★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK30 > 118.html ★阿修羅♪ |
Tweet |
□誰のためのホワイトカラー・エグゼンプションなのか [ビデオニュース・ドットコム]
http://seiji.yahoo.co.jp/column/article/detail/20070124-01-0901.html
2007年1月24日
「誰のためのホワイトカラー・エグゼンプションなのか」
ゲスト:島田陽一氏(早稲田大学教授)
今月25日に召集される通常国会では、労働契約法案、労働基準法改正案、パート労働法改正案といった雇用関連法案の提出が予定されている。なかでも労働基準法の改正案に盛り込まれる予定だったホワイトカラー・エグゼンプションについては、推進したい経営側と反対する労働組合側の対立が表面化した。
ホワイトカラー・エクゼンプションとは、管理職以外の労働者に対しても、労働時間ではなく成果に対する報酬を定め、企業と労働者の合意で自由に労働時間を決められるようにするというもので、管理職と同様に、残業に対する報酬の支払いが免除されることから、エクゼンプション(免除)という表現が使われている。
経営側は、日本経済が国際競争力を維持していくためには、一定の年収以上の労働者に対しては成果主義の導入が不可欠であると主張する。しかし連合を中心とする労働側は、現在常態化しているサービス残業が制度化されることになると懸念する。
労働法の専門家で、欧米での雇用実態にも詳しい早稲田大学の島田陽一教授は、そもそも「自律的裁量労働」が実施できていない現在の日本の企業風土に残業を正当化するホワイトカラー・エクゼンプション制度を持ち込めば、労働時間の増加と総賃金の削減が行われることになる危険性があると警鐘を鳴らす。
もともとホワイトカラー・エクゼンプションはアメリカの制度だが、アメリカでは管理職に限らず労働者は広く自律的裁量が認められている場合が多い。上司から仕事を頼まれても、今別の仕事を抱えれて入れば、それを断ることができるような土壌があるというのだ。
一方日本では、90年代の不況と急速な経済のグローバル化の中、「善意と信頼」を前提とする伝統的な日本型企業経営の基礎が崩れ、労働実態と現行の法制度との間に乖離が生まれている。このような状況の中でホワイトカラー・エグゼンプションが導入されても、長年日本の課題となっている「ホワイトカラーの生産性の向上」には寄与しない可能性が高い。
企業側は「ホワイトカラー・エクゼンプションは企業の生き残りに不可欠」と主張する。しかし、ここで言う生き残りの対象は何なのか。日本の企業文化が大切にしてきた家族や地域共同体を含んでいるのか。単に経営者と資本にとって都合のいい「生き残り」になりはしないか。
そもそもなぜ今ホワイトカラー・エクゼンプションなのか。アメリカとは企業風土のベースが異なる日本で、ルール主義に基づくアメリカの制度を導入すると、どのような弊害が起き得るのか。この制度の導入で得るものと失うものは何なのか。そして、今日本が導入しようとしているホワイトカラー・エクゼンプションは誰のためものなのか。島田氏と共に考えた。
神保哲生氏(ビデオジャーナリスト)・宮台真司氏(社会学者)のコメント
神保 今日のホワイトカラー・エグゼンプションの話をやっていて思ったが、こんな改正案は通るはずがないだろうから、まだ番組で取り上げるのは早かったのだろうか。
宮台 ただ今回これが議論になったことで、従来の日本の企業社会とは違った企業社会になってきたという意味にもとれる。生き残りのために重要だという言葉は耳にタコが出来るくらい聞くが、最後に生き残るのは誰だということだ。
神保 去年6月の日米投資イニシアチブ報告書にホワイトカラー・エグゼンプションの導入要求が入っている。この番組にも出てくれた関岡英之さんが指摘してきた構造改革要望書の中身は、アメリカが日本の市場に参入しやすいように日本をアメリカ式に変えろという要求だから、アメリカがそれを要求する理由はわかる。しかし、ホワイトカラー・エグゼンプションを要求する理由がよくわからない。そのような制度を導入する事で日本がより競争力を持った労働市場を持つことが、アメリカにとってどんなメリットがあるのか。アメリカ人が日本に来てたくさん働くという話ではないはずだから、一見その理由が分からない。
穿った見方をすると、日本の力の源泉はJapan as No.1(ジャパン・アズ・ナンバーワン)にもみられるような会社共同体主義、信頼と善意をベースとするような日本を取り戻すことがアメリカにとって一番怖いから、それをやらせないためにはホワイトカラー・エグゼンプションをやらせてしまおうというくらいにしか思えない。
宮台 いわゆる投資イニシアチブだから、小泉内閣で言っていた日本に対するアメリカの直接投資によって、日本の企業社会を活性化する目的だろう。この目的を達成する為には日本の企業の投資効率、つまり投資家にとっての「おいしさ」を上げる必要があるから、日本企業の非効率性を排除せよという要求がアメリカから出てくるという理屈でこうなっていると思う。
ただ、そこには内需でまわすか加工貿易型外需でまわすかという基本的な理念系的対決があり、例えばある種の日本の企業エリートがグローバルエリートとしての生き残りを考える場合には、当然のことながらこの投資イニシアチブ的な図式が合理的だ。
つまりアメリカから巨額の資金を集めて、グローバル企業として海外に様々な製品を売っていき、それで収益をあげて株価を上げ、ますます投資を呼び込んで企業は回るという形だ。場合によっては、本社を日本に置かなくてもいい可能性さえ想像するような、そういうタイプのグローバルエリートたちだ。
となると、そういったグローバル企業が残ることは、「日本企業」が残ることになるとしても、従来の日本の企業が残ることとは全く異なる。
神保 かつて日系資本だった企業の名前が残るというだけのことだろう。
宮台 そうなれば日本人の家族、地域、場合によっては社会と関係がなくなり、その企業の名前は同じでも、日本人(社員)がどんどん少なくなっていく可能性さえある。
企業が残ることを、あたかも社会が残ることと同じであるかのように錯覚する悪弊が続いており、これを変えていかなければならない。昔から言うように、国家が残って社会が滅びることがありうるし、企業が残って社会が滅びることもありうる。やはり社会が滅びてしまえば社会を生きている人間にとっては元も子もないわけだから、その辺の発想の切り替えをしないとならない。
社会が生き残ることを企業が生き残ることと同じように錯覚する民が多い一方で、企業を操縦しているグローバルエリートたちは実はもう社会を道具としか考えておらず、社会あっての自分だとは考えない。
神保 大店法で失ったものをもう一回考えてみることだろう。あの法律によって中国製の1個100円のハンガーが入ってきたかもしれないが、いわゆる商店街、コミュニティーは完全に消え、代わってトイザラスのような(グローバル)企業が入ってきた。ではトイザラスがなくなったらもう一回商店街は戻るのかと言うとそれはもう戻らない。実は不可逆的な物だったことがなくなってから分かるという話だ。
宮台 神保さんのようにアメリカで長く育ってきた人が、日本に帰ってきて日本社会にコントリビュート(貢献)しようとする例は、僕より若い世代から見るとほんとにめずらしい。そこは、歴史学者クリストファー・ラッシュの言っていた通りのことが日本で起きており、ある種の勝ち逃げしか考えていないような連中が多くなり、そういう奴らが優秀だといわれるようになった。
日本社会への貢献なんて言っていると、こんなダメな奴がいっぱいいる社会に何故お前がコッミットメントするのか、ということが平気でやり取りされるような社会になってきた。
神保 僕がアメリカで一番学んだことは、とにかく気にしないでやればいいと言うことだ。色んなことを言う人がいるが、気にしないで自分の信じることをやればいいんだと。
ところで、「日米投資イニシアチブ報告書」という呼び方だが、(日米構造協議から「障壁」を抜かして日本語訳した過去の例と比べて)一応進歩したのではないか。前例に倣うなら今回は、「日米投資報告書」になっていてもおかしくない。
宮台 これは役人の中にこれを残すことによってメッセージを伝えようとした人たちがいたと信じたい。
神保 しかし内容がホワイトカラー・エグゼンプションだとつらい。アメリカは日本に投資をしやすくし、結局は宮台さんの言った通り、日本の企業はアメリカから資本を引っ張ってくることで残るかもしれないが、最後に儲かるのは資本だ。
宮台 社会学ではエリートの帰属意識と言うが、自分がどこに帰属しているのかという意識が大幅に変わってきた。会社で働いている人たちの帰属先と、その会社のグローバルエリートたちの帰属意識の宛先とはもう全く違う。それが一致していないと企業経営そのものがパブリックコントリビューション(社会貢献)に繋がることがなくなってしまう。
神保 もともとそれが本当に日本にはあったのかというのも問題ではある。
宮台 それを問われるときつい。
神保 例えば押し付けられてきただけとか。あるいはオポチューニスト的(ご都合主義的)に生じてきただけで、いざとなったら、みんな投げたという可能性もある。
宮台 ただ自殺率は非常に分かりやすいバロメーターで、自殺者の増加は、問題としては明らかに深刻化してきていると思う。つまり、企業が生き残っても社会に生き残っている人たちは幸せにはならない。企業が生き残って自殺者がどんどん増えることになるのかもしれない。
神保 時間の問題で、単純労働者の受け入れの話になる。企業がそういった形で安い賃金で労働力を確保するか、もしくは日本の会社がどんどん海外に行ってしまうかの、どちらかだろう。
宮台 スティグリッツの効率賃金仮説という学説によると、労働者のモチベーションは賃金に比例する。賃金を下げるとモチベーションが下がる、あるいは別の企業にいこうとする、別の企業のある国に行こうとする。最終的にはその社会の企業は衰退する。
スティグリッツは世界銀行にいた人だが、後に世界銀行を徹底して批判した。彼の言うには、グローバル経済は拒絶出来ず、何らかの形で竿をさしていき生き残るしかないが、要は速度が非常に重要だと言っている。速度が、つまりグローバル化の速度が速すぎると、誰が主人公なのか分かりにくくなる。一気に社会の共同体が解体し、モノカルチャー化した上で、儲けようとしているグローバル資本が、儲かることにどうしてもなってしまう。反対に、速度がゆっくりであれば、グローバル経済を受け入れてそれに竿をさそうとするその社会の各共同体が、自分たちが生き残る為にやっていることになる。だから速度がとても重要だとスティグリッツは言っていて、大変面白い話だと思う。
神保 とりあえず、今日のキーワードは速度とさじ加減だろう。(ホワイトカラー・エグゼオンプションの線引きが)400万か900万か.なかなか白黒はっきり言えない時代なのかもしれないが、もう少しこれから掘り下げていかなければならないのかもしれない。総論的な話はさておき、「神は細部に宿る」のだから。
日本では「神は細部に宿る」が、英語では、The devil is in the details(悪魔は細部に宿る)。僕はこれに自説を展開しているが、日本で神々は細部に宿るというのは、統治権力側からの見方だ。要するに換骨奪胎したようなものを作ってディテールの部分でごまかしておけば、それで大衆をごまかすことができる。他方、英語では、悪魔が宿る、要するに市民社会は細部に注意しなければいけないよと警鐘を鳴らしている。なぜ欧米ではディテールにいるのが悪魔で、日本では神々なのか。それは、その国の諺が、統治権力側の視点から見たものなのか、それとも市民側から見たものなのかの違いでもあるのではないか。
どっちにとっての悪魔でどっちにとっての神々なのか、考えてみる必要があるのかもしれない。
▲このページのTOPへ HOME > 政治・選挙・NHK30掲示板
フォローアップ: