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(回答先: 「教育基本法と愛国心のふぞろいな関係(2)」 [ビデオニュース・ドットコム] 投稿者 white 日時 2006 年 12 月 26 日 18:09:55)
□「教育基本法と愛国心のふぞろいな関係(3)」 [ビデオニュース・ドットコム]
http://seiji.yahoo.co.jp/column/article/detail/20061225-04-0901.html
2006年12月26日
「教育基本法と愛国心のふぞろいな関係(3)」
ゲスト:鈴木邦男氏(一水会顧問)
「恋」、「悲劇の共有」の欠如
神保 鈴木さんの著書の中でもう一つ興味深かったのは、邦男さんは「愛国」という言葉がお嫌いで、実際は日本でいうところの「恋」に近いのではないかというところです。「愛国」ではなく、むしろ「恋国」ではないかと書かれていましたが、そうなのでしょうか。
鈴木 愛というのは相手をかなり縛ってしまうじゃないですか。「俺がこんなに愛しているのにお前はなんだ」とかね。それで本当に愛しているのは分からないし。国家だってそうです。むしろ「俺こそが国家を愛しているんだ」などとストーカー的に言われては、国家がかわいそうです。それでは言わない人は愛国ではなくなってしまう。それが嫌ですね。
宮台 邦男さんがこの本でおっしゃっているのは、「愛」という言葉は能動性が強調されているがゆえに、まやかしだということです。「恋」というのは感染するものなのだと。つまり、愛そうと思って愛するわけじゃない。簡単に言えば、愛してしまうわけです。それを日本では「恋」と言っていたと。こういうものこそが愛国なのではないかとおっしゃっている。実はこれも思想史的には正当な思想で、例えば「自律」と「依存」という対立する言葉がありますよね。自律した人間は内側から湧き出るものに従えるんです。今度は、「自律」と「他律」ですが、これはもともと右翼的なるものの源泉となる初期ギリシャの感受性で、自律するが故に自分でないものに感染させられる。それを自律的他律というんですが、これを推奨しているんですよ。ヘタレ右翼というのは「自律」ではなくて「依存」なんですよ。他を律するのではなく、自分は何もせずに他を強制するという。
神保 では、今の愛国はほとんどそれになるじゃないですか。
宮台 そうなんですよ。だからインチキだということです。僕が本当に不思議だと思うことは、なぜ日本で右翼の正当思想についての議論がなされていないのかということです。17年前のドイツ統合がどのような現状をもたらしているのかということを描いた『善き人のためのソナタ』という映画がありますが、これを観ると、結局なぜ日本にヘタレ右翼しかいないのかというと、経験が少ないからだということがわかります。
旧東ドイツにはあまりにも密告者が多かったので、旧東ドイツ全員がナチだといった差別が始まります。しかし、統合において誰を糾弾するのかという時に、西ドイツは人道性優先の原則を置いたのです。ドイツ統合で旧東ドイツ政府は間違っていたということになったけれども、当時の東ドイツでは国に協力することは善き人であることの証だったのだから、そういう人たちには寛容に振るまいましょうと。ただし、あまりに非人道的なことに手を染めた人については社会的な制裁を加えましょう、というふうにした。これを僕は合理的だなと思ったのですが、映画が描いていることは、そんなのは綺麗ごとで、何が人道的で何が非人道的なのかいう尺度も、実は国や時代が変われば変わってしまうということです。この矛盾に多くのドイツ人たちが直面したというわけです。
人間というのは不完全で、イデオロギーや旗印などというのは人間の不完全性の象徴です。善きものだと思って縋ったらとんでもないところだった、ということが繰り返し起こります。そういうときに、本当に善きこととは何かと単純には言えない。正しいイデオロギーを持つことが善きことなのか、でもそれは体制が変われば、正しいイデオロギーは一転間違ったイデオロギーになってしまう。それでも生き残れるよき生き方とは何なのだろうというのが、ドイツの表現や思想の世界における共通の認識です。ところが日本ではそれが全くなく、まだ旗色の話をしているのですよ。
神保 その話と似ているなと思ったのですが、南アフリカにアパルトヘイトの真相究明委員会といったものがあるんです。これも事実上すべてを恩赦して、その代わりに何が起きたのか、白人がどれだけ酷いことを黒人にしたかといったことの究明に全力を注ぐわけです。そうすると、やはり真相が分からないと和解が生まれないわけで、その場は修羅場みたいな話になります。黒人の子供と、その母親を殺した警察官とが抱き合ったりするような美談もありますが、実際は罵り合いなども起きるわけです。しかし、これを乗り超えなければ和解は進まないし、南アフリカは立ち直れない。日本はこういう痛みを経験していないですよね。
宮台 抽象的にいうと、人は悲劇から学ぶんですよね。悲劇によって深くなるものなのですが、日本は深くなるチャンスとしての悲劇を共用できませんでした。
鈴木 ただ、日本で愛国心を国家の下に持ってきてから100年ちょっとしか経っていないでしょう。その前まではみんな藩でしたからね。だから会津と薩摩、長州は、今でも仲が悪いなどと言いますよね。戦争が終わったときに、会津の人たちは薩長日本が負けたとして万歳をしたと聞いたんですが、そんなことをしたのかなと思って。どうですか。
宮台 僕はありえると思います。
鈴木 そんなに長いあいだ復讐心を持っているんですか。
神保 僕の祖父が山口県出身で、妻側が会津なんですが、今でも私が妻の実家を訪れると、そのことが話題になります。少なくとも会津ではまだこだわりがあるようにも感じられます。
宮台 面白いと思うのですが、維新の立役者というのは薩長を含め西南日本の人たちが多いですよね。ところがアジア主義を経て、明治の後半にベタな国粋主義が出てくる中で、「それはインチキだ、本当の右とはこういうものだ」と示したのは北の人たちなんです。ですから、西南日本から北のほうに思想の主導権が移ったのだと思います。北的なピュアさというのは重要で、表面的に愛国を語っていたりしていても、「こいつは駄目な奴だ、不純な奴だ」と気付く感受性というのはすごく北的な感じがするんです。だから「何を言っているか」ではなくて「どういう奴なのか」ということを、少し一緒に過ごして見てみようという感覚をお持ちではないかと、邦男さんを見ていて思います。そういう態度的な余裕がなくて、「何を言っているか」でみんな右往左往していますよね。
現状維持は愛国か
神保 邦男さんは、愛国は嫌だけど憂国は評価するとおっしゃっています。愛国と憂国の違いはどこにあるのでしょうか。
鈴木 僕の勝手な判断ですけど、愛国というと今の日本をそのまま認めているような感じがします。だから自民党は好きなんでしょうね。しかし、憂国となると、このままで日本はいいのかということです。それを直そうとします。二・二六事件も憂国です。そうすると、どこか反日と相通ずるところがありますね。
神保 だから国家は、憂国ではなく愛国を奨励するわけですね。
鈴木 こんな日本でいいのか。腐った日本はぶっ潰せぐらいいきますよね。そういう意味で憂国と愛国は全然違うのではないかなと思います。
宮台 分かりますよ。自民党のバカ議員が「政府を批判する奴は反日分子だ」と言っているんですよ。
鈴木 反政府が=反日なんだ。
宮台 昔の右翼でいえば、そういう奴から真っ先に討っていくわけですよ。こいつは君側の奸である、馬鹿であるとしてね。
神保 要するに政府を批判することは、本来は愛国的な振る舞いであるというふうに考えていいということですか。
鈴木 はい。
宮台 さっき邦男さんがおっしゃっていたことと絡むと思うのですが、「日本は良い国だから愛しましょう」と言っている奴らは現状維持的になるんですよ。良い国だって現状を維持する背景には、必ず利権や権益があるんです。「今の日本は悪い国だが、愛している国が悪い国だとダメだから良い国にする」ということで、売国奴や奸臣を討ち殺して世直しをする。これがやはり愛国でしょう。
鈴木 テレビで学校の先生が愛国心教育をしているのを見たのですが、小学生に対して「日本は良い国だから愛しましょう。日本には四季があって、自然も美しくて、砂漠だけの国とは違うでしょう。だから美しい国なんだから国を愛しなさい」と教えていたんです。でもそれでいいのかと私は思いましたね。だから、先生を含めて愛国心を教える資格がある人なんかいないのではないかと。
神保 でも愛国心を教えようとしたら、そんな話にしかならないですよね。
鈴木 それと、政府答弁を見ていたら、歴史上の偉い人たちを取り上げて教えるというのがあったんです。昔だったら、吉田松陰とか楠木正成といった人たちになるかもしれないですが、もう少し時代が変わったら、例えば尾崎行雄とか西郷隆盛とかね、こういう人こそ愛国者だというわけです。でも、それは分からない。
神保 西郷さんも、どう教えられるか分からないですもんね。
鈴木 では、この人は愛国者だけれども靖国神社には祭られていないと。
神保 結局は、誰が教える偉人を選ぶかによって、どうにでも変わってしまいますよね。
鈴木 やはり自民党が、この人を取り上げて教えろというふうになるのではないですか。
イデオロギーの違いよりも確かなもの
神保 最終的な出口の話をうかがいたいのですが、多くの人が、日本を良くしたいと思う気持ちはあるが、どうすればいいか分からないで燻っているうちに、安直な愛国というスローガンに乗っかってしまっているとすると、彼らは具体的にどうすればいいのでしょうか。例えば、邦男さんの話を聞いていて、自分はいわゆる今言われている愛国者ではなくて憂国者だなと思ったときに、どうするかですよね。
鈴木 それはもっと迷えばいいのではないですか。何かがないと不安なのでしょうが、マルクス主義だとか、何とか主義だといった柱に縋りつくのは、やはり良くないです。
宮台 さっき邦男さんがおっしゃっていた「凄い奴」というのを認める力が重要だと思います。「こいつは凄い」と認めて観戦する力が、僕たちの支えになるのだと思います。例えば、2ちゃんねるの右翼的な考えがそんなに長く続かないと思うのはなぜかというと、日本人は流されやすいけれどある種の敏感さがあって、かっこいいものとかっこ悪いものを識別する力はあるんです。ある時期から援助交際はかっこ悪くなったので、一挙にリーダー核の女の子が引き、そして援助交際はかっこ悪いものになりました。同じように、根があるが故に翼を持ている奴と根がないが故に柱に縋っている奴は、実は言葉を使わなくても分かるわけですよ。これはかっこ悪いなと気付いて、俺はかっこいい側に付きたい、という奴が出てくると思います。邦男さんが凄いのは、すべての本に住所や電話番号が書いてあることです。
神保 個人の電話番号も、ちゃんと書いてありますね。
鈴木 少なくとも人にものを訴えているのだから、批判でもなんでも受けないといけないだろうと思います。
宮台 もう一つ、人の力は本当に大事だと思う。森田必勝さんたちは、邦男さんたちが勧誘したということが痛みの源泉なんでしょう。似たことで逆向きなんだけど、例えば塩見孝也さんがブントの荒岱介を勧誘したということが、今度は荒岱介の回心や怨念の源泉なんです。 つまり、イデオロギーはイデオロギーとしてあるとしても、人は人との繋がりの中でリグレットしているわけです。それがやはり大事なことですよ。「俺が尊敬した奴は、こんな奴しかいなかったのか」とか「俺が駄目だと思っていた奴が実はこんな凄い奴だったのか」ということから、実は自分の内発性が鍛え挙げられていく、研ぎ澄まされていくのだと思います。
鈴木 思想運動って案外そうですよね。でもそういうことは忘れられて、どちらかのイデオロギーだけが前面に出てますよね。だから理論を検討して入ったという人はあまりいないでしょう。先輩がいたとか、たまたまクラスの友人がいたりとかして、そいつがたまたまいい奴だから話を聞いたと。「こいつは世界観が素晴らしい、でも人間はダメだと」いうことで入った人は誰もいないですもんね。結論はやはり人間です。
神保 邦男さんは名前自体に「邦」という字が入っていて、「国」だといきなり政府、国家という感じがしますが、この「邦」はパトリという要素が入っているじゃないですか。ですから「愛国心」の代わりに「愛邦心」(あいほうしん)みたいな呼び方が意外と良いのではないかと思ったりしました。「愛郷心」だと突然会津、薩摩になってしまいますが、愛邦人はもう少し大きくて寛容な感じがします。この議論が、多くの方にとって、もう少し別の角度から愛国を考える機会になったら嬉しく思います。今日はどうもありがとございました。
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