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http://hemmi.info/article/34443961.html
【第1問】 人びとはそれをどのような人間動作をもってなしとげたのであろうか。つまり、それぞれはそのとき、どのような姿勢をとったのか。それを命じた者は、命じられた者たちの動作、姿勢をどのように想い描いたのだろうか。胸になにも想い描かなかったとでもいうのだろうか。いかなる意思と感情が、だれに対し、どのようにはたらいたのだろうか。あるいは、そこには意思も情緒もなかったというのか。これらの所作から演繹しうる「国家」とはいったいなにか。
「法」とはなにか。私とその「場」になんらかの関係はあるか。それは解消可能な関係か。そこにあったであろう垂線とははたしてなにか。
2006年12月25日、聖誕祭の朝に、この国は4人の死刑囚に対し絞首刑を強行した。4人のうち2人は70歳以上の老人であった。さらにそのうち1人は、彼の遺書によれば、自分で立つことも自力で歩くこともかなわない病者であったという。
これは忘却にあたいする事実であろうか。これは無限の想像にあたいしないことがらであろうか。
【第2問】 その昔、ある詩人は記した。「しかし、裁く側は本来〈非人間〉である。それは、人間以上の地位をあえて占めることによって、人間以下となる。裁きの場においては、つねに裁かれるもののみが、人間の名に値する位置をたもつ」。これは、「裁きの場においては」という限定つきである。おそらく、そうなのであろう。詩人はかつて異境で一方的に裁かれたことがある。
孤立無援のその体験もあり、「沈黙して裁きに服する時」にのみ、人はその名にあたいする位置をたもつのだ、とも彼はいう。私はいま、裁判官、被告、検事、弁護人、刑吏、教誨師のいずれの位置にもいない。だが、被告以外の役割は、私による暗黙の委託によりなりたっている、とはいえないか。したがって、第1問における国家による老人惨殺の背後にも、私による暗黙の委託と承認があった、と考えることもできるのではなかろうか。孤立して死に臨むことを余儀なくされた者以外は、みな暗黙の結託をしているのではないか。すなわち、われわれには恐るべき黙契が存在するのではないか。〈やつらを殺しても異議はとなえず、言挙げしない〉というtacit agreement。私と法相、法務官僚、検事、拘置所長、刑吏、教誨師、新聞記者、果ては処刑に反対しない坊主や牧師ら・・・との黙契。あるいは私による私自身との黙契がありはしないか。
〈やつらを殺しても異議はとなえず、言挙げしない〉。このうるわしき黙契により、世界の狂気はいま、あくまでも整然とみなに共有されてはいないか。
【第3問】 憎悪も肉欲もない、たんなる衝動ですらない、金品めあてでもない、精神の痙攣でも狂乱のすえでも倦怠か虚無のはてでもない、すべての情動を無化した、凍ったピアノ線のような国家の殺意こそ激しく憎むべきではないか。だがしかし、凍ったピアノ線の透きとおった先端は、私の胸底のどこかと知らずつながっていはしないか。
【第4問】 「社会というものは、全体的にみれば、各人が死刑執行人であると同時に犠牲者であるように作られている」というジャン・グルニエの省察に瑕疵はないか。私を死刑執行人とも犠牲者とも意識させないもの――それが国家との全民的黙契ではないか。黙契を破棄するにはどうすればよいのか。
【第5問】 今後は絞首刑の執行をテレビで全国津々浦々に実況中継すべきではないか。正視できない、あまりに酷すぎる、無残だというのならば、放送ではなく死刑を即時廃止すべきではないか。そうできぬものはなにか。私には黙契を完全に反故にする覚悟があるだろうか。(続)
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