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我ら言葉のほかに失うものなし
天木・筆坂熱血インターネット対談
2006/12/19(Tue)
教育基本法改正のどこが危険なのか(天木)
教育基本法改正のどこが危険なのか
天木直人
数にまかせてどんな法律でも成立させる事のできる今の自公政権にとって、戦後の憲法と一体をなす教育基本法の改正といえども、朝飯まえであったに違いない。
今度の教育法改正の何が危険なのか。勿論それは愛国心の強制であり、教育の自由の剥奪である。しかしその危険性を今度の改正教育法案だけのせいにしては、本当の危険性を国民に分からせる事は出来ない。
国民のほとんどは、どのような法律案であろうと、その文言の一字一句読むことはしない。「荒廃した教育の現状を改善する為にこそ教育法改正は急がれる」とか、「自分の国を愛する事はあたりまえではないか」といった単純かつ感情に訴える説明によって、むしろ多くの国民はなるほどと納得させられたの違いない。
そこが政府のつけ目なのである。改正法律案の文言には、愛国心を強制したり、教育の自由を奪うことを明記する条文はない。それどころか、「わが国と郷土を愛する態度を養う」、とか「教育はこの法律および他の法律の定めるところにより行われる」などといった抽象的かつ不明な文言で埋め尽くされている。政府にとってどのような文言の改正を行うかということよりも、改正をすることこそが重要なのである。
なぜならば法改正によって行政にあらたな権限が付与されたとたん、行政は我々の眼の届かないところで行政裁量という名の強権を発動し、おびただしい政令、省令、通達、要領をつくって国民を規制することができるのだ。この段階ではメディアはほとんど報道しなくなる。我々には何も見えないのだ。それが危険なのである。
国民に知らしめるのはこの危険性である。政権の意図を見透かすことが重要なのだ。そして政府の意図が危険であると見抜いたなら、どんな文言であってもその法改正に反対する、そういう単純な発想こそ重要なのだ。条文修正に応じたり、対案を出して交渉したりすれば、その段階で負け戦となるのだ。
12月18日の毎日新聞に伊吹文明文部科学相のつぎのような言葉が引用されている。「(今の教育基本法は)仏様を作っただけで魂が入っていない。この法律を実効あるものにしていく為、制度改革に手をつけていく」。これは伊吹大臣が9月に就任した際の発言だという。この言葉こそ政府の意図を見事に代弁するものだ。
それから3ヵ月後、教育基本法にあらたな仏様(改正)が入って、文部科学省の官僚たちは、教育行政の制度改革を猛烈なスピードで進めていく事であろう。おびただしい数の政令、省令、指導要領、行政指導などをつくり出し、国家権力による介入を網の目のように張り巡らせて行く。
それがどのように危険で強大なものか、国民が知るのはこれからだ。しかし気づいた時は手遅れである。改正法案の解釈は官僚が独占的に行う。それが法律違反であると訴えたところで、司法官僚に裁かれる裁判によって国民の利益が守られたためしはない。今度の教育基本法改正の危険性はまさにそこのところにある。
教育基本法改正の危険性に気づくのはこれからである。そしてその時はすでに時遅しなのである。
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