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■フォークシンガー加川良氏
「歌い手は歌い手。政治的な発言はするべきじゃないと思ってます」
待ち合わせた東京都世田谷区下北沢のカフェで、歌手・加川良は、そう話した。底抜けの笑顔だが、決然とした口調で、自分への戒めは固い。優しい関西なまりの抑揚でわずかに漏らしたのが、こんな言葉だった。
「ただし、あの歌は死ぬまで歌わなきゃと思ってます。若いころはただのしゃれでした。面白い言葉を歌にしただけ。しかし、いつまでも無責任でいられる年でもないですから」
あの歌とは加川が作詞作曲したデビュー作「教訓1」という歌である。
埼玉県川口市にある「Roots」という名のライブハウス。六十人も入ればいっぱいという会場が、クリスマスイブを翌日に控えたその晩は全席が埋まる満員だった。舞台に加川が登場すると、
「良さん!」
と会場から野太いかけ声が飛んだ。ギターをかき鳴らし、張りのある声を体の奥から絞り出して、加川は歌う。一曲目が終わると短い口上があった。「私、逃げも隠れもいたしません」。ジャーンとギターが鳴って「教訓1」は始まった。
(歌詞別掲)
加川がこの歌を人前で初めて歌ったのは一九七〇年八月八日。岐阜・中津川で開催された当時としては日本最大の野外コンサート「全日本フォークジャンボリー」だった。約八千人の聴衆を前にした屋外ステージに、長髪とジーンズ姿の加川は、ギター一本とこの歌を引っ提げて「飛び入り」で登場。喝采(かっさい)をさらって吉田拓郎などと並ぶこのコンサートが生んだ伝説のシンガーとなった。「逃げなさい 隠れなさい」という歌詞から「シラケ世代の旗手」などと呼ばれた。
実際に、加川の歌が若者に受けた理由は、時代背景と無縁ではなかった。日米安保条約の継続に反対する学生運動の炎が日本列島で燃えさかっていたころだった。コンサートの一カ月半前の六月十四日、三万五千人の群衆が東京の青山通りをデモ行進し、過激派の火炎ビン、投石のために警官三十三人、一般人十八人が負傷した。当時の首相は安倍晋三首相の大叔父にあたる佐藤栄作だった。
大きなうねりの中で、高石ともや、岡林信康など先輩のフォーク歌手は「ともに戦おう」と「反戦」のメッセージを歌った。東京・新宿駅西口の地下道を「フォークゲリラ」と呼ばれる若者たちが埋め尽くした。
だが「教訓1」は少し違った。戦う前に「逃げろ」というのだ。「しりごみなさい」というのだ。
当時の心境を加川が振り返る。「こぶしを振り上げて叫ぶ、というのが好きではなかった。じゃあ、なぜ、あの歌かというと、誰も歌ったことがない日本語探しをやった結果でした」
グループサウンズのボーカルだった学生時代は、ビートルズのコピーに夢中で、日本語の歌など歌ったことはなかった。ところが音楽出版に社員として入社。CM用の資料を作るために所属アーティストの曲をヘッドホンで聴くのが仕事になった。
初めは苦痛ですらあったが、続けるうちに聞いたこともない日本語を歌う歌手がいることを知った。高田渡という名前だった。
「日本語って深いなあ」と見よう見まねで、日本語で歌うフォークソングの作詞作曲を始めた。そのころ地下道で売っていたミニコミ誌をパラパラと立ち読みした。ふと目に付いたのが、児童文学者・上野瞭が書いた短い文章だった。
「どんなにおいしいことをいわれても、戦争になんかいっちゃいけない。逃げなさい。命を大切にしなさい、というような内容でした。自分の気持ちにぴったりだった」
これが原型となり、「教訓1」は誕生する。フォークジャンボリーには裏方のつもりで出かけたが、高田渡らにステージに引っ張り出された。一夜にしてスターの仲間入りを果たしたが、「歌い手になれたのか」という感慨しかなかった。
安保闘争に代表される全共闘運動は七二年の連合赤軍あさま山荘事件を契機に急速に勢いを失い、フォークソングも八〇年代に入って、ニューミュージックに華やかな場を奪われた。
だが、加川は全くペースを変えずに歌い続けてきた。北海道から沖縄まで全国のライブハウスやホールを毎年巡る。そんなコンサートは年に七、八十回にもなる。最近は「旅」「出会い」などをテーマに曲を作ることが多くなったが、大抵のコンサートでは「教訓1」も歌う。
観客は圧倒的に四、五十代の男女が多い。
例えば東京都葛飾区在住の女性、通称「さっちゃん」=年齢不詳=は昨年、二十五カ所のコンサート会場を巡り、自己記録を更新した。
「インターネットを見ていて、青春時代にファンだった加川さんが、まだ歌っていることを知ったのね。来てみたら、ここの温かい雰囲気にはまってしまって、もう八年になるかな」
古い歌を歌うのは、そうしたファンへのサービスでもあるが、加川自身、「最近、この歌がようやく面白くなってきた」と思うからでもある。
「私は政治のことなんかなーんにもわからない人間です。何が『美しい国』やら知らないし、安倍政権の安倍の字だって間違える。でも、ここ数年の間に日本は随分勇ましい国になったとは思います。国策だの愛国心だの、そんな言葉が軽く使われるようになった。あっという間にね。だから、あんな『非国民』の歌も歌った方がいいのかなと」
給食費を払えないような家の子が愛国心なんか持てるのかと思う。そんなもの学校で教えるより愛される国を造れば良いと思う。
だからお国に無体なことをいわれれば「ちょっと失礼!」と走って逃げる。「逃げるって案外パワーがいる。攻めるより情熱が必要かもしれない」と。
加川のいう「非国民」の精神とは、そういうことだ。肩ひじ張って逆らわず、しかし、まつろわず…。
ファンの間で「教訓1」よりも人気が高い「流行歌」という歌がある。
君は君のことが好きでありますように
僕は僕のことが好きでありますように
「それぞれを認め、愛するということ。僕にとっての美しい国とは、こんなイメージかもしれないな」
今年還暦を迎える歌手は、穏やかな顔でそう話した。 (敬称略、坂本充孝)
=おわり
◇教訓1
命はひとつ 人生は一回
だから 命を すてないようにネ
あわてると つい フラフラと
御国のためなのと いわれるとネ
青くなって しりごみなさい
にげなさい かくれなさい
御国はおれ達 死んだとて
ずっと後まで 残りますヨネ
失礼しましたで 終わるだけ
命の スペアは ありませんヨ
命をすてて 男になれと
言われたときには ふるえましょうヨネ
そうよ 私しゃ 女で結構
男のくさったので かまいませんよ
死んで神様と 言われるよりも
生きてバカだと 言われましょうヨネ
きれいごと ならべられた時も
この命を すてないようにネ
(歌詞の一部は現在、ライブで歌っている内容による)
かがわ・りょう 1947年滋賀県生まれ。横浜市在住。70年「教訓1」でデビュー。主なアルバムに「教訓」「親愛なるQに捧ぐ」「USED2」など。全国でライブを続けている。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~twins/
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