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我ら言葉のほかに失うものなし
天木・筆坂熱血インターネット対談
2006/12/28(Thu)
06−12−28
マッカーサー夫人の言葉
(天木直人)
週間新潮新年特大号(1月4・11日号)に掲載されている、ノンフィクション作家工藤美代子の「特別読物」―マッカーサー夫人が初めて明かす「昭和天皇と夫」が会った日―という記事は価値がある。下手な歴史学者や評論家の解説よりも、マッカーサー夫人の一言にこそ真実がある。
これは、昭和59年から60年にかけてマッカーサー財団がジーン・マッカーサー夫人(当時86歳)に41回ものインタビューを行った会見録である。マッカーサー記念館の書庫に眠っていたものが平成18年の夏に解禁された。その一部を工藤氏が紹介しているのだ。平成12年に101歳の天寿を全うしたジーンの、後にも先にもインタビューに応じたのはこれだけであったという。
なぜ日本外交はこれほど対米従属なのか。なぜ国民はそれを許し続けているのか。なぜ右翼は対米従属を批判しないのか。この問いに対する私の答えは、「天皇陛下から一般国民まで日本人は等しくマッカーサーを畏敬した。米国占領を歓迎した」というものである。私のこの思いはジーンの言葉を知って一層強まった。以下私が注目した箇所である。
・・・マッカーサーが日本に足を踏み入れた直後から司令部では天皇を呼びつけろという声があったがマッカーサーは反対した。呼びつけなくても必ず向こうから来ると思っていたのだ・・・
「責任を取る」と語った天皇にマッカーサーは煙草を勧めた。受け取った天皇の手は震えていて火がつけられなかった。マッカーサーが煙草に火をつけて天皇に手渡した。
会談後マッカーサーは応接間でそのまま天皇を送り出し、玄関までは行かなかった。天皇を見送ったのはフェラーズ准将だった・・・
・・・会見直後に司令部では今度はジーンが皇后を呼んだらどうかという案が出たが「なにも無力な小さい女性を呼びつけて恥をかかせる必要はない」とジーンは断り、マッカーサーも同意見だった。皇后のほうはマッカーサー夫人に会いたい気持ちがあったのだが・・・
・・・ジーンはインタビューに答えて、自分は「日本人の友人を作ろうとは全く思わなかった」と語っている。もともと日本の文化には興味はなく、日本人の知人や友人を作る気もなかったので彼女の回想はいたって表面的で、これといったエピソードはない。吉田茂の名前さえ出てこない。それはマッカーサーも同じであった。マッカーサーにはそもそも日本人と親しくなろうという気持ちはなく、彼女もそれに従っただけだったのだ。マッカーサーは日本滞在中、ついに一度も東京を離れることなく判で押したように毎日決まった時刻に第一生命ビルに出勤した・・・
ただ一人の日本人の友人も作ろうとしなかったマッカーサーとジーンを、しかし、当時の日本人は愛した。日本のある政府高官は言った。「私たちは天皇の代わりは明日にも見つけられますが、マッカーサーの代わりはありません」と。そのマッカーサーとジーンが日本を去る時、厚木に向かう沿道では20万人の日本人が別れを惜しんで見送った・・・
親日のかけらもないマッカーサーによる日本占領をこれほど歓迎した日本とは一体何なのだろうか。対米従属の原点がここにある。
筆坂・天木対談はとりあえずこれで終わります。この対談本を申し出たのは私でした。それに付き合っていただいた筆坂さんにあらためて感謝します。そして本の出版を快く引き受けていただいた、そして続編としての対談をHPに掲載していただいた展望社にお礼を申し上げます。
年末の一日、犬三匹と日向ぼっこしながら自然の中にいると、世の中のことなどすっかり忘れ去ります。心がどんどん優しくなっていく自分を感じます。このまま人生を終えたい誘惑にかられます。しかしこれからの日本は間違いなく大きな岐路に立たされていく。その証人となるよう、自らの思いをしばらくの間発信していこうと思います。来年からは自らのブログを再会するつもりでいます。よいお年をお迎えください。
添付
http://www.tembosha.com/kd_diary/kd_diary.cgi?20061228
タイトル(バックナンバー)一覧:
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