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(回答先: 《声明》柳沢厚労相の発言に対する日本女性学会の意見書([低気温のエクスタシーbyはなゆー]から転載) 投稿者 gataro 日時 2007 年 2 月 05 日 20:18:53)
「人間選別工場〜新たな高校格差社会〜」(斎藤貴男著;2005年12月出版)(http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4886835589.html)より一部抜粋(p157-160)。
東京が教育改革の先陣を切っている背景には、石原知事の特異なキャラクターがあった。
彼は就任早々に身体障害者の施設を視察に行った。そして、施設で働く人たちを評して「あの人たちに人格あるのかね」と吐いた。当時、あまりの発言に多くの人がショックを受けた。
それにつづいて自衛隊の練馬駐屯地で、隊員たちを相手にまた暴言を吐いた。災害が起きたとき「第三国人」が騒擾を起こすだろう、そのときは諸君らの出番だと「激励」したのだった。
「第三国人」という言葉は、戦後の日本ではあからさまな差別用語として使われてきた。戦中派世代の石原知事が知らないはずがない。おそらく彼の脳裏には、関東大震災の際の朝鮮人大虐殺事件が浮かんでいたことだろう。
多くの人に糾弾されながら、石原知事は未だにこれらの暴言の謝罪をしていない。
また2001年には、女性週刊誌(『週刊女性』11月6日号)でいわゆる「ババァ発言」をしている。宇宙物理学の研究者である松井孝典氏と対談したときの話を紹介する形で、とんでもないことを言った。「年をとって子どもを産む能力がなくなった女性が長く生きていることは罪だ」と松井氏が言った、と「紹介」したのだった。おまけに、自分も同感だと言って女性の高齢化が文明を衰退させていると暴論を展開した。
しかし、この「紹介」が全くのデタラメなのだ。じつは松井氏の考えはこれと全く逆で「おばあさん仮説」といわれるものである。それによれば、人類がここまで発展することができたのは、年をとって子どもが産めなくなった女性がその後も長く生きることができたからだ。つまり、そうすることによって次の世代の赤ちゃんが産まれやすくなった、次の世代にとって子育ての参考にもなるし、母親だけでは大変な子育てをお婆ちゃんがみてあげることもできた。だからこうやって文明は伸びてきたんだというわけである。
松井氏の言葉尻をあえて意識的にねじ曲げ、「年をとった女は死んでしまえ」「生きる価値などない」といわんばかりに幼稚で残酷な言説を振りまく。石原知事はこうした言葉による乱暴狼藉を、公人の立場で、衆人環視の中で働いたのだ。これは女性ばかりでなく多くの人の心を傷つけ侮辱するものだった。
とりあえず131人の人々が法的手段に訴えて知事の責任を追及することになった。名誉毀損による損害賠償請求として東京地裁に訴訟を提起したのだ。 2005年2月に言い渡された判決は、知事の発言は原告131人を特定した発言ではないという法論理上の理由で、請求を棄却した。だが一方で判決には、仮にも公人である人間が、憲法にも男女共同参画基本法にも国際人権規約にも違反する発言をしたことは遺憾であるという但し書きもついた。また判決文は、知事が松井氏の説をあえて曲げて紹介している事実を指摘した。
記者会見で判決の感想を問われた石原知事は、最初はノーコメントで通そうとしたが、さらに質問されると、自分はただ人の話を紹介しただけだと居直った。この話を聞いて、卑劣が服を着て歩いていると思ったのは私だけではないだろう。
私が憂鬱なのは、世論調査ではそれでもなお石原知事が多くの人に支持されている現実である。これはいったいどうしたことだろう。
マスコミが事実をきちんと報道していないことも背景にある。だが、もっと大きな要因は、虐げられた人々のあいだで、強そうに見えるものにおもねる気分が広がっていることではないだろうか。生活や仕事に追い詰められ、自分の居場所を見失ってしまった人たちが増えている。その人たちは、自分を救ってくれるかもしれない強そうなものにすがりつきたい、そんな思いを強くいだいているのではないか。
強いものにおもねる心情は、一転して自分よりもっと弱い立場の者をいじめたい「という衝動にも通じていく。強者へのおもねりと弱者への攻撃、この二つの心情はウラとオモテの関係にあるものなのだ。私はいま、こうした浅ましい心性が日本中を覆っているのだと思う。
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