★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK29 > 936.html ★阿修羅♪ |
Tweet |
なぜ悪法は各種反対運動にもかかわらず成立してしまうのか?
ここでは、先般改悪された教育基本法を題材に、「何もしなかった者」の責任を糾弾したい。
大手メディアはなぜ教育基本法改悪の孕む問題を伝えなかったのか?
ネット、雑誌世界、週刊金曜日、地方新聞などで教育基本法改悪問題が大きく取り上げられた一方、大手メディアはほとんど無視を決め込み、教育に関連する話題としてもイジメ問題、世界史未履修問題など、教育基本法改悪問題そのものとは全く関係のないことを大々的に報道しただけだった。こうしたメディアに、なぜ教育基本法改悪を正面から取り上げた報道をしなかったのかと問えば、こんな答えがかえってくるかもしれない。
「視聴者に関心をもたれないテーマだから。教育というテーマは全員にとって関心を持たれるテーマではないからだ」
と(この答えは、ある学生が実際に表明した見解である)。
しかし、教育基本法改悪問題は国のあり方を根本から変えるものであった。少なくとも、国の形を根本から変えていく流れの一貫に位置付けられるものだった。安倍らも明言している。戦後体制からの脱却である、と。国の形が根本から変わろうというのだ、自分のことに忙しくて他のことにまで関心を持っていない国民に対してであってもそのことを伝えるべく報道することこそが、メディアの義務ではないのか。伝えもせずに、国民に関心をもたれないから、では、単なる責任逃れにすぎない。国民が関心を持たないと最初から決め付けるのも間違いである。
また、百歩譲ってこの改悪が教育に関わる者だけの問題であったとしても、教育に関わる者の声を届けなくていいということにはならない。教育現場に多大な影響を及ぼす問題なのだから、教育現場の声を調べ、報道すべきであることは理の当然であろう。だが、報道しなかった。伝えていれば、反対の声が圧倒的であることが一般国民にもわかっただろう。現場の者の切羽詰った声を聞けば、事の重大さに気付く者が一人でも増え、国民的関心を呼び起こすこともできたはずである。
また、「政治に無関心な人も含め国民全員が関心を持てる問題」などというものはない。
報道メディアは、あまり知られていない問題を掘り起こして問題提起していくべきである。それをせず、多数の者の関心事項だけを伝えるのであれば、何も報道メディアなど要らない。そこらへんの井戸端会議で十分である。問題の掘り起こしも権力監視もしないとなれば、報道メディアはもはや無用の長物である。
したがって、「国民が関心を持たない」と判断したから伝えなかったなどというのでは、あまりにも浅はかである。もっとも、誰にも影響を与えないことであるのならば、そういう判断をして伝えないこともあってよいだろう。しかし、教育基本法改悪のように子供、教師、家庭、そして地域社会にまで影響、それも悪影響を及ぼす問題で、そのような言い訳は許されない。
また、国民に関心をもたれないから伝えないというのなら、伝えていることは国民が関心を持っていることと言えるのか。毎日毎日殺人事件の報道に明け暮れ、松坂が「いくら」で「落札」されるか、亀田が勝っただ負けただと、そんなことが、国民共通の関心事だとでも言うのか。国民をバカにするにもほどがある。
教育基本法改悪が国会で審議されていた頃、教育に関連して大手メディアが報道したのは、タウンミーティングのやらせ問題、イジメ、世界史の未履修問題くらいなものであった。あるいは、永田町の勢力争いである。
いずれも、教育基本法改悪の持つ本質的な問題点に触れるものではない。
教育基本法改悪に賛成する者がどういう意見で賛成しているのか、また、反対している者がなぜ反対しているのか。与党議員の発言の垂れ流しという形により賛成意見は少しは報道されたかもしれないが、反対している者の意見は伝えられなかった。
もしメディアがこうした報道をもって中立報道、不偏不党の報道だと思っているのなら、勘違いも甚だしい。
また、大手メディアは、教育基本法改悪に反対の意見を社説などで報道するにしても、世論調査の結果を引きつつ、「急いで改正すべきではない」といった曖昧な主張に終始した。そのような主張では、「ゆっくりなら改正してもいい」と言うかのようである。このような報道は、世論を誤った方向に誘導するものであると同時に、改悪派の政治家に対しても、メディアも国民も本質的な反対をしているわけではないとのメッセージを送るものである。
さて、
「問題(改悪を先取りする教育現場の実態も含め)が仮に報道されたとしても、教育基本法改悪に関心を持つ国民は少なかっただろう」
といった考えもあるだろう。
関心を持たない国民とは一体何か?
自分に関係ない人が苦しんでいようが何しようがかまわない?自分のことで忙しい?
仮に、改悪で苦しむのが少数派だけだとしよう。だとしたら、関心を持たなくてよいのか?それは利己主義である。自分さえよければ、他の人はどうなってもいい。それこそがわがままというものである。
行われていることがどう悪であるかを聞いても、そしてそれが悪であることを知っても怒らない人は不感症である。そして、非情である。人間として当然持つべき感情を忘れている。
こうした人々は二つの意味で「愚民」でもある。一つは、今はたまたま悪政の悪影響を被っていないとしても、今のその無関心な態度・言動により、将来自分自身が悪政に苦しまされることになるかもしれないからである。もう一つは、国家が行っていることに対する社会で起きていることについて無関心お国に自分のすべてをまかせてしまっているという点で、主権者であることを放棄しているという点で、民主主義の国の民としては愚かというしかないからである。
不感症、非情の人が国民の多数を占める社会では、悪政・悪事はし放題である。
そんな中、悪政に苦しめられている者は少数派として孤独に苦しむしかないのか。耐えるしかないのか。
手を差し伸べるのが良識ある人間というものである。
また、少数であろうが、悪政により苦しめられている者がいれば、そこに光を当て、伝えるのがメディアの仕事ではないか。各地で行われた改悪反対運動を伝えることもすべきである。改悪を先取りして各地で進んでいる日の丸・君が代強制により苦しみ、また抵抗している教師らをルポすることもすべきである。そういう報道をすれば、苦しんでいる者、少数者、抵抗者らに対する共感が国民の間で自ずと醸成されていくはずである。問題の存在を知ることで、「無関心」から脱却する人も出てくるはずである。
政治家の発言を垂れ流すだけで報道が成り立つのなら、民間の報道機関など要らないのである。官が堂々と「官営」の報道機関を作って大本営発表すればよい。
民の顔をして官の報道をしておいて、官バッシングをやる厚顔無恥なこの報道屋らは、自分達も官であることを思い知るべきである。
また、政治報道において、永田町の勢力争いについての報道は、二の次にすべきである。そういう報道は、「勢力争い評論家」にでもまかせておけばいい。報道政治部のする仕事でも、政治評論家のする仕事でもない。
メディアが政治家談義に終始してきたことで、政治家はどうでもいいことしかやっていないという印象を国民に植え付け、国民の政治に対する無関心を作り出しているという側面があることをメディアは自覚すべきである。
「娯楽だけを求める他者に無関心・非情な愚民」を想定した報道に終始し、今行われている/行われつつある悪政を叩かず、悪政を伝えようとしないメディア。
そして、他人の不幸に無関心か、関心を持っても娯楽的観点からしか関心を持たない、不感症かつ、非情きわまりない「愚民」。
この二つが多数に留まる限り、悪政はなくならず、苦しみもなくならないのである。
マス「ゴミ」と「愚民」は、自分たちが悪徳政治家と共犯関係にあるということを自覚すべきである。
▲このページのTOPへ HOME > 政治・選挙・NHK29掲示板
フォローアップ: