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>>「亡国」とは...投稿者 あっしら 日時 2003 年 12 月 08 日
「亡国」であっても、日本という名称が付いた国家は存続します。
「亡国」とは、国家社会が統合や一体性を失ってしまうことだと考えています。
近代は、(経済的)社会と(政治的)国家が分裂していることが特質で、個人主義的で自由主義的に利益の獲得を競いながら活動する社会を国家機構が強制力や社会政策でなんとか統合性を維持するという構造になっています。
(共産主義国家では、強制力や社会政策による統合性の維持が先行し、諸個人は国家を維持する活動力として割り当てられる存在として扱われます。『世界経済支配層(国際金融家)が「社会主義(産業国有化)政策」に向かうわけ』で書いたように、これも近代の一形態です)
「亡国」に近い経験は先の戦争での敗戦でしょう。
しかし、敗戦は、上述の意味での「亡国」ではなかったと考えています。
だからこそ、様々な価値観に立脚する政治勢力のほとんどが「あれでよかったのだ」という総括で済ますことができたはずです。
大東亜戦争には様々な評価がありますが、国民国家としての日本が、戦争を遂行するため、強い統合性と一体性を維持していたことは確かだと思っています。
戦後の経済的困窮のなかで家族や自分が生き延びるために他者を省みないところまで追い詰められる状況もありましたが、経済の復興とともに統合性と一体性が回復し、それが高度経済成長にもつながっていきました。
敗戦によって国民国家日本の統合や一体性が失われることはなかったという見方です。
(高度経済成長の終焉でもあったオイルショックも、不足が懸念される物への殺到(過剰確保)があったくらいで、艱難と言えるほどではなかったと思っています)
戦前・戦中・戦後混乱期・高度成長期・オイルショックのいつでも、経済社会は、国家機構とつながった優位者と身一つをよすがに糊口をしのぐ劣位者で構成され、それを虚構の説明で“共同体”(=国家)であると思わせてきたのですが、そう思わせることができる現実があったことも確かです。
国家は一蓮托生の共同体であるという観念が、冗談ホイホイと馬鹿にされるのではなく、一定の共感をもって多くの人に受け入れられる現実でもあったと思っています。
占領国ないし支配国米国は日本の国家機構のその上に君臨するものですから、そのような存在があっても、日本という国家の統合や一体性に影響を与えるわけではありません。
戦後日本が失ったのは支配層や国家機構の独立主権性であって、国民の統合や一体性ではありません。
それどころか、敗戦後からバブル崩壊まで、米国の対日政策が国家的統合を支えてきたとも言えます。
米国に支えられた戦後復興がなければ、経済社会の分裂がそのまま噴出して統合を失っていたか、強権的な国家(共産主義や国家主義)として統合を維持することになったはずです。
バブル崩壊の日本を「第2の敗戦」と呼ぶ人もいますが、「亡国」という観点から言えば、先の戦争の敗戦より現在のほうが深刻な状況だと思っています。
敗戦は精神的にも物質的にも一気の瓦解をもたらし、1年ほどの悪化期間を経た後は、将来に希望が持てるようになりました。
敗戦混乱期はほぼ5年で解消され、その後は頑張れば隣近所や同僚が揃って生活が豊かになっていきました。
90年以降の日本は13年間も希望が見えない状況が続き、ここ数年は、改革の名のもとに希望どころか不安をひしひしと感じざるを得ない現実に投げ込まれています。
多くの人が、なんとか隣近所や同僚から脱落しないようにと頑張っている状況です。
日本は、バブル崩壊後だらだらと長い“敗戦”の真っ只中にあるとも言えます。
このだらだらと長い“敗戦”では、人々の価値観を変え国家の存在意義を変容させる過程が同時進行し、自由主義と市場原理主義を基礎にした金融利得尊重の価値観がじわじわと浸透しています。
(戦後混乱期のように家族と自分がなんとか生き延びるために切羽詰って不法行為をやるというものではなく、個人的利益を増やすために他者から吸い上げる行為が合法のお墨付きのもとでできる、そして、それができる人こそが優秀という考えが、日本の復活のために必要という理屈に保護されて浸透しています)
経済的事由で自殺している人が2万人近くいたり、ホームレスが13万人いるという現実は政治的にほぼ無視されているのが現在の日本です。
(言葉にはしないものの、経済的困った人は死んでもらったほうがいいとか、社会的落伍者は目に付かないところで邪魔にならないようひっそりと生きて勝手に死んでいって欲しいという本音が見え隠れしています)
若年者の失業率が15%から20%という問題も、それが社会秩序にどれほどの影響を与え、今後の日本にどれほど深刻な影響を与えるかということもまともに論議されていません。
“敗戦”が激発のかたちになっていないのは、今なお維持されている貿易収支の黒字が支えになっているからです。
貿易収支が赤字に転換し失業率が10%を超え若年者の失業率が30%といった社会状況と新自由主義的価値観及び「構造改革」が結びついた日本がどのような姿を晒すことになるのかを考えると、それは「亡国」だなと思わざるを得ません。
新自由主義的価値観の現実化を是とする国家機構は、落伍者を邪魔者とみなし、引退した年金受給者を疎ましい存在だと考え、国策に異議を唱える人たちを破壊分子として強権的に押さえ込もうとするはずです。
■“家族の個人化”
「亡国とは、国家社会が統合や一体性を失ってしまうこと」というのは、共同体性を忘却した個人主義の横溢とその尊重であり、その反映としての家族性を見失った家族の在り方に他なりません。
(非婚やホームレスも含めて家族です。もちろん、非婚や隠遁者は選択の自由であり、それが悪いものという考えは持っていません)
共同体性を忘却した個人主義の末路は、ごく少数が個人的欲求を充足させるという状況を経た後に訪れる国家社会の崩壊であり、個人という実存にとっては家族の崩壊です。
成功している少数派を憎悪を募らせた多数派から守るためにかかる経費を考えれば、そのような国家社会にしてしまう選択は、成功者にとっても愚だとすぐにわかるはずです。
(警察官を100万人にしようと思えばそれだけの国費が必要で負担能力がある国民はそこそこの成功者以上になります。民間警備会社に依存するとしても、個人の財産と生命を守るためには他者すなわち共同体性が必要です)
個人主義的経済社会の進展は、これまで何度も書き込みしているように、GDPが縮小することで成功する者を徐々にふるい落としていきます。
ここ10年間の日本を大スペクトル映画で再現すれば、それが如実に見えるはずです。
話が家族問題から少し逸れてしまいましたが、今の家族の在り方を見ていると、以前に増して、経済社会と同じようなお金を媒介とした関係に傾いているように思えます。
別に悪いとは思わない姉妹や友人のような母娘関係も、一緒に買い物をしたり遊んだりするためのお金があってこそ維持できるものです。
子供たちとよき関係を維持するために親ができることも、子供たちが欲しいものやしたいと思うことをお金で実現してあげるというものに向かっているようです。
このことを一概に批判する気はありませんが、このような家族関係は、“カネの切れ目が縁の切れ目”になりかねないものだということは指摘したいと思います。
このような家族関係のなかで仕事に励んでいる父親や母親が失業したらどうなるでしょう。
子供たちの多くは「仕方がないじゃん。わがまま言わないよ」と思うかもしれませんが、親のほうは、自分のふがいなさや子供たちに申し訳ないという気持ちに苛まれ、家族のなかでの居心地は耐えられないものになるのではないかと推測します。
人は不思議なもので、自分の心の在り様で物事の見え方が変わってきます。そんなつもりなぞ微塵もない家族の言動が、自分を蔑み非難しているかのように見えてしまったりします。そう受け止めた結果、家族に対して八つ当たりや非道と思われる言動に向かうこともあります。
このような日々が続く家族がどのようなものになるのかは、あまり想像したくないものです。
おじいちゃん、おばあちゃんも、孫の歓心を買うためとはいいませんが、かわいい孫にはお金を使いたいと思っています。
乳幼児虐待についても、許されないことですが、自分の快楽的欲求もほとんど満たされないのみならず生活も覚束ない状況で子育てするのはたいへんなことだと推察できます。
仕事場では上司や管理者に頭を低くし言いたいこともほとんど言えないはずです。そして、その結果得られるお金がわずかなものであるとしたら、ビービー泣いたりわがままを言う我が子に当たってしまうのもむべなるかなと思われます。
(自前の家族を形成し乳幼児がいる人もいる20年代の失業率は現在でも15%前後だと言われています)
失業者が増加したり、実質可処分所得が減少したり、年金給付が削減されたりすれば、さらに家族関係が揺らぎかねない状況にあるのが現在の日本なのです。
個人主義の反映として、家族が独立した存在ではなく共同体の構成要素であることが見失われ、単独家族主義的価値観に陥っているようにも見えます。
家族が経済活動基盤性をなくし消費共同体になっていることが、そのような価値観がリアルなものであるかのように思わせていると考えています。
子供たちは、欲しいものや必要なものがどうやって手に入るのかという仕組みに無頓着で、お金があれば手に入ると思っているようです。
このような状況は良い悪いではなく現実です。
国家機構が共同体性を脇に措いたままの自由主義や個人主義の尊重を謳いあげそれに沿った国策を推進していけば、家族という基底から「亡国」が進んでいくことになります。
貧乏や経済的苦境が「亡国」を招くわけではないということを、為政者はしっかり噛み締める必要があると思っています。>>