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窮すれば通ず
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■ディズニーは反グローバリスト?
昨日レンタルビデオショップでピクサーの最新作、ジョン・ラセター監督の「カーズ」が なんとなく目に飛び込んできたので、DVDを借りてきて見た。2006年夏に劇場公開されたディズニー映画で、ルート66沿いの小さな街が舞台になった映画で、近くに大きな高速道路ができたために、期待に反してすっかり寂れてしまったスモールタウンの物語。
ディズニーランドそのものが、開拓時代のアメリカであるスモールタウンを原型にしてデザインされているわけだから、古きよきアメリカ文化の喪失を嘆いている感覚は、恐らく本心からのものにちがいないと思われる。ルート66は地形に合わせて蛇のように曲がり、そこを走る自動車に乗る人たちは、変化に富む谷や山に感動し、その美しい風景を楽しみながら、ゆっくりとドライブをしていたものなのだ。
「カーズ」の原風景は、あくまで1930〜1950年代の古き良きアメリカであって、新自由主義の効率化された大型ショッピングモール等に占領された町並みでは決してない。何気なくディズニーが描いてみせる「カーズ」の原風景は、結果的に反グローバリズムそのものなのである。私たちがディズニーランドに惹かれるのも、まさにその開拓時代のノスタルジックな原風景に、思わず心が安らぎ、無意識にワクワクするからかもしれない。
私は便利で自由な都会ではなく、なにかと不便な地方に住んでいる。効率的でハイ・テックな環境ではないが、そのぶんだけ余裕のある空間と、身近に自然が溢れている。言葉ではうまく説明できないが、何かしらいつも田舎に守られている気がしている。私の独断と偏見かもしれないが、現代社会を生きるうえにおいて、安心感ほど贅沢で、かけがいのないものはないような気がする。
グローバルな市場原理主義というジャングルの中で、私たちは、いつも効率的に生きることを強制されて生きている。競争というゲームにつまづくと、私たちは負け組となり、あっというまもなく、苛立ちと不安に包まれてしまう。そして昨日までの自信もプライドも余裕も、一瞬のうちに吹き飛んでしまう。
■窮すれば通ず
心理学者カール・グスタフ・ユングは、人間のこころを「自我」と「自己」とのふたつに分けて考えている。『意識』の中心をなしているのが「自我」であり、『意識』も『無意識』も含めたこころ全体の中心となっているのが「自己」と考えているという。「自我」は意識の中心であるから、いつも意識されているから、当然のごとく私たちにもよくわかる。しかし「自己」は無意識の中にあることがほとんどだから、「自己」がどのように作用しているのか、私たちにはよくわからない。
しかもユングによると、私たちの『無意識』には過去の体験や知識だけではなく、家族や先祖の体験、さらに何千年もの人類全体の記憶や体験のすべてが、叡智として結集して存在しているらしい。ところが、「自我」の働きである私たちの高度情報化社会が進化し過ぎたために、いま、人間的バランスが失われるという「危機」が、私たちを襲っている。その結果として情報化社会に生きる私たちは、苛立たち、不安な気持ちでいっぱいとなっている。
この不安定な状態から私たちが回復するためには、「自己」の存在が必要となるわけである。平凡な生活を維持することに精一杯のために、私たちは、窮地に追い込まれてどうしょうもならなくなった時に、初めて「自己」の存在に気づく。そして効率的なデジタルな世界から、安らぎとノスタルジーに満ちたアナログ空間へと私たちを導く。
世の中がハイ・テックなデジタル空間になればなるほど、癒しや安心感を求めて、ハイ・タッチなヨガや宗教やノスタルジーなものへと、私たちの無意識は回帰していく。世界中がネットワーク化されGPSで監視されたデジタル空間になればなるほど、心の窮地をなんとか回復しようと、私たちをして非合理なノスタルジー空間、ディズニーランドのような世界を必死に求めるようになる。そんな流れの中で、思いがけないひらめきや奇跡を呼び込むことも可能となる。
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