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http://www.nikkeibp.co.jp/style/biz/feature/tachibana/media/061227_kanryou/ から転載。
未熟な安倍内閣が許した危険な官僚暴走の時代
世論調査に見る安倍内閣の支持率が、目に見えて落ちはじめた。暴落というほどではないが、ジワリジワリと落ち続けている。
なぜ落ちるのか。理由はいろいろあろうが、一言でいえば、安倍首相が総理大臣の器ではないことがだんだん見えてきてしまったということではないだろうか。
別のいい方をするなら、安倍は総理大臣になるのが早すぎたのだと思う。
よく知られているように、安倍はまだ52歳である。戦後最も若い総理大臣である。だが、最も若くして総理大臣になっておかしくないだけのブリリアントな能力を片鱗でも見せたかというと、見せていない。
若さゆえの欠陥が目につくばかりである。戦後最も若いということは、「戦後最も未経験の」というのと同義語である。若さのメリットより、若さのデメリットばかりあらわれているということだろう。
若さの欠陥がどこにあらわれているのかといえば、リーダーシップ能力の欠如だろう。
安倍人事最大のミスキャスト
大組織をひきいるリーダーシップ能力はどこで発揮されなければならないのかといえば、人事である。大組織はトップダウンで一から十まで動かすことはできない。政策もトップがすみずみまで差配をふるうことはとてもできない。自分が経験不足であればあるだけ、当然、要所要所にそれを補うだけのベテランないし実力派の人材が配されなければならないのに、安倍は自分が位負けしてしまうことを恐れたのか、自分と同程度の人材をならべて内閣を作ってしまった。
最大のミスキャストは、官房副長官の的場順三だろう。官房副長官は、官房長官以上に内閣の要となるポストである。
日本という国家の基本システムは官僚制である。官僚制に対する批判はいろいろあれど、国家システムの実体は官僚が握っているという現実があるのだから、官僚をきちんとおさえなければ、国家の統治機構の歯車がまわっていかない。
霞ヶ関の基本構造を知っている人は誰でも知っているように、その要のポストが内閣官房副長官である。
国家統治機構の最上位にあるのが内閣で、各省の大臣が集まって会議をする閣議において、国家統治の最重要事項が決まっていくのだと思っている人が多いが、そう考えるのは、素人だけである。
閣議でおこなわれていることはほとんど国家統治の儀式に属する部分であって、大臣たちが閣議室にこもって何をやっているのかというと、ほとんどの時間が、大臣の署名が必要な法案(これがものすごく多い)に対して花押を書いては書類をまわしていく事務的手作業に費やされているのである。
では、実質的な国家統治の重要事項が、どこで語られ、どこで決まっていくのかといえば、閣議の前日に行われる事務次官会議である。事務次官会議で決定されたものだけが、翌日の閣議にかけられる。その事務次官会議を仕切るのが、官房副長官なのである。いってみれば、官房副長官は、事務方の総理大臣役なのである。
事務次官会議を仕切る官房副長官の役割
官僚の世界で何が一番大切かといえば、順位である。官僚の世界の基本ルールは、幾つかあるが、最大のルールは順位を乱さないことである。
順位の基本は何かというと入省年次プラス入省時の席次である。同じ年に入った官僚たちは、毎年席次に従って同じように出世していく。一定のポストをローテーションんでまわりながら階級を一つずつ上がっていく。上位に行くに従ってポストの数が減り、上がれない人は外局に出るか、外部に転出していく。本省局長になれる人は局の数だけしかいないし、次官になれるのは一人だけだ。
このシステム(年功序列。席次制)は、明治国家の創設以来、日本の官僚社会でずっとつづいてきた慣習で、これを破ることは事実上不可能といっていいほど日本の社会に根深く入りこんでいる。おそらくその起源は、奈良平安朝の昔まで、あるいはそれ以上に古いところまでたどれるのではないだろうか。
同じシステムが、陸軍、海軍の軍人の序列と進級にも働いている。昇級進級の基準が、陸軍の場合は士官学校の卒業席次、海軍の場合は海軍兵学校の卒業席次。日本の陸海軍をダメにしたのは、この順位席次システムであると昔からいわれつづけたが、それがゆるめられることはなかった。同じように、官僚の世界でも、このシステムがいけないと何度も言われながら、ほとんど全く変わることなく、明治以来今日までつづいている。
このようなシステムの中で、事務次官会議を仕切る官房副長官は官僚トップの身分である全省庁の次官を集めてそれを仕切る役だから、官僚の最高のポストと目されている。そして、これまでは、全官僚から、この人ならと目される人が選ばれてその椅子に座ってきた。通例それは旧内務省系(警察庁、自治省、厚生労働省など)の次官が選ばれてきた。そしてその椅子に座る人は、それなりの存在感を持って全官僚を威圧できる人だった。その典型とされるのが、田中内閣時代の後藤田正晴官房副長官である。
田中内閣時代の田中角栄の支配力の半分くらいは後藤田官房副長官の威圧力によるものといわれた。そのパワーを大いに評価した田中角栄は、後藤田が官僚を引退すると、これをすぐに選挙に出して、代議士にし、田中派の重鎮にしてしまった。後に中曽根が総理大臣になると、この後藤田の能力をもう一度利用したいということで、官房長官にしてしまい、中曽根時代は後藤田時代でもあったといわれるほどの辣腕をふるって内閣を切りまわした。
官僚コントロール能力の欠如が政権を揺るがす
安倍が的場順三をもって官房副長官にすえたとき、これは意外の目をもって見られた。的場は国土庁事務次官の経験者であるとはいえ、そのときすでに73歳で、とっくに適齢期をすぎての任官だった。現役の次官たちとは直接の面識がなく、顔で仕切れるような実績も人間関係もなかった。出身も京都大学卒の大蔵官僚で、大蔵省での最高ランクが主計局次長だったから、官僚としては、二流のキャリアしか持っていない。
国土庁事務次官を経て民間に出てから、大和総研理事長を3年ほど務めたあとは、安倍に突然大抜擢されるまで、大和総研特別顧問といったポストにしかついていない。なぜこの人を安倍が大抜擢して官房副長官という要職につけたのか、誰にもよくわからない。
結局なぜ安倍が的場を官房副長官すえたのかよくわからないまま様子見をしていた官僚たちも、すぐに、的場の力を見抜いてしまったので、的場は田中内閣時代の後藤田官房副長官とは逆の立場になりつつある。つまり、存在感がどんどんなくなり、おさえがきかなくなって現場の官僚たちに逆に仕切られてしまっているということだ。
そういう状況下で、安倍も必然的に高級官僚たちになめられてしまっている。
そのあたりが安倍と安倍の尊敬する祖父の岸信介といちばんちがうところだ。岸は東大法学部でいつも主席を奪うほどの大秀才で、商務省に入って官僚になってからも常に官僚の世界で、抜群に切れる男として他の省庁にも鳴り響くほどの名をほこっていたから、総理大臣になってからも、難なく誰の助けも借りずに楽々と、官僚世界を支配した。岸は稀代の論争家でもあり、必要とあらば官僚と正面切った論争をして、官僚を理屈でねじふせることもできた。
しかし、安倍にはそのような能力が決定的に欠けている。学歴にしても成蹊大学というお坊ちゃん大学の出身で、東大生を家庭教師に雇って勉強を教えてもらったほうだから、どうしても東大卒のトップ官僚たちにコンプレックスをもってしまうのである。
自分に直接官僚を支配する能力がなくても、そのような能力を持つ男を自分の部下として意のままに使うことができれば、それでも総理大臣を立派に務めることができるのだが、実際、歴代の総理大臣で、官僚と直接対決して理屈で相手をねじふせられるだけの知力を持った総理大臣は滅多にいなかったが、それでも部下に適切な人を選べるだけの能力があれば、人を使うことで総理大臣職は務まるのである。
安倍内閣はミスキャスト満載
しかし、安倍には、その能力がまた抜本的に欠けているらしい。安倍内閣は、ミスキャストの高官たちがいっぱいである。
本日、例の怪しい政治資金団体問題で辞任のやむなきにいたった佐田玄一郎行革担当相などもその典型だろう。事がはじめて明るみに出た昨日夜、記者団に取り囲まれて、次々に質問を受け、「いま調べているところですので・・・」としか返答することができず、ただただシドロモドロになっていく一方の佐田行革担当相を見ながら、「これでも大臣かよ・・・」と毒ずきたくなった。
つい数日前、愛人と官舎に同棲していたことがバレて辞任のやむなきにいたった本間正明・政府税調会長にしても同じだ。見っともない記者会見だった。あの醜態を見ながら安倍首相は、どこか人を見る目が根本的に欠けているのではないか、と思った。おまけに、情勢判断能力も弱いようだ。
本間会長の一件が週刊誌に見事に暴かれたとき、マスコミ関係者はみないっせいにこれはヤバすぎると判断していた日の夕方の会見で、安倍首相は本間氏を擁護して、「今後は立ち直って立派に職責を果たしてくれるものと期待しています」などとトンチンカンなことを述べていた。
本間氏が辞任したあとの後任人事も、まるで解せない。選ばれたのは、香西泰・日本経済研究センター特別研究顧問。この人もまた73歳というご老人で、もはや現役の経済学者ではない。「特別研究顧問」などという肩書きは、単なる名誉職ということである。
もともと香西氏は税制は門外漢のマクロ経済の専門家で、記者会見で、「私は税調の中でいちばん経験がない。ゆっくり実力を身につけていきたい」と語っていたそうで、「日刊現代」に、「こんなジイさんで大丈夫か!?」と、揶揄されていた。たしかにいくらなんでも就任記者会見で、「これからゆっくりと実力を身につけていきた」はないだろう、と思った。
センチメンタリズムが国を危うくする
実はそんなこと以上に、私がかねがね安倍首相の政治家としての資質で疑問に思っているのは、彼が好んで自分が目指す国の方向性を示すコンセプトとして使いつづけている「美しい国」なるスローガンである。情緒過多のコンセプトを政治目標として掲げるのは、誤りである。
だいたい政治をセンチメンタリズムで語る人間は、危ないと私は思っている。
政治で何より大切なのは、レアリズムである。政治家が政治目標を語るとき、あくまでも「これ」をする、「あれ」をすると、いつもはっきりした意味内容をもって語るべきである。同じ意味を聞いても、人によってその意味内容のとらえ方がちがう曖昧で情緒的な言葉をもって政治目標を語るべきではない。
人間Aにとって「美しい」ものは、人間Bにとっては、「醜い」ものかもしれない。政治は人間Aに対しても、人間Bに対しても平等に行われなければならないのだから、その目標はあくまでも明確に具体性をもって語ることができる内容をともなって語られなければならない。
歴史的にいっても、政治にロマンティシズムを導入した人間にろくな政治家がいない。一人よがりのイデオロギーに酔って、国全体を危うくした政治家たちは、みんなロマンチストだった。
政治をセンチメンタリズムで語りがちの安倍首相は、すでにイデオロギー過多の危ない世界に入りつつあると思う。
安倍首相にはそれよりもっと、人を見る目を確かなものにするといった実用的な能力をしっかりと身につけてもらいたいものだ。
立花 隆
評論家・ジャーナリスト。1940年5月28日長崎生まれ。1964年東大仏文科卒業。同年、文藝春秋社入社。1966年文藝春秋社退社、東大哲学科入学。フリーライターとして活動開始。1995-1998年東大先端研客員教授。1996-1998年東大教養学部非常勤講師。2005年10月-2006年9月東大大学院総合文化研究科科学技術インタープリター養成プログラム特任教授。
著書は、「文明の逆説」「脳を鍛える」「宇宙からの帰還」「東大生はバカになったか」「脳死」「シベリア鎮魂歌—香月泰男の世界」「サル学の現在」「臨死体験」「田中角栄研究」「日本共産党研究」「思索紀行」ほか多数。近著に「滅びゆく国家」がある。講談社ノンフィクション賞、菊池寛賞、司馬遼太郎賞など受賞。
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