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□「タウン・ミーティング」と「コール・イン」 [国会TV]
http://seiji.yahoo.co.jp/column/article/detail/20061220-01-0601.html
2006年12月20日
「タウン・ミーティング」と「コール・イン」
「恥を知れ!」と壇上から民主党の菅直人代表代行が叫んで、衆議院本会議場は騒然となった。
12月15日、安倍内閣に対する不信任決議案の趣旨説明が行われた時のことである。しばしの沈黙の後、「タウン・ミーテイングの調査報告書を読んだときに私の頭に浮かんだのは、その言葉です」と菅代表代行は続けた。
菅代表代行が叫んでみても、内閣不信任案は三分の二以上を占める巨大与党によってあっさりと「一蹴」され、続いて開かれた参議院本会議で重要法案が軒並み成立、安倍内閣初の臨時国会は事実上閉幕した。
小泉政権下で行われたタウン・ミーティングは、わが国の民主主義がまさに「民主主義もどき」でしかないことを満天下にさらした。官僚の指示通りに意見を述べる国民がいて、それを国民の声として利用する政府があった。
そもそもタウン・ミーティングはアメリカ民主主義の原点とも言うべきものである。投票権を持つ町民が町の集会場(タウン・ホール)に集まって町の政治について議論する。そうした伝統をアメリカ人は民主主義の基本として大事にしてきた。
官僚が「やらせ質問」を作成し、参加者を「動員」し、運営を巨額の費用で広告代理店に丸投げした会合に「タウン・ミーテイング」と命名したことをアメリカ人が知ったらどう思うだろうか。私はその事が恥ずかしかった。
「やらせ質問」も「動員」も、全ては予定調和でないと収まらない官僚らしいやり方である。彼らの考えは、「タウン・ミーテイングなんか開いても、集まるのはどこかの組織から弁当付きで動員をかけられた特定の集団である。普通の国民など集まる筈がない。発言するのも特定の人間で、みな政府の方針には反対するだろう。普通の国民が発言することなど全く期待できない。それをいかにもタウン・ミーティングにみせるためには『動員』と『やらせ』をするしかない」というものだ。
さらに言えば、有識者を集めた役所の「審議会」で毎度行っているように、自分たちに都合の良い結論に導くシナリオを書くのは官僚にとってお手のものである。そこに世論誘導を得意とする大手広告代理店も加われば、アメリカ民主主義の原点はあっという間に国民を目くらます世論操作の道具に変貌する。こうして「タウン・ミーテイング」という名の茶番劇が国民の圧倒的支持を集めた政権の下で行われた。
現在この「タウン・ミーテイング問題」に対しては国民もメディアも政治家もみんな怒っている。しかし私には国民もメディアも政治家も本当に怒る資格があるのか、いささか疑問なのである。
アメリカにはテレビでタウン・ミーティングを行っている放送局がある。我々「国会TV」が真似をしようとしているケーブルテレビ局C−SPAN(シー・スパン)である。
C−SPANはアメリカ連邦議会の中継を専門に行っているが、一方で「アメリカン・タウン・ホール」と呼ばれている。タウン・ミーティングをやる放送局という意味である。何故そう呼ばれるかと言うと、毎朝「コール・イン」番組を放送しているからである。「コール・イン」とは、スタジオに政治家やジャーナリストを招き、それらのゲストに視聴者が直接電話で質問が出来るというもので、C−SPANでは電話が掛かった順番に次々にスタジオにつなぎ、政治家やジャーナリストと視聴者がアメリカ政治を巡って会話する。
「なんだそんなことか」と思うかもしれないが、少しでも放送を知っていれば、それはありえない番組だと分かる筈だ。C−SPANは誰から電話が掛かってくるのか、どんな質問なのか、全く事前の打ち合わせなしにぶっつけ本番で生放送しているのである。
通常放送局が言う「視聴者参加」とか「国民参加」は、放送局が必ず選別をして都合の良い人間だけを集める。放送局にとってはとんでもない発言をされることも困るが、演出通りにならないことも困る。だから出演者は素人であっても全て放送局の「演出」を嫌がらない、「演出」どおりに演じられる人達しか集めない。「視聴者のご意見をファックスでお寄せ下さい」となるのは放送局が意見を選別できるからで、電話の生の声を放送する場合も、それは事前に選別され打ち合わせ済みのものである。官僚が特定の集団が押しかけてくるのを恐れ、「動員」と「やらせ」を行うように、放送局も「選別」と「演出」を行わないと放送が出来ない。
ところがC−SPANはそうした「演出」や「選別」を一切やらない。「視聴率を意識するところからテレビの堕落が始まる」というのがC−SPANの哲学で、「あるがまま」をあるがままに放送する事を旨としている。だから「コール・イン」番組も面白かろうが退屈だろうが、右寄りだろうが左寄りだろうが、ただ順番に電話をつないでいく。意味不明の事を言ったり、放送禁止用語を言ったときだけ、司会者が電話を切る。当然「やらせ」はない。そしてその事が「民主主義を強くする」のだとC−SPANは主張している。
C−SPANの「コール・イン」番組を見て、私は「日本のテレビ局の常識では考えられないが、演出のないやり方こそ、実はテレビの原点かもしれない」と思った。演出など所詮はたかがしれている。スポーツ番組が面白いのは演出を越えた何かがあるからだ。
C−SPANを真似して日本で国会TVを開局したのは1998年である。CSで放送を始めたが、「政治ホットライン」というタイトルで1時間の「コール・イン」番組を始めてみると、アメリカとは違う日本の「民主主義もどき」が様々に見えてきた。
まず国会議員に出演交渉をしてみる。「一般の視聴者から素朴な質問が来ます。どんな質問かは分かりません」と言う。すると「事前に質問が分からない番組には出演できない」と拒否する議員が多い。「いやいや素朴な質問ですので」と言っても「事前に万全の準備をしなければ」と言って断ってくる。
「その番組は危ない!」と言った超有名な女性議員もいた。ミスをしたら取り返しがつかないと言う。「編集してくれない番組は嫌だ」と言った女性党首もいた。自分たちのミスをうまくカバーしてくれないテレビには出たくないと言う。
あちこちのテレビで大活躍の議員も「こんな怖い番組はない」と言った。「サンデープロジェクトや朝生はどんな質問をされるか分かっているし、せいぜい5分か10分の時間をしのげばいい。しかしこれは…」と言うのだ。
出演してくれるありがたい議員も妙に視聴者に媚びるところがある。自分の選挙区の視聴者から電話があった。すると議員は「オジモトサマですか?」と聞き返す。それが「お地元様」と言ったと分かるまでに時間がかかった。
学者から政界入りした国会議員は番組が終わった後で、「同じ先生でも学者の方がずっと良かった。あっちの先生はペコペコしなくとも済むが、こっちの先生は馬鹿な人間にペコペコしないと、俺は有権者だと怒鳴られる」と言った。
そして問題なのは電話を掛けてくる視聴舎だ。アメリカのC−SPANを見ていると「家にいながら政治家と話が出来るなんて、素晴らしいチャンスを与えてくれてC−SPANありがとう」と感謝の言葉を表す視聴舎が多い。政治家に対する物言いも謙虚でへりくだっている。
ところが日本でそんなことを言う視聴舎はいない。「俺はお客だ」という顔をする。視聴料金を払っているから質問できるのは当然の権利だという態度である。
番組を始めた頃、金融機関の破綻を税金で助ける法案が議論されていた。するとのっけから「おまえらは一体なんだ。汗水流して働いている俺達は助けられないで、何で銀行を助けるんだ」と罵詈雑言の連続である。言いたい気持ちは分かるが、しかし礼儀というものもあるだろう。そうでなければ陳情である。「保育園の費用が高すぎるので何とかして欲しい」。言われた国会議員も困ってしまう。「市会議員の方に相談してみてください」というしかない。とにかく相手が国会議員だというと苦情と陳情のオンパレードなのだ。
この国の国民にとって政治とは、陳情してお願いをするか、罵詈雑言を言ってうっぷんを晴らすか、そうした対象でしかない事を嫌と言うほど思い知らされた。それが日本の民主主義のレベルであるようだ。
ところがそのうちに視聴者の電話が変わってきた。自分の意見を言い、議員の意見を聞いて、「私と議員とは意見が違いますが、これからも頑張ってください」と言える視聴者が出てきた。やっとC−SPANに近い「コール・イン」が出来るようになるかと思ったら、今度は小泉政治の影響で、議員達は先を争うようにテレビのバラエティ番組に出演するようになり、政治の芸能化が始まった。地味な番組に出演しても全く票にならないという考えが優先される。政治家が芸能タレントに媚びを売る時代になったが、そんなテレビをアメリカでお目に掛かることはない。
お陰で「国民と政治をつなぐ番組」として始めた国会TVの「政治ホットライン」は未だに日の目を見ることが出来ずにいる。
タウン・ミーティングのやらせ問題はとんでもない問題だが、それは「悪い官僚」が仕組んだ「極端」な事例ではなく、国民にもメディアにも政治の世界にも内在する日本の「民主主義もどき」が表に現れたにすぎない問題なのである。
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