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2007年01月22日
教育改革とは学歴社会をなくすことだ。
教育再生会議が19日に報告書案の第一次案を出した。様々な人間が思いつきで勝手なことを言い、その一方で文部官僚は自らの権限維持に固執する。そして安倍首相は政治決断を避け報告書案が政治方針になるのか曖昧なままだ。この教育再生会議が膨大な時間と金の無駄で終わることはもはや明らかである。
しかし私がここで言いたいことは教育再生会議の批判ではない。本当の教育改革は別のところにあるということだ。それはこの国の異常な受験競争と学歴偏重主義である。ここから抜け出せない限り日本の教育の真の改革はありえない。
野球少年だった私は小学校を草野球に夢中になって過ごした。それは楽しい毎日であった。しかし中学に入った時に私の生活は一変する。野球部に入ったまではよかった。やがて練習に時間がとられるようになり学校の成績が落ちてきた。その時子供心にこう考えた。このまま好きな野球を続けていこうか、野球をやめて受験に没頭しようかと。誰かから言われたわけではない。子供心に考えて結論を出した。いい大学に入ればその後の人生は保障される。こう自分に言い聞かせてその時から野球をきっぱり止めて受験勉強に生活を切り替えた。思えば現実的、打算的なガキであった。そう決断した後で「中学、高校の6年間はながいなあ」と憂鬱な気分で一人ため息をついた自分を思い出す。
あれから50年近くたった。出来れば二度と受験生活はしたくないと思う。競争心の強い一握りの優秀な子供を除いて、受験勉強は多くの子供を苦しめていると思う。いや受験競争に勝ち残った勝者さえも、それとは引き換えに、大きな何かを失っていると思う。
今は受験競争も当時と比べてはるかに厳しくなっている。幼少から塾通いが当たり前になっている。学校より塾を優先するようになっている。裕福な家庭の子供が受験に有利となりこれが格差社会を助長すると言われている。こんな状況が子供を苦しめないはずはない。学校教育を歪めないはずはない。親を悩ませ社会を蝕まないはずはない。先般大騒ぎになった世界史の必修逃れにしても受験競争優先の産物に他ならない。受験に立たないものを学ぶ余裕はないのだ。皆知っていながら放置されてきたのだ。文部省さえも。
受験競争をなくす方策を見つけるのは勿論容易ではない。私に名案があるわけではない。ただはっきり言えることは、それは教育制度と社会意識の双方の改革が必要であるということだ。教育制度に関していえば誰でも希望する大学に入れるようにして、そのかわり卒業条件を厳しくするという改革などもひとつの考えであろう。大前研一が繰り返して提案しているサイバー大学によるコンテンツ重視の大学を普及させることも将来の大学の姿かもしれない(2月2日号週刊ポスト、ビジネス新大陸の歩き方)。
しかしより重要なのは何のために学ぶかということを根本的に問い直すことである。学びたい者が大学に行く、学びたい事を好きな大学で学ぶ、それが本来の進学であろう。しかし日本の場合は学歴社会の為に大学に行くことになっている。確かにこの風潮はどの国でも見られる。しかし日本の場合は極端だ。
学歴、つまり肩書きに依存しない生き方を受け入れる社会をどうやったら実現することができるのか。これは制度的には履歴に学歴記載を禁じたり、出世、栄達と学歴を切り離すといった、外からの半ば強引な改革が必要であるかもしれない。
しかしやはり決め手は我々の意識改革と社会の変化であろう。それぞれの大学にはそれぞれの魅力と長所があり比較できない、人の価値は肩書きで決まるものではない、充実した人生は世間体でいう出世、栄達とは無関係である、そういう意識を皆が持つようにならなければ学歴社会はなくならない。
学歴偏重が最後まで残るのは官僚社会かもしれない。東大法学部を出て高級官僚になればあとはろくな仕事をしなくても昇給し、定年後も天下りで生活を保障されている。罪を犯しても権力に守られて逃げられる。それでもなおこの国には親方日の丸の風潮がある。高級官僚は偉いとみなされる。
世界の先進民主主義国家でここまで公務員があがめ立てられている国はない。これをおかしいと思う社会が実現しなければ学歴社会もなくならず、受験競争もなくならない。ここでも悪いのはこの国の官僚支配である。
しかしそれも時間とともに変わっていくと思う。変わらなければならない。そうしないと日本の国そのものが立ち行かなくなる。その兆しが見え始めている。
The Deterioration of School Education in Japan Comes from the Overemphasis of Educational Background of Japanese Society
Japan is proud of its high-educated people who make Japan economically competitive and technologically advanced. It seems that this compliment has long become a legend of good, old days of Japan.
Japan has been suffering from the deterioration of its young generation. Their academic standard falls down and their misbehavior or delinquency are rampant.
This phenomenon derives from many reasons, i.e. lack of family education, quality of teachers, affluent society of Japan etc. Among all the most serious reason of damaging the young generation is , I think, the excess competition for entering the prestigious colleges.
The competition for entering good and prestigious colleges is observed more or less in every country in the world but in Japan this competition is too much and distorted.
Japanese people evaluate others from the view point of which college he or she graduates from. This overemphasis of academic background makes the people tend to send their children to a small group of well known colleges. Consequently young people tend to study only for achieving high scores of entrance examinations. This competitive and distorted educational situation makes young people pressured and unhealthy.
The Government, schools, parents , all of them are aware of the need to remove this excess competition of entrance examination. But they cannot find effective measures. The difficulty to resolve this problem comes from the fact that Japanese people judge others not from his or her personal asset or attractiveness but the background, position and title of that person. This social tradition of collectivism rather than individualism , which once makes Japan strong, bothers Japan now.
http://www.amakiblog.com/archives/2007/01/22/#000221
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