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分権自治の根源は議会にある「改革派知事」待望は水戸黄門幻想だ=片山善博 [中央公論]
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投稿者 white 日時 2007 年 3 月 28 日 16:18:00: QYBiAyr6jr5Ac
 

□分権自治の根源は議会にある「改革派知事」待望は水戸黄門幻想だ=片山善博 [中央公論]

▽分権自治の根源は議会にある「改革派知事」待望は水戸黄門幻想だ=片山善博(その1)

 http://seiji.yahoo.co.jp/column/article/detail/20070328-04-0501.html

2007年3月28日
分権自治の根源は議会にある「改革派知事」待望は水戸黄門幻想だ=片山善博(その1)
今春の統一地方選を機に、改革派と呼ばれた知事がまた姿を消す。
地方自治の後退を防ぐには地域住民の意識改革こそが必要だ
「改革派知事」とは、どのような人々を指すのだろう。
 議会の根回しをせず、情報公開も徹底する。もしそのような知事だとすると、私の知る限りまずいない。
 メディアは何人かの名前を挙げて「改革派」と呼んでいる。だが、私にはそうした知事がすべて改革派だとは思えない。全国の首長の中には、「選挙に通りやすいから」と、改革派を詐称する人までいるのが実情だ。
 一つの指標がある。オンブズマンのチェックを進んで受けるかどうかだ。私は入札制度のチェックで鳥取市民オンブズマンに協力を仰いでいる。だが、「改革派」と呼ばれる首長に尋ねてみても、オンブズマンと関係することさえいやがる人がほとんどだ。
「改革派」とはそのような実態にある。

“水戸黄門”よりチェック機能を
 一連の官製談合事件や北海道夕張市の財政破綻など、このところ地方自治体を巡る不祥事が頻発している。しかし、これらは日本の地方自治が抱える病理を象徴しているに過ぎない。それはチェック機能がまったく作動しないという問題である。
 和歌山県では、談合事件で知事が逮捕された。選挙でしがらみを作り、公共事業でお返しをしたと報道されている。首長およびその周辺に問題があったことは間違いない。だが、一定規模以上の工事発注は、議会が一件ごとに審査する仕組みになっている。問題の工事も議会ではすんなり通っていた。要するにチェック機能が働いていなかったのだ。福島県で前知事が逮捕された談合事件も、夕張市の財政破綻も、議会のチェック機能がまったく働いていなかったという点で構図は同じだ。
 こうした問題で、まずメディアが取り上げるのは首長のモラルである。確かにそうだろう。しかし首長には「外れ」の人材を選んでしまうこともある。その時にバックアップする装置が議会だ。「外れ」とまではいかなくても、権力は腐敗しやすく、間違いも犯しやすい。だが、議会がしっかりしてさえいれば、それを正せるし、むしろ凡庸な首長であっても七〇点ぐらいの自治体運営はできる。そうなれば、改革派の首長など不要なのだ。
 だが、現実には議会は機能していない。傑出した英明な首長を望み、改革をその人に依存してしまうような風潮が、だからこそある。マスコミが一部の知事を「改革派」ともてはやした背景を、私はそう分析している。
『水戸黄門』というテレビの時代劇がある。「改革派知事」ブームはこれに似ていた。水戸黄門の事件解決は鮮やかだ。だが、その地域の構造的な改革にはつながっていないので、一行が去ってしまえば、また同じ問題が起きる。だからテーマは絶えることなく、長寿番組にもなる。水戸黄門の悪いところは、そのつまみ食い的な問題解決をみんながもてはやし、すっきりした気持ちになってしまうことだ。
「改革派知事」とは、こんな水戸黄門を待望するメディアの幻想だったのかもしれない。

県政に「常識」を持ち込んだ
 私が鳥取県政で行った改革は、ひとことで言うと構造部分のノーマライゼーション(正常化)だった。
 その大きな柱は透明化だ。自治体は主権者たる住民のためにある。ならば情報は共有するのが筋だ。ところが行政は隠蔽体質に冒されていた。これではノーマルな政策形成ができない。一部でコソコソと決め、住民には結論を押しつけるだけでは当然満足度が低い。
 そこですべてを公開して物事を進めるようにした。異論反論を出し合い、比較しながらよりよい結論に導くよう努めたのだ。そうすると職員の側でも隠し事をして暗い顔をしているよりは、「こちらの方が楽だ」と分かったようだ。公開体質はすっかり定着した。
 こうした情報公開が財政を救ったこともある。就任時の県庁には、様々な土木建築事業の計画があったが、財政悪化は目に見えていた。そこで私はほとんどのハード事業を白紙に戻すことにした。なかには事業費が二四〇億円もするダム計画があった。これについては、費用や効果などを情報公開した上で、「本当に必要ですか」と問い直した。議会の選択は「要らない」だった。田中康夫・前長野県知事が脱ダム宣言をする半年前のことである。ローカルニュースとして小さく扱われただけだったが、私は議会の賢明な判断だったと思っている。
 予算の使い方については、全国の自治体で住民の意向との間に乖離が生じている。これは行政と議会が非公開体質で決めてしまうのが原因だ。そのため鳥取県では、予算編成過程を財政課長、総務部長、知事の各段階から、査定理由も含めてすべてホームページで公開するなどしている。
 予算を年度末に使い切る慣行もやめさせた。これだけで昨年度は一一〇億円以上が節約できた。
 私は決して難しいことをしているのではない。常識に照らして「変だな」と思うところを直しているだけだ。それが「改革派」と呼ばれるほど、自治体は異常な状態に置かれているのだ。
 ただ残念なのは、改革が隅々まで完全に行き渡らず、一部の出先機関などで昔ながらの体質が残っていたことだ。昨年、経理の簿外処理が発覚したのである。しかしこれも今回一掃したので、二度と起こることはないだろう。

改革の本丸は議会である
 ところで、構造的ノーマライゼーションのターゲットは議会でもあった。
私は就任直後、県議会に「八百長と学芸会はやめよう」と宣言した。
これは全国どこの議会にも同じ問題があるのだが、議決結果は議会が始まる前に決まっている。根回しで多数会派に了解をもらってから開会するからだ。これでは八百長でしかない。
 また、質問と答弁の摺り合わせを行っている議会も多いはずだ。議員と執行部が質問と答弁を見せ合う。議員が「それではもの足りないので、もっと色をつけろ」と要求する。そのようにして調整した原稿を、議場で互いに一字一句間違わないように読んでいる。あたかも学芸会のような議会も決して珍しくはない。
 なぜこのようなことになるのか。それは、首長が議案を無傷で整然と通そうとするからだ。「変な質問はしないでくれ」と根回しすると、結果的にこうなる。これでは議会のミッション(使命)を捨てるようなものだ。問題のある議案は否決し、あるいは修正する。それが本来の役割だろう。だから私は「オープンに議論をして決めよう。議案は傷だらけになってもいいので、そのかわりちゃんと議論してほしい。そして結果には責任を分かち合おう」と議会に訴えた。「傷」とはいっても、議案は修正されれば、執行部が気付かなかった問題が解決される可能性も高い。本当は傷ではなく薬なのだ。
 そうした改革の結果、鳥取県議会では議案が否決されたこともある。同じ課題に知事提案と議員提案の条例が並んだこともあった。そうした場合には、両方のいいところを取って成案にすれば、県民にはより良い案が得られる。
 また、議会については口利きの問題にも対処した。
職員の採用試験や、入札業者の指名で、便宜の取り計らいを求めるなど、口利きが議員の仕事だと勘違いしている人が全国には多い。たとえば大阪市では、職員アンケートで「(市民病院の)診療や入院の順序が議員にゆがめられている」という回答があったと報道されていた。議員の仕事は、「割り込み」の口利きではなく、長い順番待ちがなくなるようにシステムを改革することだ。
 だが、口利きといっても、なかにはいいものもある。「地元の道路が壊れていて高齢者や子供に危ない。修理すべきだ」というような意見だ。
 鳥取県では、議員の口利きはすべて記録に取り、情報公開の対象にした。そうすると興味深いことに、いい口利きだけが残るようになる。
 このような形で鳥取県議会の改革は、議員と私の共同作業で進んでいる。

普通の市民は行政参画できない
 全国に約一八〇〇も自治体があれば、いい議会もあれば、悪い議会もあるのが普通だろう。ところが、わが国ではほとんどの議会が機能マヒに陥っている。これは制度に問題があるからではなかろうか。 
 その原因の一つとして挙げられるのは、立候補できる人の問題だ。今の議会には、会社員や教員は実質上立候補できない。選挙に出るや、仕事を辞めなければならないからだ。結果として議員は、自由業や農業、会社経営といった一部の職業の人が多く選ばれるようになっている。これでは特定の属性が過剰に代表されてしまう。
 私は知事になる前、東京都目黒区の国家公務員住宅に住んでいた。ある時、PTAで「区の教育予算は乏しすぎる。誰かを区議会議員に出して現状を変えよう」という話になった。私は旧自治省に勤めていたので「適任ではないか」と言う人がいた。だが、私が立候補するには、国家公務員を辞めなければならない。そうすると国家公務員住宅を出なければならないので区民でさえなくなってしまう。つまり、普通の市民は行政に参画できないシステムになっているのだ。
 こうした現状に対するアンチテーゼとして、私は知事になってから一つの試みを行った。
 鳥取県の最西部に日野郡がある。県庁から最も遠く、高齢化・過疎化が進んでいる地域だ。解決すべき問題は山積みになっている。ところが、人口が減っているため、県議会の定数も減ってしまった。今春とうとう一議席になる。これでは切実な住民の声が県政に届きにくい。そこで私は郡のエリアに「郡民会議」という議会のようなものを作った。この条例を提案した際には、県議会も独自に地元公聴会を開いて住民の声を集め、知事提案を修正するなどした。議会の知恵がかなり反映されたシステムになっている。
 定数二四の「議員」の選出方法は、既存の議会とはかなり違う。抽選である。しかも、世代を三つに分けたクオータ制(割り当て制度)で、老若男女が均等に選ばれる仕組みにした。そうすると、町村の議会とは大きく異なる顔ぶれが選出された。取り上げられるテーマも、教育や福祉など日常生活に密着した問題が多い。選出される方法の違いによって、意見もこんなに違うのかと目を見張る思いだった。 
 ただし、郡民会議には議決権がないなど地方自治法上の限界がある。既存の議会と比較して一長一短あるが、少なくとも日本の地方議会の多くに見られる機能不全を打破するヒントにはなると思う。
(その2へ続く)


▽分権自治の根源は議会にある「改革派知事」待望は水戸黄門幻想だ=片山善博(その2)

 http://seiji.yahoo.co.jp/column/article/detail/20070328-05-0501.html

2007年3月28日
分権自治の根源は議会にある「改革派知事」待望は水戸黄門幻想だ=片山善博(その2)

心残りな市町村議会
 知事として心残りなのは、その市町村の議会のノーマライゼーションだ。
 住民にとって一番大切な仕事を行っているのは市町村である。できれば、県議会に続いて、市町村の議会も、と意気込んだが、所詮は違う団体なので限界もあった。
 市町村議会改革のために、ある仕掛けをした。「鳥取自立塾」を毎夏、開いたのである。議会のミッションや役割を、議論し学び合うための研修プログラムだった。これには全国から大勢の議員が参加してくれた。「夏は鳥取で英気を養おう」という言葉まで生まれた。塾生の方からは知事退任後も続けてほしいという手紙をいただき、その旨を直接伝えに来られた方もいる。全国に「改革」の輪が広がったのはありがたいことだ。ただ、本命の県内からは参加者は必ずしも多くなかった。
 私は、この市町村議会の改革こそが自治体改革の鍵だと確信している。
 地方分権というと、権限や税財源の移譲だといわれる。確かにそうなのだが、これはあくまで手法でしかない。権限が知事や市町村長に移ることだというメディアもあるが、これも一面だ。重要なのは、これまで中央官庁の役人が決めていたことを、地方議会に移し、住民の手で決めてゆくことなのだ。具体的には、法律で決めていたことを条例で決めることになる。国庫補助負担金の差配で国の役人が決めていたことも、自治体の一般財源に移して市町村で決める。自治体で条例や予算を最終的に決めるのは、自治体の議会だ。すなわち地方議員こそが肝要なのだ。
 ところが、地方議会で決めるとなると、途端に反対を唱える人が多くなる。
 たとえばドメスティック・バイオレンス(DV)の問題だ。被害者支援には厚生労働省の補助金があるのだが、私はこれを自治体の一般財源にして住民で使い方を決めた方がいいと思っている。国の補助要綱などに縛られることなく、実態に即した使い方ができるからだ。ところが、実際に支援に当たっている人からは猛反対された。「自分の自治体に決定権を移されたら、全部公共事業に回されてしまう」というのだ。確かにその可能性がないことはない。だからこそ、自治体の議員の選び方に、もっと関心を持たなくてはならないのだ。首長だけにスポットライトを当てて、スーパーマンをトップに据えようとばかり願うのではなく、身近な政治課題にきちんと取り組む議員を増やすのだ。でなければ、いつまで経っても本当の自治は住民の手に取り戻せないだろう。
 最近騒がれているいじめ問題でも、ポイントは実は地方議会だ。
 現在、中央教育審議会などでは、地方の教育委員会が十分に機能しないことが問題とされている。機能回復には国の関与を強めるべきだとする意見も出ている。
 地方の教育委員会がちゃんと機能していないとすれば、それは教育委員の品質管理が十分にできていないからだ。では人選はどのようにして行われているかというと、首長が選任し、議会が同意を与えているのである。つまり、結局のところ議会が決めているのだ。議会がきちんと吟味しないから、機能を果たさない教育委員会も出てくるのである。教育改革は、まず地域の教育に、その地域の住民およびその代表が責任を持つことから始めるべきなのだ。

改革派、長くやったらただの人
 私は今春の統一地方選には、三選出馬しない。この四月の任期満了とともに、二期八年で退任する。
 首長は全力投球すれば二期が限度だと、就任する前から考えていた。これは駅伝を全区間一人で全力疾走することができないのと同じことだ。逆に言うと、長い区間を何回も走れる人は、全力疾走していないのだろう。
 この八年間、私はすべての事柄に清新な気持ちで当たってきたつもりだ。だが、同じサイクルを一〇回も繰り返せば、いかに心掛けようとも、はつらつさは失われてくる。
 また、一つの組織にトップが長くいすぎると必ず弊害が出る。鳥取県でも私がさらに知事を続ければ、そうなりかねない。組織は、トップが仕事をしやすいように変えなければ仕事にならないが、あまりに長くなると、逆に特化して汎用性がなくなる。そして、病理現象が出る。
「長くやらないとできない仕事がある」と主張する首長もいる。だが、八年でできないことは、一二年やってもできないだろう。それなら別の人に任せた方がいい。米国大統領でさえ任期は八年までなのだから、八年で物事が実現できないなら、米国の国家制度は破綻していなければならない。
 イノシシも一〇年飼えば豚になる。改革派も長くやれば普通のおじさんになってしまうだろう。
 ただ、迷いはあった。全国の知事の中には交付税や権限移譲など華やかなことに関心を持つ人は多いが、障害者福祉や男女共同参画、DV被害者支援、司法制度改革、図書館の問題などに取り組む人はごく少ないからだ。そうした関係者から「辞めないでほしい」と言われると悩まざるを得なかった。「もう一期やろうか」と思ったこともある。だが、あと四年続けても現状は変わらないだろう。そう思い直し、初志を貫くことにした。
 全国知事会で行動を共にした知事も、自治体から多選の弊害を排除しようという主張の持ち主が多かったからか、次々と退場した。浅野史郎・前宮城県知事、北川正恭・前三重県知事、増田寛也・岩手県知事といった人々である。
 彼らは「闘う知事会」を作り上げた仲間だった。改めて振り返ると、闘う知事会の実態は、実は少数派の知事によるクーデターのようなものだった。
 総務省は破綻法制に象徴されるように、自治体への関与を強めようとしている。他省には分権を求めているのに、正反対の態度だ。その総務省に知事会はべったりだ。それに対して、私たちが梶原拓・前岐阜県知事を知事会長に据えて知事会をいわば乗っ取った。そして、総務省との間に距離を置くこととした。この動きは、決して四七人の知事の多数派だったわけではない。その証拠に梶原会長の退任後は、また元に戻ってしまった。今やクーデター後の反革命の状態にある。このままでは中央集権はさらに進むだろう。住民の代表である地方議会がチェック機能を作動させるという、本来あるべき姿とは逆の流れが着々とできあがっているのである。
「クーデター組」の知事は、二〜三期で次々と退任しているので、私たちと志を同じくする知事はどんどん減り、ほとんど皆無になってしまった。ぜひ後に続く人が出てきてほしいとは願っているが、「闘う知事会」はひょっとしたら歴史のあだ花に終わってしまうのかもしれない。だが、歴史が動く時とは総じてそうしたものだ。そして第二革命が起きるのも常である。

地方自治は「絶えざる運動」
 自分自身が力を入れてまいた種が全国で少しずつ広がり、芽を出しつつある面もあるのはうれしいことだ。
 たとえば図書館だ。「司書不要」と公言する知事もいるが、司書にはレファレンスという重要な役割がある。これを含めて図書館の重要性に着目する知事が出始めたと、図書館学を専攻する学者から聞く昨今だ。
 鳥取県では昨年、災害対策の失敗事例として米国のハリケーン・カトリーナからの教訓を学ぼうと考えた。そこで現地入りした日本政府の調査団などの報告書を取り寄せてみた。しかし、氾濫した河川の堤防の構造分析など専門技術に関するものばかりで、あまり参考にならなかった。私たちが知りたかったのは、事前の準備や、復旧の初期対応、被災者ケアなどの失策だった。そこで県立図書館の司書に、英語の文献の取り寄せを依頼し、要約したり、分析したりしてもらった。すると実際に現地調査を行ったに匹敵する資料ができたのである。
 行政に司書機能を生かすだけでこれほどの成果が出るのだから、図書館は活用次第でどれほどの潜在力が秘められているのだろうと思う。まだ小さな動きではあるが、広がってほしい。
 DV被害者支援も、担当の山本有二大臣が県内に視察に来られた時に現場を見てもらうなどした結果、内閣の再チャレンジプログラムに採用された。
 少しずつ、いろんな動きが生まれている。
 よく聞かれる質問がある。私が退任した後も「改革」は受け継がれるのか、というものだ。
 私には分からない。ついえるかもしれない。今以上に進むかもしれない。
 だが、改革を進めるかどうかは、住民次第だ。せっかくノーマライゼーションを進めても、組織は放っておくと弛緩する。議会も同じだ。住民が関心を持って見張っていけば、少なくとも行政や議会は緊張し続けるだろう。
 地方自治には完成はない。ましてや一人のトップがそれを目指すべきものでもない。住民による、住民のための、絶えざる運動だと、私は信じている。だから常に腐敗したり、堕落したりする危険性をはらみながら、清新な状態に保っておく努力が必要なのだ。「後戻りさせたくない」と思うならば、一人一人が行動し、良質の首長を選び、見識の高い議員を選んでゆくことが必要だ。地方自治は、終わりのないムーブメントなのである。
(かたやまよしひろ/鳥取県知事)

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