★阿修羅♪ > リバイバル2 > 301.html ★阿修羅♪ |
Tweet |
(回答先: 近頃は創価学会や山口組の名前を出すと黙ってしまう警察やマスコミ【投稿者 山本元一 日時 2007 年 9 月 14 日】 投稿者 ワヤクチャ 日時 2008 年 9 月 06 日 11:51:01)
「池田大作は慌(あわ)てふためき、国会喚問請求に対し、恐れおののいた」
http://www.asyura2.com/07/senkyo41/msg/767.html
投稿者 外野 日時 2007 年 9 月 07 日 23:04:35: XZP4hFjFHTtWY
(回答先: 「司法支配の密約」をスッパ抜く 国会の歴代法務委員長は公明党が独占 週刊ポスト 投稿者 外野 日時 2007 年 9 月 07 日 23:02:09)
慧妙 第238号(通巻255号)141201号 2面
http://the49.hp.infoseek.co.jp/emyo_t/em1412a2.htm
(連載)あの頃のこと 第25回
元創価学会顧問弁護士 山崎正友
言論出版妨害事件がもたらした宗門学会の亀裂
正本堂を「御遺命の戒壇」として逃げた池田
日達上人の御意にも適わぬ謬見で宗内乱す
驕(おご)り高ぶった池田大作に、壊滅的な打撃を与えたのが、昭和四十四年暮れから始まった「創価学会による言論・出版の自由妨害事件」――学会内では”言論問題″と呼ばれる事件であった。
この言論妨害事件については、これまで何度も、詳しく述べられているので、ここでは簡単に触れておく。
昭和四十四年、藤原弘達氏が『創価学会を斬(き)る!!」という題名の著書を刊行しようとした際、創価学会から強い妨害工作を受けた。
秋谷栄之助(現会長)や藤原行正(元公明都議)氏らが著者にねじ込んで、出版を止めるよう強要したばかりでなく、右翼の大物・笹川良一氏や、自民党幹事長・田中角栄氏らを動かして、藤原弘達氏に圧力をかけた。
田中角栄氏には、池田大作が赤坂の料亭で直接会って頼んだという。
田中角栄氏は、藤原弘達氏に”著書は全部私が買い取ろう″と持ちかけた。
さらに、創価学会は、直接あるいは金融筋を通して、出版社にも圧力をかけ、それでも出版が強行されると、新聞社に圧力をかけて広告掲載(けいさい)を阻止し、大手取次店に対しては、流通を抑(おさ)えるよう働きかけた。
さらに、全国の書店を、
″潮出版社職員″と称する学会幹部が軒並みに巡り、店頭から『創価学会を斬る!!』を引っ込めるよう強要した。
同年暮れの総選挙で、公明党は四十七議席を獲得したが、選挙期間中、日本共産党と小競り合いが続いていた。選挙後、共産党は『赤旗』などで、創価学会の言論妨害事件″に対する批判キャンペーンを展開し始め
これに、一般マスコミが追随(ついずい)し、さらに国会審議においても取り上げられることになって、”言論妨害事件″は、政治・社会問題化したのである。
さらに、それまで同様の弾圧を受けていた内藤国夫氏(『公明党の素顔』)、隈部大蔵氏、植村左内氏らが次々に名乗りを上げて、批判に加わった。
批判の矛先(ほこさき)は、創価学会の批判拒否体質へ、さらに、過激な布教の在(あ)り方や、公明党との″政教一致″″国立戒壇″問題へと拡大していき、さまざまなスキャンダルも含めて、創価学会そのものが国会とマスコミで追及されるようになり、池田大作に対する証人喚問請求が野党からなされた。
それまでの″やりたい放趨″のツケが、一挙にまわってきたのである。
そもそも”言論妨害事件″は、池田大作が直接指示して行なわせたものであり、藤原行正氏は、著書『池田大作の素顔』中で、そのいきさつを詳しく述べている。池田大作は、躊躇(ちゅうちょ)する側近幹部の尻を叩(たた)いて、言論妨害行為に駆り立てたのである。
それだけに、波紋の急激な拡大に、池田大作は慌(あわ)てふためき、国会喚問請求に対し、恐れおののいた。
そして池田は、卑怯(ひきょう)にも全てを首脳達の責任に転嫁し、
「俺を守れ!! 俺を守ることこそが学会を守り、御本尊様を守ることだ!!」と喚(わめ)き散らし、戸惑う首脳達に当たり散らした。
「体の具合いが悪い」といって自宅や箱根研修所に隠れ、幹部達の前には、頭に氷のらを乗せ、しおれきったフリをして現われ、同情を買おうとした。
幹部達も会員達も、また宗門も、池田大作の日頃の大言壮語からして、堂々と国会喚問を受けて立ち、七百年前、日蓮大聖人が幕府の糾問(きゅうもん)に対し、堂々と申し開きをし、折伏を行なったように、国会の証人台に立って反諭し、国家諌暁(かんぎょう)を行なうものと、期待していた。
ところが池田大作は、逃げ回り、首脳達ばかりでなく宗門首脳にも
「私を守ってくれ!!」と泣きつき、まったく男を下げてしまった。
当時の佐藤首相に、電話口で土下座せんばかりに泣きつき、民社党には、″公明党を差し上げる″と約束して機嫌を伺(うかが)い、社会党には、″野党共闘に参加し、選挙で協力するから″と泣きついで、証人喚問だけは勘弁してもらった。
そして、昭和四十五年五月三日の総会で、
「言論妨害を謝罪し、二度とやらない」
「創価学会と公明党を、はっきりと分離する」
「独善的体質を改善する」
「国立戒壇論は放棄する(もともと無かったと強弁したが)。今建設中の正本堂が御遺命(ごゆいめい)め戒壇であり、国立ではなく民衆立である」
等と公約し、マスコミの批判をやっとかわすことができた。
こうして、世間の批判は何とか収めることができたが、その代償として、宗門との間に大きな亀裂(きれつ)を生じさせてしまった。
このとき、創価学会が宣言した「国立戒壇の放棄」と「正本堂=御遺命の戒壇論」は、はっきり言って、従来の主張・目標を百八十度方向転換するものであった。
また、創価学会と公明党との分離、そして、公明党の綱領から、「広宣流布」「王仏冥合(みょうごう)」などの言葉を消し去ったことは、それまで、
「公明党の進出は広宣流布のためであり、国立戒壇建立のためだ」と言って宗教的意義をもたせ、支援を続けてきたことの″否定”であり、ただの政党となった公明党への支援の意義は失われてしまった。
池田大作が、国会喚問を逃れるために勝手に主張を変え、そのことから生ずる問題の処理を一方的に宗門に押しつけたから、御法主上人も宗務院も困惑された。
宗門首脳は、とりあえず創価学会擁護(ようご)の姿勢をとり、日達上人猊下が御自ら、
「今後、当家では国立戒壇という言葉を使わない」と宣言されたが、一方、創価学会が勝手に宣言した
「正本堂こそ御遺命の戒壇」
という主張は、日達上人の御意(みこころ)には適(かな)わなかった。
日達上人は、
「国立戒壇という言葉は、明治時代、国柱会の田中智学らが言い出した言葉であり、当宗では、”戒壇は、こちらが本家″本物だ″と論争しているうちに、国立戒壇の語を用いるようになり今日に至ったもので、宗祖以来、もともと当宗にはなかった」
として、″国立戒壇″という呼称を否定されたが、″御遺命の戒壇″が、いつ、どのようにして建立されるべきか、ということには触れられなかったのである。
創価学会の折伏布教の進展、公明党の伸長によって、池田大作が作り出した
「広宣流布は、ごく近くにある!!」
というムードに覆(おお)われていた宗内は、”言論妨害事件″のつまづきによって、冷静さを取り戻すこととなった。
それまで、宗内は、創価学会の圧力の下で声を挙げるのをはばかっていたが、″言論妨害事件″での池田大作の動揺と″腰抜けぶり”を目の当たりにして、徐々に
「創価学会恐るるに足らず!」というムードが生まれ
「放っておいたら、教義を曲げられる!!」
という危機感がにわかに浮上してきたのだった。
創価学会は、宗内のこうした動向を察知し、慌てて根回しを行なった。
昭和四十五年一月には、東京・常在寺に御僧侶達を集めて”時局懇談会″を開き、創価学会から和泉覚・辻武寿らが出向いて、
「国立戒壇を言い続けたら、創価学会はおろか、日蓮正宗も弾圧され、潰(つぶ)される」
「国立戒壇論は憲法違反である」
等と説明して、協力と了承を求めた。
しかし、教義上の問題は別として、国立戒壇を言うと弾圧されて潰される、というのは偽(いつわ)りである。それなら、プロレタリア革命を目指していた若者達や、天皇制や再軍備・徴兵(ちょうへい)制の復活を目的に掲(かか)げる右翼や、自民党右派も、現憲法に違反する国家状況の創立を目指していることになるが、それにも拘(かか)わらず、こうした左右の勢力が、弾圧されて存在自体を否定される、ということは全くない。
したがって、これは創価学会の言論妨害という犯罪行為によって招いた批判であり、国立戒壇論自体は、本来、政治問題化するはずのないことである。
少し冷静に考えれば、創価学会の狙いが、当面の批判をかわし、池田大作の国会証人喚問を避(さ)けることにあるのは、容易にわかることだった。
それ故、出席した御僧侶の間からも、いろいろな疑問が呈せられ、質問も活発に行なわれた。
しかし、創価学会は、ただ、
「憲法違反だ!!」
「弾圧されて潰される」
の一点張りで押も通してしまった。
これによって、宗内には、何か釈然(しゃくぜん)としない疑問や不信が残った。
そういう点につけ込むような形で、「妙信講」講頭父子である浅井甚兵衛・昭衛から、宗務院と創価学会に対し、
「正本堂につき、宗務当局に軋(ただ)し訴う」
が送り付けられた。
内容は
「国立戒壇こそが御遺命の戒壇である」
と強調し、広宣流布の意義や、当時建設中の正本堂について″御遺命の戒壇″であるかのごとく言われていることについて、疑義を投げかけたものであった。
宗門・創価学会・妙信講の代表が集まって対論したが、ラチが明かなかった。
そうした中で、さらに同年四月二十三日、創価学会が、共産党の″質問趣意書″に対する回答として
「正本堂が本門戒壇である。一時、本門戒壇のことを国立戒壇と称したが誤りであり、信者の総意と供養により宗門行事として行なうので、国家権力とは無関係である。また公明党という政党も、戒壇建立とは無関係だ」との文書を提出したことが判明した。
妙信講は。これを知って態度を硬化し、宗務院と創価学会に対する追及姿勢をエスカレートさせていった。
そして、この妙信講の行動に、公然とあるいは内密に賛同の意を表明する僧侶達も出てきた。
だが、池田大作は、宗内における教義に絡(から)む批判に対して、歯牙にもかけなかった。池田にとって″教義″など、取るに足らぬ、些細(ささい)なことだったのだ。
”宗内の不満など、マスコミの騒ぎが収まったら、いずれ一ひねりしてやる……”
そう考えていた池田は、ひたすらマスコミや国会の追及を逃れ、証人喚問を免(まぬが)れることだけに、汲々(きゅうきゅう)としていた。
そのことが、宗門との関係でさらなる緊張のエスカレートを招いたのだった。