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先の戦争での戦時性奴隷制度(従軍慰安婦)をなかったことにしようとする、安倍政権のヒトビト。
「拉致問題は終わった」とするショーグン様とその愉快な下僕達。
そして、自国の兵士の犠牲は気にするが、詐欺みたいな戦争に加担し、今なお殺され続けているイラクの人々に謝罪する気もない米国の政治家達。
被害者の痛みがわからんという意味では、皆、同レベルのヒトデナシだ。
肌の色が何色だろうと、話す言語が何であろうと、人命は尊いし人権は守らなければいけないもの。命とは、人権とは、本来そういうものではないのだろうか。
自分とは異質な存在だから、として他者の命や人権を認めないくせに、自分達だけそれらが守られるべき、と主張するのは、大人気ないのではないだろうか。
先の戦争での性暴力といえば、私も駆け出しの頃、こんな記事を書いたっけ。『アジアウェーブ 』という小さな雑誌に書いたものだが、現在は入手困難であろうと思われるので、ここに転載しておく。
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正義を求めて 元「従軍慰安婦」の手紙
今年4月、政府系財団法人「女性のためのアジア平和国民基金(「アジア女性基金」)」宛てにフィリピンから1通の手紙が送られた。
それは同財団が旧日本軍によって「従軍慰安婦」にされた人々へ送る「アジア女性基金」からの「償い金」の受け取りを拒否するものだった。この手紙を送ったのはフィリピン・パナイ島のサンホセに住むトマサ・サリノグさん(73)。92年にラジオの呼びかけに応じて名乗り出たフィリピン人元「慰安婦」の一人だ。「ロラ・マシン(マシンおばあちゃん)」と呼ばれる彼女が求めているのは、「償い金」ではなく、日本政府が法的責任を認めるという、正義の達成である。
砕かれた尊厳
「あれは私が13歳の時でした。夜、私と父が寝ていると3人の日本兵が家にやってきて私を連行しようとしました。止めようとした父は刀で首を切りつけられ、私が助けようと駆け寄り抱き起こすと頭がなくなっていました。泣き叫ぶ私を兵士達は容赦なく家から引きずり出しました」「その後、私は日本軍駐屯所近くの家の1室に閉じ込められ、毎日2人から5人の兵士に強姦されました。自分が正気を失ってしまったと思えることもありました。ただ座って何時間もぼんやりと宙を見つめ、父のことを思い出していました」。
1942年の6月頃、ロラ・マシンことトマサ・サリノグさんは日本兵に拉致され、唯一の肉親だった父親を目の前で殺された。約半年の間、サリノグさんは監禁され「慰安婦」とされる。兵士の隙を見て脱走したが、別の軍人に捕まり日本軍が撤退する1945年まで性奴隷として虐待され続けたのだった。
尊厳と正義のための苦闘
太平洋戦争時、フィリピンでは日本兵によるゲリラ討伐とともにレイプ事件が多発した。ルソン島のマパニケ村では男性は拷問のあげくに殺され、女性は現在も生存し被害が確認されているだけでも40人以上がレイプされた。また、サリノグさんのように拉致監禁され長期間、性奴隷としての苛酷な生活を強いられた女性たちも数多くいた。
元毎日記者の作家・故千田夏光氏の調査によると、マニラだけでも400人以上のフィリピン人「慰安婦」がいたとされる。
このような被害は長い間語られることがなかったが、91年に韓国の女性たちが「慰安婦」問題での連帯を訴え、それを受けて翌92年にフィリピンの女性団体が「フィリピン人元『慰安婦』のための調査委員会」を結成。ラジオで元「慰安婦」に名乗り出てほしいと呼びかけた。
心の傷から結婚もできず、母親の形見のミシンを使っての洋裁で生計を立てていたサリノグさんも、呼びかけに応じて立ち上がったのだった。
しかし、サリノグさんの正義と尊厳の回復を求めるためのたたかいは困難を極めた。93年に日本政府に賠償を求める裁判の原告の一人になったが、98年に東京地裁で訴えは全面棄却された。この時サリノグさんは「恥ずかしくて村に帰れない。このまま死んでしまいたい」と泣いた。さらに2000年12月、東京高裁も控訴を棄却した。
一方、日本政府は95年に財団法人「女性のためのアジア平和国民基金」を設立し、国民から寄付を集めて元「慰安婦」に一人当たり200万円の「償い金」を渡す事業を始めた。「償い金」を使って責任逃れしているともみえる日本政府の姿勢に、アジアと日本の女性団体やNGOから批判が高まった。日本政府は、元「慰安婦」被害者への賠償や加害者の刑事責任を追及するべきだ、という国連人権委員会などの勧告に真っ向から反発し、日本国家の法的責任を認めないまま、フィリピンでの「償い金」事業を押し進めた。
フィリピンでは多くの元「慰安婦」が貧しく、韓国や台湾と異なり政府が元「慰安婦」に経済的な支援をしていない。法的責任回避した「償い金」であっても現在の生活のために仕方がないと、受け取りを希望する被害者が続いた。「償い金」はフィリピンや他のアジアの被害国で、また日本でも、被害者と支援する側に大きな混乱を招いたのである。
ロラ・マシンの決意
サリノグさんは「償い金」を拒否する姿勢を表明していたが迷いもあった。棄却、控訴と永久に続くかのような法廷闘争。地主からは道路開発のために60年近く住んできた家からの立ち退きを求められていた。そのような時、サリノグさんの活動を支えてきた日本人のうちの一人の女性が白血病で倒れたと聞いた。サリノグさんは「償い金」をもらってでも、今度はその女性を助けたいと思った。
だが転機が訪れた。2000年12月、東京で開かれた「女性国際戦犯法廷」の原告として自分の体験を証言し、裁判官はそれを認めてくれた。白血病にかかった日本人女性も快復し、元気な姿で再会を果たした。サリノグさんの迷いは消えた。今年4月、サリノグさんは「アジア女性基金」宛てに手紙を書く。
「私は東京で「女性国際戦犯法廷」に参加し、正義が達成されたという感覚を、やっと感じることができました。これまでは決して感じることのできなかった気持ちでした。私はまた、アジア女性基金が提供してくださるという償い金では、私が女性として受けた権利の侵害、重大な諸犯罪の埋め合わせには決してなり得ないとことにも気づきました。日本政府は、戦争中に日本軍が私の父や私に対して行ったことについて責任をとるべきです。
(中略)
私はアジア女性基金のお申し出を受けないことに決めました。これで私は残された日々を、正しいと思ったことのために立ち上がったのだと満たされた気持ちで生きていくことができます。どうぞご理解いただけますように。ご親切な申し出有難うございました」。
マシンおばあちゃん
フィリピンの人々は、サリノグさんを敬愛の意をこめて「ロラ・マシン」と呼んでいる。ロラとは「おばあちゃん」の意味、マシンとは年配の女性によくあるニックネームだ。現在ロラ・マシンは最高裁で正義を求めるたたかいを続けている。そして、彼女のたたかいに共感し連帯する人々によって、サンホセの地に「ロラ・マシンの家」が建てられようとしている。
2001年12月
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