呉に敵機が群れになって空襲するのが見えた。編隊になって来て波状攻撃をするのが、広島まで響いていた。そして、不意を打たれたように原爆にあった。
「銃後の守り」で、主婦は食料を求めるのが1番つらかった。主人が元気で帰ってくることはあきらめていたが、いい具合で帰ってきた。銃後のことはわかるが、外地での皆さんのお話を聞かせてもらいたい。
中国でも米軍機が空襲
池田 昭和19年の1月、御用船に乗って大連から青島を通って、上海まで行った。5月頃に初年兵の教育を受けた。30個師団、35、6万の兵が北支に行った。南方に物資を運ぶために鉄道を引くということで、行軍ばかり。長沙では米軍機が飛んで空襲していた。
揚子江を通ったが、アメリカの飛行基地があった。あとで東京を空襲したことがわかった。米軍の爆撃、機銃掃射で、馬の死体がころがっている。行軍は出発したら、針の上を歩くようなものだ。長沙で戦斗があった。ここで、「大激戦があるから遺言状を書け」といわれた。23歳の時だ。爪を切って、髪を切って妹に送った。そこでだいぶ戦死した。思い出すと涙が出る。戦傷兵は隠すが、戦死者は背中に負うて行くと撃たれる。将校が、来て刀で腕をもいで死体を穴に埋め、腕は雑のうに包んで内地に送った。届いたかどうかわからない。
終戦の時、「銃の菊の紋を消せ」というので、おかしいと思った。あとから「武装解除せよ」という。学校の運動場に兵器を集めて焼いた。馬もとられた。馬が、後ろを向いて鳴く。兵隊も泣いた。復員で帰る時、煎(い)りゴメと白湯だけで、9日もかけて上海まで行った。フラフラだったが、とにかく家に帰らなければと思った。
安岡 昭和16年の終わり頃、今でいえば中学3年か高校1年の年だ。まだアメリカとの戦争が始まっていない時で、みんな飛行機にあこがれた。早く乗れるのが予科練だということで、学校でも先生が「軍人になれ、飛行機がいい」という。それで予科練の試験を受けた。その間に戦争が始まった。
昭和17年4月1日に土浦入隊、航空士官学校のように思っていたが、宣伝ばかりでとんでもない。1番下は4等兵できたえられるだけの毎日だった。「身体と根性をきたえる」ということで、全体責任で「精神注入棒」で尻をたたかれる。夜になったら青血になっている。端艇という大きなボートに乗り、大きな櫂(かい)でこぐが、尻の皮からむける。夜になったら薬を塗って扇いでやったりした。それが第1歩だった。
鹿児島航空隊の時、サイパン、テニアン、グアムへ、ほかの部隊からも同期生ばかり各13機ずつ先発隊で行った。後続の隊は来るのが1カ月遅れたが、パラオへ転進していく。大本営の戦略はしょっちゅう間違っていた。私らは「内地に行って新しい飛行機を持って帰れ」ということで、戦斗機13機が島に残された。そこに、マリアナ海戦だ。航空母艦、軍艦、飛行機あわせて日本は半数にも足らず、勝負にならない。マリアナから私らのところに米軍機が300機くらいで来る。私らはテニアンから13機で突っ込んでいった。弾もガソリンもなくなるし、飛行場は穴ばかりで降りたら最後だ。テニアンで残った飛行機は2機だけだった。おかげで1年間はジャングルだった。
志願して無惨な「戦死」
前田 兵隊に入った年の暮れに、姉に手紙を出した。上官から「おなごに手紙を出した」と、バットでたたかれ、内出血して青ぶくれになった。兵隊にあこがれて「滅私奉公」、お国のために尽くそうという思いで入ったが、「人のいやがる軍隊に志願するバカもおる」といわれた時代だった。入ってはじめてわかった。
河野(勤) 1人行方不明になって発見されたことがあった。みんなの前で戒めだ。いやがる口を押さえて、2升ほど入る水をむりやり飲ませてひっくくって置き、体がふくれあがった。死んだろうと思う。カラスは白いといえば、白いといわねばならない教育だ。そういう残虐なことがある。戦争というのはいけないという観念でやってきた。
前田 志願して行って、名誉の戦死とか表札が出るが、恥ずかしい死に方をした人がいる。そういう人でも家族にわからない。戦争ほど、バカらしいものはないとつくづく思う。下士官がなぐった兵隊が内出血で死んだのを見たが、「こいつはマラリアを昔やったから、戦病死にしておけ」と、明くる朝トラックに積んで裏の山に埋めた。家族は知らない。みんなそのことを聞いて泣いた。そんなことを戦争はさせた。
ラバウルの活火山のふもとの飛行場で、B24の編隊に低空から奇襲された時、日本は当時、電波探知機がないので、邀撃(ようげき)したり、逃げる間がなかった。被害点呼で人員31名が足りない。弾薬庫兼防空壕から3人の遺体が発掘され、骨を拾った。戦死したと思われる他の者の分も含めて遺骨の配給ということで、私の班の者の1名分をもらって帰り、通夜でもしてやろうと準備していたら、分隊長が来て、「防空壕に入るのを見た者がいるのか。行方不明で遺骨があるはずがない。捨ててしまえ」といわれた。まだ、18から19の若い男だった。こんな悲しいことはなかった。
体験の真実を伝えたい
池田 昭和21年4月に帰ったが本当のことがいえる。死なずによかったとつくづく思う。でも、ミッドウェーでやられて海に流された経験を語り「こんな世の中になるんやったら、生きるんじゃなかった。戦友といっしょに死んだ方が良かった」という人もいる。
吉本 私らも原爆の体験をいえなかった。原爆にあっても、負けたんだから「無条件降伏」ということで悔しかった。差別ということもあって、子どもや孫たちのことを思っていえなかったが、皆さんのまえで被爆のことを語る機会があった。小さな子どもたちがシンとして聞いてくれて、「ありがとう」といって送ってくれた。その時はじめて、やはり子どもさんたちのためにも私たちが本当のことを、戦争の話をしなければならないと思った。子どもから勇気をもらった。
その時から、被爆者の集まりが1人2人とふえて、会を再建しなければならないということで、長周さんの協力を得てここまできた。会の人たちは恥ずかしかったが、みんな必死に語ってきた。広島、長崎を動かさなければならないと、福田さんの運動をお聞きしてから、強く思うようになった。
河野(勤) 戦争に行く首相なんか、広島には来なくていいと声をあげねばならない。下関の六連島の問題やいらない道路は、税金のむだ遣いもいいところで、最後は岩国と同じになる。
吉本 下関でも、皆さんの力であるかぽーとの議案が否決になったように、国の問題でも国民の力でいけないことはいけないということになるんじゃないかと期待している。
前田 自分の経験をいえば、自慢するといわれたりする。学校の先生の威厳がなくなり、子どものいじめ、自殺とか殺傷事件が出る。社会が余りにも乱れている。まわりを見ても、私が最高年齢者で、戦争が始まってからの状況を知るものはいない。体験をいい伝えていきたい。折りがあればそういう場を持ってほしい。
吉本 1度で語れないことがある。レイテ戦に特攻隊で出た従兄弟が、安岡さんと同じ年だった。人ごととは思えない。
安岡 また、じっくり語りあえる場を持ちたいですね。
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