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http://facta.co.jp/blog/archives/20061231000306.html から転載。
阿部重夫編集長ブログ「最後から2番目の真実」
アッラー・アクバルと「凡庸なる善」
2006年12月31日
サッダーム・フセインが処刑された。あの暗い冬のバグダードに取材で行ってから10年、何がしかの感慨はある。しかし処刑直前のサッダームを撮った映像には吐き気を催した。
髭の白いサッダームは、黒いバラックラーバ帽で顔を隠した看守たちに囲まれていた。刑執行後の報復を恐れてだろう。白と黒の対照。サッダームは毅然としていた。それだけでも「殉教」に見えてしまうのに、カメラは何も気づかない。しかも奇妙なことに、この光景にデジャヴ(既視)を感じた。
「イラク聖戦アル・カイダ組織」が流した人質の外国人を囲む覆面姿のテロリストたちの映像とそっくりではないか。06年6月に米軍機の爆撃で死亡したヨルダン人テロリスト、アブ・ムサブ・ザルカウィが率いていたこのテロリスト・グループは、日本人青年が斬首されたからその映像はまだ記憶に新しい。
処刑前に撮った光景がこれほど似ているということは、イラクの内戦が「目には目を」の報復の無限連鎖であることを何よりも雄弁に物語っている。もはや政権とテロリストの境界はない。狩る側と狩られる側がスクランブルして、相似形になっていく恐怖がそこにある。
サッダームの肩を持つのではない。でも、かつての独裁者とスンニー派復活を恐れる臆病なマラキ政権には、報復以外のレジティマシーがないことを、世界に知らしめたと思う。
サッダーム最後の言葉は「アッラー・アクバル」。神は偉大なり、という意味で、バグダードのみならず、世界のイスラム圏のミナレットから毎日朗誦される礼拝の言葉である。ありきたりだが、日常のメッカ礼拝から、自爆や吶喊にいたるまで、あらゆる多義を呑みこむブラックホールかもしれない。
それをサッダームに叫ばせることによって、マラキ政権は「殉教の冠」を授けたかもしれない。マラキ政権、およびそれを後押しするブッシュ政権のどちらにも、この処刑を正当化する堂々たる大義がないからである。ホワイトハウスのそっけないコメントは、他の中東諸国も含めいたずらに刺激すまいとの配慮だろうが、サッダーム滅亡を果たした今、無言自体が敗北の象徴である。
アメリカもまた、この戦争のレジティマシーを主張できていない。サッダーム処刑の寥々たる光景は、ただ一人のハンナ・アーレントも現れなかったことに起因するのではないか。
この女性政治学者は1961年のアイヒマン裁判を傍聴、「ニューヨーカー」誌に優れたルポルタージュを書いた。彼女自身がケーニヒスベルク生まれの東方ユダヤ人(アシュケナージ)で、ナチスに追われてアメリカに亡命した身だが、イスラエルのベングリオン政権の芝居がかったプロパガンダ裁判を糾弾、ユダヤ人自身が強制収容に手を貸したことを暴き、返す刀でアイヒマンが誰もが期待する極悪人ではなく、「凡庸なる悪」であるがゆえに救い難いと訴えた。
「アイヒマンという人物の厄介なところはまさに、実に多くの人々が彼に似ていたし、しかもその多くが倒錯してもいずサディストでもなく、恐ろしいほどノーマルだったし、今でもノーマルであるということなのだ。(中略)この正常性はすべての残虐行為を一緒にしたよりもわれわれをはるかに慄然とさせる」
この記事はユダヤ人社会からは轟々たる非難を浴びたが、処刑されたアイヒマンが殉教者に祀りあげられなかったのは、エルサレム法廷の報復の論理を批判した彼女の勇敢な筆鋒があったからと思える。それでも彼女は、『エルサレムのアイヒマン』の末尾で、自分なりに死刑宣告を下す。
「あたかも君と君の上官がこの世界に誰が住み誰が住んではならないかを決定する権利を持っているかのように――ユダヤ民族および他のいくつかの国の国民たちとともにこの地球上に生きることを拒む政治を君が支持し実行したからこそ、何人からも、すなわち人類に属する何ものからも、君とともにこ地球上に生きたいと願うことは期待しえないとわれわれは思う。これが君が絞首されねばならぬ理由、しかも唯一の理由である」
ブッシュおよびマラキ政権は、死せるサッダームに堂々とこう言い放てるか。こそこそしていれば、この判決と処刑が、かつてのサッダーム政治と同じく勝者の恣意に過ぎないことの証明になる。つくづく情けない権力者たちだ。慄然とすべきはこの「凡庸なる善」ではないか。
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