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http://tizu.cocolog-nifty.com/heiwa/2007/01/243_20b6.html から転載。
01/28/2007
第243号 時代閉塞の現状
>日々通信 いまを生きる 第243号 2007年1月28日<
発行者 伊豆利彦
ホームページ http://homepage2.nifty.com/tizu/
時代閉塞の現状
安倍首相の所信表明は予想通り空虚な<美しい国>というコトバをくりかえす無内容なものだった。新聞各紙もいまさらのように失望を伝えている。
毎日新聞 2007年1月26日 東京夕刊
http://www.mainichi-msn.co.jp/seiji/gyousei/archive/news/2007/01/26/20070126dde007010090000c.html
>安倍晋三首相は26日の施政方針演説で、「日本の姿」「日本らしさ」などと「日本」を連発する。特に「こだわりを持った」という「美しい国、日本」の理念を訴える冒頭と締めくくり部分に集中。演説全体でその数は35回に上る。「わが国のすばらしさを再認識することが必要」という首相の思いが表れているといえ、保守色の濃い要因にもなっている。
「いっさいの美しき理想は皆虚偽である!」(「時代閉塞の現状」)と述べた石川啄木は当時の日本の暗い<時代閉塞の現状>を、次のように述べた。
>今日我々の父兄は、だいたいにおいて一般学生の気風が着実になったといって喜んでいる。しかもその着実とはたんに今日の学生のすべてがその在学時代から奉職口の心配をしなければならなくなったということではないか。そうしてそう着実になっているにかわらず、毎年何百という官私大学卒業生が、その半分は職を得かねて下宿屋にごろごろしているではないか。しかも彼らはまだまだ幸福なほうである。前にもいったごとく、彼らに何十倍、何百倍する多数の青年は、その教育を享ける権利を中途半端で奪われてしまうではないか。中途半端の教育はその人の一生を中途半端にする。彼らはじつにその生涯の勤勉努力をもってしてもなおかつ三十円以上の月給を取ることが許されないのである。むろん彼らはそれに満足するはずがない。かくて日本には今「遊民」という不思議な階級が漸次その数を増しつつある。今やどんな僻村へ行っても三人か五人の中学卒業者がいる。そうして彼らの事業は、じつに、父兄の財産を食い減すこととむだ話をすることだけである。
>我々青年を囲繞する空気は、今やもうすこしも流動しなくなった。強権の勢力は普く国内に行わたっている。現代社会組織はその隅々まで発達している。――そうしてその発達がもはや完成に近い程度まで進んでいることは、その制度の有する欠陥の日一日明白になっていることによって知ることができる。戦争とか豊作とか饑饉とか、すべてある偶然の出来事の発生するでなければ振興する見込のない一般経済界の状態は何を語るか。財産とともに道徳心をも失った貧民と売淫婦との急激なる増加は何を語るか。はたまた今日我邦において、その法律の規定している罪人の数が驚くべき勢いをもって増してきた結果、ついにみすみすその国法の適用を一部において中止せねばならなくなっている事実(微罪不検挙の事実、東京並びに各都市における無数の売淫婦が拘禁する場所がないために半公認の状態にある事実)は何を語るか。
啄木がこの文章を書いたのは1910年のことだった。<時代閉塞の現状>という言葉は、もっともよくいまの日本の現実を言いあらわす言葉である。いまの若者の多数は正規社員の道を閉ざされ、不安定な生活を強いられている。いまの若者は未来にどんな夢をもっているか。夢も希望もない時代だ。
<時代閉塞の現状>は子供たちにも及び、いじめやいじめによる自殺を生んでいる。日本人の多数は狭い世界に閉じ込められ抜け道のない現実に苦しんでいる。中高年の自殺が増加し、親殺し、子殺し、兄弟殺しなども多発している。現実の閉塞状況は当時よりいまのほうが深刻なのだと思う。
「時代閉塞の現状」が書かれたのは幸徳らが<大逆>の罪名を着せられて検挙された時代である。啄木は獄中の幸徳らを思い、どれほどの苦しみに耐えてこの文章を書いたことだろう。
幸徳らが処刑されたのは翌1911年、いまから96年前の1月24日のことだった。
当時の日記に啄木は次のように記している。
http://www.echna.ne.jp/~archae/nikki/44-1.html#1/19
>1月19日 雨 寒
>明治44.1.19 判決を聞いて頭が興奮
>俄かに涙が出た。「畜生!駄目だ!」
>朝に枕の上で国民新聞を読んでいたら俄かに涙が出た。「畜生!駄目だ!」
>そういう言葉も我知らず口に出た。社会主義は到底駄目である。人類の幸福は独り強大なる国家の社会政策によってのみ得られる、そうして日本は代々社会政策を行っている国である。と御用記者は書いていた。
>1月24日 晴 温
>梅の鉢に花がさいた。紅い八重で、香いがある。午前のうち、歌垣の歌を選んだ。
>社へ行ってすぐ、「今朝から死刑をやってる」と聞いた。幸徳以下十一名のことである、あゝ、何という早いことだろう。そう皆が語り合った。印刷所の者が市川君の紹介で会いに来た。
>夜、幸徳事件の経過を書き記すために十二時まで働いた。これは後々への記念のためである。
幸徳らが処刑される前後、啄木は幸徳らの事件の糾明に没頭している。
1月19日に記した御用記者の<社会主義は到底駄目である。人類の幸福は独り強大なる国家の社会政策によってのみ得られる、そうして日本は代々社会政策を行っている国である。>という言葉が、平和と民主主義を強調する戦後体制からの脱却を説き、<美しい国>という言葉をくりかえして、強大な日本国家の建設を主張する安倍首相の言葉と重なって思われる。
幸徳の刑死は啄木の思想に衝撃をあたえ、急激に発展させた。
徳富蘆花は「謀叛論」と題して一高で講演し、次のように述べた。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000280/card1708.html
諸君、幸徳君等は時の政府に謀叛人と見做されて殺された。が、謀叛を恐れてはならぬ。謀叛人を恐れてはならぬ。自ら謀叛人となるを恐れてはならぬ。新しいものは常に謀叛である。「身を殺して魂を殺す能わざる者を恐るる勿れ」。肉体の死は何でもない。恐るべきは霊魂の死である。人が教えられたる信条のままに執着し、言わせらるる如く言い、為せらるる如くふるまい、型から鋳出した人形の如く形式的に生活の安を偸(ぬす)んで、一切の自立自信、自化自発を失う時、即ち是れ霊魂の死である。我等は生きねばならぬ。生きる為に謀叛しなければならぬ。古人は云うた如何なる真理にも停滞するな、停滞すれば墓になると。人生は解脱の連続である。如何に愛着する所のものでも脱ぎ棄てねばならぬ時がある。其は形式残って生命去った時である。「死にし者は死にし者に葬らせ」墓は常に後にしなければならぬ。幸徳等は政治上に謀叛して死んだ。死んで最早復活した。墓は空虚だ。何時迄も墓に縋(すが)りついてはならぬ。「若爾の右眼爾を礙(つまづ)かさば抽出(ぬきだ)して之をすてよ」。愛別、離苦、打克たねばならぬ。我等は苦痛を忍んで解脱せねばならぬ。繰り返して曰う、諸君、我々は生きねばならぬ。生きる為に常に謀叛しなければならぬ。自己に対して、また周囲に対して。
諸君、幸徳君等は乱臣賊子として絞台の露と消えた。其行動について不満があるとしても、誰か志士として其動機を疑い得る。諸君、西郷も逆賊であった。然し今日となって見れば、逆賊でないこと西郷の如き者がある乎。幸徳等も誤って乱臣賊子となった。然し百年の公論は必其事を惜んで其志を悲しむであろう。要するに人格の問題である。諸君、我々は人格を研くことを怠ってはならぬ。
(明治四十四年二月 一高における講演)
幸徳らを処刑した明治政府はますます<愛国心>を強調し、<愛国教育>の徹底を期した。まさに暗い時代だった。夏目漱石や永井荷風はこの暗い時代に抗して作家としての自己を発展させた。幸徳らの刑死は彼らの文学に暗い影を落としている。彼らの文学を幸徳らを殺した暗い明治の現実と切り離して考えることはできない。
啄木も同様だが、彼らはしばしば絶望に陥らなければならなかった。彼らの文学は自らの絶望に抗するたかいであった。そしてその文学暗い闇の中から光を放ち、いまを生きる私たちを励ましてくれる。
いまを生きる私たちにとって、漱石の文学はますます新しい意味をもってよみがえって来るように思われる。
みなさん、いかがおすごしでしょうか。
昨日は新春平和学校で浅井基文さんの講演を聞きました。
いまのアジアと世界の平和について、広い基礎の上に考えさせられました。
このことについて書きたいのですが、啄木、漱石、荷風の問題とともに後日の課題として残します。
みなさんもいまを生きるなかにそれぞれの課題を見だしていただければと思います。
絶望的になるときも多いと思いますが、いまとはくらべものならない暗い時代を生きた先人から力を得ていただければ幸いです。
みなさんお元気でお過ごし下さい。
伊豆利彦 http://homepage2.nifty.com
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