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「失われた5年−小泉政権・負の総決算」 植草レポートPLUS
http://www.asyura2.com/0601/hasan47/msg/239.html
投稿者 愛国心を主張する者ほど売国奴 日時 2006 年 7 月 01 日
「失われた5年−小泉政権・負の総決算」 植草レポートPLUS
2006.02.28
第2回「失われた5年−小泉政権・負の総決算」
2月20日、私は民主党前衆議院議員小泉俊明氏(http://www.koizumi.gr.jp/)のセミナーに出席して講演した。演題は「失われた5年−小泉政権・負の総決算」だった。小泉政権が発足したのが2001年4月26日、まもなく丸5年の時間が経過する。この5年を厳正に再評価しなければならない。
この『直言』で詳細に検証してゆきたいが、まずは概観しておくことにしよう。小泉政権が掲げた「改革」政策の正体は依然としてはっきりしない。何をやるのかと聞かれて、「改革をやる」との回答以外に具体的な話を聞いたことがない。「改革」という日本語の「イメージ」がプラスのイメージだから、「何か良いことをするに違いない」との印象が生じてきただけに過ぎない。
経済政策で小泉政権が推進したのは「緊縮財政」と「企業の破たん推進」だった。「国債は絶対に30兆円以上発行しない」、「退出すべき企業は市場から退出させる」方針が「改革」政策の経済政策面での具体的内容であったと思われる。
小泉政権が「改革」政策の表看板を掲げると同時に株価は暴落を始めた。小泉首相が所信表明演説を行った2001年5月7日を起点に株価が暴落していった。日経平均株価は1万4529円だった。ついに9月12日、日経平均株価は1万円を割り込んだ。だが、小泉政権は「テロがあり、株価が暴落した」と責任をテロに転嫁した。だが、現実にはテロの前に株価は暴落していた。
年末にかけてマイカル、青木建設の破たんが相次いだ。そして、嵐はダイエーに波及しかけた。ここで政策は一変した。政府は金融機関に働きかけ、4000億円を超える支援策をまとめたのだ。「退出しそうな企業は救済」に、政策スタンスは大転換した。さらに政府は、5兆円規模の補正予算を編成し、国債発行額は実体上33兆円に達した。「国債は絶対に30兆円以上出さない」公約はあっさり破棄された。
2002年、株価が1万2000円近辺に回復すると、政策は元に戻った。竹中氏は2002年7月のNHK日曜討論で、筆者の「補正予算が必ず必要になる」の発言に対し、「補正予算など愚の骨頂」と発言した。9月に内閣改造があり、竹中氏は金融相を兼務。銀行についても、「退出すべきは退出」を強調していった。
2003年4月、日経平均株価は7,607円に暴落。日本経済は金融恐慌に半歩足を踏み入れた。りそな銀行を「破たん処理」していれば、間違いなく金融恐慌に突入していた。土壇場で小泉政権は、「改革」政策を完全放棄した。預金保険法102条第1項1号措置という、法の抜け穴を活用し、「退出しそうな銀行を税金で救済」することを決定したのだ。
税金で銀行が救済されるなら恐慌は起こりようがない。恐慌を織り込みつつあった株価は猛反発する。外資系ファンドが情報を最も早く入手したと見られる。外資系ファンドが莫大な利益を得た。株価が上昇したところに、米国経済拡大、中国経済拡大、国内のデジタル家電ブームが重なり、景気が回復基調に乗った。2003年なかば以降の景気回復は、小泉政権の政策の成果ではない。小泉政権が「改革」政策を全面放棄した結果生じたものである。
2002年度、小泉政権は竹中氏が「愚の骨頂」と発言した5兆円補正予算を編成した。小泉政権の「改革」政策の破たんは明白である。民主党は自民党の政策失敗を的確に追及しなければならない。2003年、小泉政権の「改革」政策全面放棄を容認する際に、内閣総辞職を求めるべきであった。的確な追及をしていれば、小泉政権はこの時点で終焉していたはずだ。だが、民主党の追及はまったく見当違いの方向に向かった。
2006年、「ホリエモン」、「耐震偽装」、「BSE」、「防衛施設庁汚職」で小泉政権の弱体化に拍車がかかり始めた。この局面で、民主党がメール問題でもたついていたのではお話にならない。前原代表は国民的見地に立った戦略的対応を示すべきである。この問題に早期に決着を付け、2007年参院選に向けての体制を整えることを重視すれば、前原氏が代表の座を辞し、挙党一致で臨める新代表を選出することが望ましい。地位への執着は、公益よりも私益優先の表れと受け取られてしまうだろう。民主党の迷走がこの国の状況を一段と救いがたいものにしてしまうことを重視すべきである。
http://web.chokugen.jp/uekusa/2006/02/2_4567.html
2006.05.10
第7回「失われた5年−小泉政権・負の総決算(2)」
4月26日、小泉政権は政権発足から5年の時間を経過した。佐藤内閣、吉田内閣に次いで歴代第3位の長期政権になった。政権が長期化した最大の要因は内閣支持率が高かったことだ。政権発足時に多くの国民は「何かが変わるかも知れない」との素朴な期待を持った。政権発足時の内閣支持率は記録的に高かった。
筆者は小泉政権が発足する1年ほど前に、小泉氏と中川秀直氏に対して1時間半ほどのレクチャーをしたことがあった。経済政策運営についての説明をするための会合だった。筆者と小泉氏、中川氏のほかには会合を企画した大手新聞社幹部の2名だけが出席した、5名限りのミーティングだった。
筆者は均衡のとれた安定的な経済成長路線を確保することが当面の最大の政策課題であり、財政収支改善は中期的に取り組むべきであることを主張した。しかし、小泉氏は筆者の説明の途中に割って入り、自説をとうとうと述べて筆者の説明をさえぎった。結局、1時間半の会合であったが、筆者は説明を完遂することを断念した。
小泉氏が主張した政策手法は「緊縮財政運営こそすべてに優先されるべき」とのものであった。当時の日本経済の水面下には巨大な不良債権問題が横たわっていた。この現実を重視せずに、緊縮財政路線を突き進めば、経済悪化、株価急落、金融不安増大、税収減少、財政赤字拡大の「魔の悪循環」のスパイラルに呑み込まれることは目に見えていた。
筆者は、近い将来に小泉氏が首相に就任することがあれば、日本経済は最悪の事態を迎えることになるだろうことを確信した。筆者は小泉政権が発足した2001年4月の時点から警鐘を鳴らし続けた。小泉首相は5月7日に所信表明演説を行った。日経平均株価は3月中旬以降上昇していた。株価上昇は当時自民党政調会長であった亀井静香氏が中心になってまとめた『緊急経済対策』決定を背景としたものだった。
5月7日の所信表明演説を境に小泉首相は『緊急経済対策』の実行に反対する姿勢を強めていった。『緊急経済対策』では株式買取機構の創設が提言されたが、小泉首相は否定的な考えを明らかにした。日経平均株価は5月7日を境に暴落していった。政権発足からちょうど2年後の2003年4月28日に、日経平均株価が7607円のバブル崩壊後最安値を記録するまで、株価は一貫して暴落していったのである。
2001年春に小泉政権が発足した際、多くの権力迎合エコノミストたちは「改革期待で株価は上昇する」と予測していた。だが、筆者はそう考えなかった。1年前に確認した小泉首相の政策スタンスが現実に実行されてゆくなら、日本経済は非常に危険な、最悪の場合、金融恐慌に突入するほどの悪化を示してゆくに違いないことを想定し、政権発足当初から小泉政権の政策スタンスに対する反対論を唱え続けた。
小泉政権が発足する直前の3月中旬、筆者は小沢一郎氏が主宰する自由党幹部の朝食勉強会に講師として出席した。当『直言』で健筆を振るわれている平野貞夫氏も毎回出席されていた研究会だった。研究会には筆者も参加していたが、ほかに竹中平蔵氏も出席していた。
その日の研究会のテーマは1年前の小泉氏との研究会と同一だった。日本経済を立て直すにはどのような政策手法が望ましいのかというものだった。筆者は経済、財政、金融の三重苦に直面している日本経済を立て直すには、経済の健全な回復誘導を優先することが必要であることを丁寧に説明した。
米国経済は1990年から1992年にかけて、同様の三重苦の状況に直面した。米国政策当局は1992年なかばに、「経済回復優先」の政策スタンスを鮮明に提示した。FRBが市場の想定を超える大胆な金利引下げ策を実行し、これを契機にまず株価が上昇し、後追いする形で経済の改善軌道が実現していった。
米国財政赤字は1992年をピークに改善を示していったが、1995年までの財政収支改善は景気回復による部分が赤字縮小の7割を占めた。1995年から1998年にかけての財政収支改善は構造改革による部分が7割となった。つまり、まず経済改善を優先し、景気に不安がなくなった時点で財政構造に大胆にメスを入れたのだ。
米国の不良債権問題も深刻だったが、株価上昇、経済改善が始動して初めて不良債権問題は縮小に転じていった。米国経済は、経済、財政、金融の三重苦を「経済改善優先の政策スタンス」を明確に掲げることによって克服していったのである。
筆者はこのことを丁寧に説明した。多くの出席者は筆者の見解にうなずいていた。藤井裕久氏は、その後のテレビ討論などで米国財政収支改善のメカニズムについて説明する際、常に筆者が示した数値をもとに説明されていた。
このなかで、筆者の見解に真正面から異を唱えたのが竹中氏だった。竹中氏は不良債権そのものを直接処理してゆかなければ景気回復は生じないと主張した。筆者は、不良債権の処理が企業の破たん処理推進を意味するならば、その政策手法は危険極まりないものであると反論した。論争が生じるのは健全なことである。論争のなかから見解の相違を生み出している要素を発見し、その部分に綿密な検討を加えることにより、より正しいと考えられる政策手法が生み出される可能性があるからだ。
この研究会の前夜と当日にテレビ東京が「ワールドビジネスサテライト」で緊急特集を放映した。研究会の前夜は自民党の亀井静香氏などが出演した。コメンテーターは本来、竹中氏であったが亀井氏の要請もあり、筆者が出演した。研究会当日の夜は自民党の石原伸晃氏、塩崎恭久氏、河野太郎氏が出演したと記憶している。コメンテーターでは筆者との入れ替わりで竹中氏が出演した。
番組の冒頭、竹中氏が口火を切った。「不良債権問題と経済悪化の問題が存在するが、世の中には経済改善を優先しなければ不良債権問題の解決は難しいと主張する見解を唱える者がいるが、この考え方は完全に間違いであるということを確認するところから今日の討論を始めたい」。
竹中氏は何を考えたのであろうか。筆者の主張と自論のいずれが正しいのかを、現実の日本経済を実験素材として確認する、「決闘」の申し入れをしたつもりだったのだろうか。筆者はたまたまこの番組を見ていたのだが、竹中氏の冒頭の発言にはいささか驚愕した。
2001年から2003年までの日本経済の軌跡を丹念に追跡するなら、竹中氏の主張が間違っていたことは明白である。「退出すべき企業は市場から退出させる」。これが、金融問題処理優先政策の基本テーゼである。退出させる企業には「大銀行」も含むとされたために、株式市場はパニックに陥った。2003年春、日本経済は金融恐慌に半歩足を踏み入れた。小泉政権の命運は尽きかけた。
この究極の局面で小泉政権は、政策路線を全面放棄した。「退出すべきを退出」ではなく、「退出しそうな銀行を税金で救済」に政策スタンスを文字通り180度転じた。小泉・竹中経済政策の完全敗北の瞬間だった。
ぎりぎりの局面での政策路線放棄の前例は2001年末にすでに存在した。小泉政権の政策により株価は暴落し、大手企業の破たんが相次いだ。マイカルが破たんし、青木建設が破たんした。小泉首相が青木建設破たんのニュースに対して歓迎のメッセージを発表して市場はパニックに陥った。市場の関心はダイエーに集中した。小泉政権はこの局面で、突如、ダイエー救済に転じたのだ。
2002年半ば以降、小泉政権は再び「近視眼的緊縮財政路線」に政策スタンスを戻した。その結果、株価は順当に再暴落を始動させた。経済深刻化に伴い、支持率も急落し始めたが、そこに突然、9月17日の北朝鮮訪問が実施されたのである。国民の関心は経済・金融から拉致問題に一気にシフトした。小泉政権は支持率を見事に回復したのである。
2003年以降の日本経済改善は、小泉政権が政策スタンスを全面転換したことによって生じたものである。経済は最悪の状況に落ち込んだために、改善傾向を持続した。だが、もともと見る必要のない悪夢だった。小泉政権が日本経済を撃墜したためにどれだけの人々が犠牲になっただろうか。失業、倒産、自殺の惨禍は戦後日本経済のなかで最悪のものだった。
この現実をしっかりと踏まえた小泉政権の総括が行われなければならない。
次回は2003年5月りそな銀行処理の闇に迫る。
http://web.chokugen.jp/uekusa/2006/05/post_1c1f.html
2006.05.26
第8回「失われた5年−小泉政権・負の総決算(3)−」
2003年4月28日、日経平均株価は7607円で引けた。バブル崩壊後の最安値を記録した。日本経済は金融恐慌に半歩足を踏み入れていた。転換点は5月17日だった。土曜日の朝刊に「りそな銀行救済」のニュースが報道された。この日、私は毎週土曜朝8時から生放送されていた読売テレビ番組「ウェークアップ」に出演した。
りそな銀行に対して公的資金が投入される対応が報じられたことについて、私は「りそな銀行の財務状況によっては、破綻処理になる。破綻となれば株式市場では株価が大きく下落することになる。政府は救済と言っているが、これまでの政策方針と整合性を持たない。これまでの政策方針が維持されるなら破綻処理が取られるわけで、予断を許さない」とコメントした。
番組中に金融庁から電話が入った。りそな銀行は政府が責任をもって救済するので、破綻させない。このことを番組ではっきりと言明してもらいたい、との要請があったとのことだ。司会をしていた落語家の文珍氏が、番組最後で補足説明した。「金融庁の説明ではりそな銀行は破綻させずに間違いなく救済するので、冷静な対応を求めたい」
あの時点での対応としては、救済しかなかった。「救済」でない対応は「金融恐慌」の選択を意味したからだ。自己責任原則を貫いて金融恐慌を甘受するか、金融恐慌を回避するために自己責任原則を犠牲にするか。政府は「究極の選択」を迫られたのである。問題は「究極の選択」を迫られる状況にまで日本経済を追い込んでしまったことにある。この状況にいたれば、「自己責任原則」を放棄して銀行救済を実行せざるを得ない。
「責任ある当事者には適正な責任を求める」。これが「改革」方針であったはずだ。この部分については私も完全に同じ考えを持っていた。異なったのは、これと組み合わせるマクロ経済政策にあった。「自己責任原則」を貫き、責任ある当事者に適正な責任を求めるにはマクロ経済の安定化が不可欠である。
適切なマクロ経済政策運営により経済全体の安定を確保しつつ、個別の金融問題処理については「自己責任原則」を貫徹させる。これが問題処理に関する私の一貫した主張だった。鍋を冷やしてそのなかに手を入れて介入するのでなく、鍋の中に手を入れて自己責任原則をないがしろにすること避けるために鍋全体を温めてやるべきと主張したのだ。
小泉政権は政権の延命のために結局、「自己責任原則放棄」を選択した。「退出すべき企業は退出」の「改革」方針を貫けば、金融恐慌が発生する。その場合、小泉政権は崩壊を免れなかった。超緊縮財政が景気悪化、資産価格暴落を引き起こし、株式市場全体が崩落の危機に直面し、結局、最終局面で「自己責任原則放棄」の選択をせざるを得なくなったのである。
「金融危機対応」の名分の下に、りそな銀行を公的資金で救済する。小泉政権の「改革」政策の完全放棄だが、説明を偽装して乗り切ることが画策された。活用されたのは預金保険法102条だ。1項に金融危機対応の規定がある。預金保険法には「抜け穴規定」が用意されていた。
第3号措置は金融機関の自己資本がマイナスに陥った場合に適用される措置で、破綻処理である。株価がゼロになることで株主責任が厳しく問われる措置だ。これに対して、第1号措置は金融機関の自己資本が規制を満たしてはいないがプラスを維持する場合に適用される。金融機関に公的資金が注入されて金融機関は救済される。この第1号措置こそ「抜け穴規定」だった。
小泉政権は、政権発足以来、緊縮財政と企業の破綻処理推進を経済政策の二本柱として位置づけていた。景気の急激な悪化、株価、地価の暴落、企業の破綻が進行した。戦後最悪の企業倒産、失業、自殺が発生した。金融市場は金融恐慌を真剣に心配した。小泉政権が最後までこの政策方針を貫いたなら日本経済は金融恐慌に陥っていたはずである。
ところが最後の最後で小泉政権は方針を全面転換した。大銀行は公的資金で救済されることになった。大銀行の破綻が公的資金投入で回避されるなら、金融恐慌は発生しない。株価は金融恐慌のリスクを織り込む形で暴落していたが、金融恐慌のリスクが消失するなら、その分は急反発する。
不良債権問題は日本だけでなく、多くの国が苦闘してきた課題だった。不良債権問題処理の難しさは、相反する二つの要請を同時に満たすことを求められる点にある。自己責任原則の貫徹と金融システムの安定性確保の二つを同時に満たさねばならない。問題のある当事者を救済してしまえば、金融システムの安定は確保できる。しかし、「モラル・ハザード」と呼ばれる問題を生んでしまう。
バブルが発生する局面で、バブルの最終処理がどうであったかは決定的に重要な影響を与える。「リスクを追求する行動が最終的に失敗するときに救済される」と予想するなら、リスクを追求する行動は助長される。逆に、「最終的に失敗の責任は厳格に当事者に帰着される」との教訓が強く染み渡れば、安易なリスクテイクの行動は抑制される。
中長期の視点で、自己責任原則を貫徹させることは極めて重要なのだ。破綻の危機に直面した当事者を安易に救済すべきでないのは、このような理由による。自己責任原則を貫徹させず、金融システムの安定性確保だけを政策目的とするなら、不良債権問題処理にはまったく困難を伴わない。ただ金融危機には公的資金による銀行救済を実行することを宣言しておけばよい。誰にでもできる。
小泉政権は最後の最後で、金融問題処理で最も重要な根本原則のひとつである「自己責任原則」を放棄した。これは小泉政権が採用した政策の必然的な帰結だった。この帰結が明白であったからこそ、私は緊縮財政と破綻処理推進の政策組み合わせに強く反対したのである。
この対応を用いるのなら、日本経済を破滅的に悪化させる必要もなかった。金融危機には公的資金で銀行を守る方針を、当初から示しておけばよかった。私は不良債権問題処理にあたっては、「モラル・ハザード」を引き起こさぬために、個別処理は既存のルールに則った運営を進めるべきと主張した。金融システムの安定性確保は、マクロの経済政策を活用した経済の安定化によるべきだと述べてきた。
金融恐慌への突入もありうるとする政策スタンスを原因として、景気悪化、株価暴落、企業倒産、失業、自殺の多大な犠牲が広がった。多数の国民が犠牲になったが、その責任の大半は彼ら自身にはない。経済悪化、資産価格暴落誘導の政府の政策が事態悪化の主因である。膨大な国民が政府の誤った経済政策の犠牲者になっていった。
多くの中小零細企業、個人が犠牲になった。一方で、最後の最後に大銀行が救済された。見落とせないのは、資産価格が暴落し、金融恐慌を恐れて資産の買い入れに向かう国内勢力が消滅したときに、ひたすら資産取得に向かった勢力が存在したことだ。外資系ファンドである。彼らが独自の判断で日本の実物資産取得に向かったのだったら、彼らの慧眼は賞賛されるべきだろう。だが、実情は違う。彼らは日本の政権と連携していた可能性が非常に高いのである。
日本の不良債権問題処理の闇に光を当てるときに、どうしても避けて通れない論点が3つ存在する。金融行政と外国資本との連携、りそな銀行が標的とされた理由、りそな銀行処理に際しての繰延税金資産の取扱いの3つである。次回はこの3点に焦点を当てる。
http://web.chokugen.jp/uekusa/2006/05/post_4ae7.html
2006.06.06
第9回「村上ファンド代表逮捕についての論考」
村上ファンド代表の村上世彰氏が証券取引法違反(インサイダー取引)容疑で逮捕された。ライブドアがニッポン放送の株式を5%以上取得する意思を持ったことを知った後に、ニッポン放送株を購入したことが容疑事実である。
私は村上氏の東大教養課程時代のクラスメートである。同じクラスメートである元警察官僚の滝沢建也氏が村上ファンド設立時からの同社ナンバーツーであった。村上氏、滝沢氏はいずれもすこぶる頭脳明晰である。とりわけ滝沢氏は人格的にも非の打ちどころのない人物で、多くの級友の尊敬を集める存在であった。
村上氏は最近多くのジャーナリズムで紹介されているように、幼少のころから株式市場に対する強い関心を払い続けてきた人物である。株式投資は村上家にとっての重要な事業のひとつにもなっていたと、学生のころ私も直接聞いている。彼は企業の財務内容を徹底的に調べたうえで、株価が一株あたり純資産を大幅に下回っている企業を数多く発掘していた。
通産官僚を辞してM&Aコンサルティング(MAC)を立ち上げたとき、多くの級友は、ついに彼が元来もっとも強い分野に進出したと得心したものである。新事業を創設するにあたって、学生時代から村上氏がもっとも敬意を払っていた滝沢氏が招かれたのだと考えられる。
滝沢氏は法律の専門家でもあり、冷静沈着な行動様式を備え、MACの事業の法令遵守面を統括してきたのではないかと考えられる。インサイダー取引規制などには、文字通り「水も漏らさぬ対応」で細心の注意を払い続けてきたと考えられるが、そのなかで今回の事件が発生してしまった。
「上手の手から水が漏れる」、「弘法にも筆の誤り」が事態を表現する比喩としては妥当ではないかと思う。社交家である村上氏は親しい友人を招いて自宅でよくパーティーを開いていた。ライブドアの堀江前社長とは住居が近接していることもあって頻繁に接触を持っていたと思われる。
ニッポン放送とフジテレビとのいびつな資本関係に着目し、ニッポン放送株に目をつけたのは、村上氏の類まれなる感性と調査能力によるものだったと思われる。村上氏はニッポン放送を支配すればフジテレビの支配も不可能ではないとの構想を堀江氏にも語り聞かせたのだと思われる。その影響を受けてライブドアはニッポン放送株式の大量取得方針を決定した。この情報の流れのなかで村上ファンドはニッポン放送株式を大量に取得したと考えられる。
村上氏が説明するように、これらの経緯は、結果的に証券取引法の規定に抵触する。コンプライアンス(法令遵守)に細心の注意を払っていたはずの村上ファンドが、なぜこの部分を自制できなかったのかには疑問が残る。
村上氏は日本の株式市場に広範に観察される「ゆがみ」の是正を強く訴えてきた。その訴えには正当なものが数多く含まれていた。企業と企業が大量に株式を保有し合い、馴れ合いの関係に陥れば、持ち合い株式以外の株式を保有する本来の企業株主の意向は無視される傾向が強まる。村上ファンドは問題が多いと考える企業の株式を大量に取得し、株主総会等を通じて企業経営者に経営方針の変更を強く求める行動を繰り返した。
こうした行動が、企業経営者に対して警鐘として鳴り響いた効果は極めて大きかったと考えられる。この意味で、村上ファンドの功績に非常に大きいものがあったのは確かである。だが、ファンド組成の最大の目的は投資パフォーマンスの追求にあった。これはファンドとしては当然のことである。株価が各種指標から見て割安と判断した場合に当該株式を大量に取得する。村上氏の選別眼が非常に優れていることから、やがて村上ファンドが大量所有したとの情報そのものが、株価上昇の直接の要因になっていった。
こうなればファンドとしては連戦連勝となる。こうしたファンドとして異例の急成長を遂げた最大の原因が村上氏の能力にあったと見るのは正当な評価であろう。だが、投資パフォーマンスの「過度の」追求に落とし穴があったのではないだろうか。ライブドアが本格的にニッポン放送株式取得に向かう動きを取れば、フジテレビサイドの対抗措置ともあいまって株価が急騰する蓋然性が高いと判断するのは当然である。
だが、ライブドアによるニッポン放送株式大量取得意向の情報を村上ファンドが事前に把握していれば、当然インサイダー取引規制との絡みが問題となるはずである。この部分のチェック体制に緩みが生じたとすれば、それは投資パフォーマンス追求にバランスがかかりすぎた結果であったと判断されるのである。
この意味で、村上氏の説明は概ね妥当であると感じられる。違法性の認識があったのかどうかの点についての村上氏の釈明には釈然としない部分が残るものの、事後的に一連の経緯について法令違反を認定し、記者会見を開いて説明したことは身の処し方としては適正であったと思う。
事実を認定し、謝罪し、証券市場から身を引くとの意思表示は逮捕直前の身の処し方としては評価されるものである。ライブドア前社長の堀江氏は無実潔白を主張している。真に無実である者が無実を主張するのは当然であるから、現時点で堀江氏の発言の是非を断じることはできないが、ライブドアの宮内前取締役などの証言が仮に真実だとすれば、堀江氏は自己の保身に走っているということになってしまうだろう。堀江氏の評価はともかく、村上氏の行動は最終局面で巧妙であったと言える。
私はライブドアに強制捜査が入った1月16日の翌日に、自分のホームページコラム(http://uekusa-tri.co.jp/column/2006/0117c.html)『今週の金融市場の展望(2006年1月17日)』に次のように記述した。
「(前略)ライブドアへの強制捜査の影響は決して小さくないと考えられる。二つの重要事項を指摘できる。第一は、ライブドアが昨年2月8日にニッポン放送株を立会外取引を利用して瞬時に30%取得したことについての事実関係の確認だ。ライブドアの株式取得については、実質的に市場外取引であり、届出のない取得は違法ではないかとの指摘があった。
当時の伊藤金融担当相は国会答弁で「違法でない」と発言した。しかし、立会外取引の当事者同士が事前に株式売買について了解していたとなると違法取引の疑いが浮上する。今回の家宅捜査によってニッポン放送株取得の経緯も明らかになる可能性があり、株式市場での他の大手参加者にまで捜査が発展してゆく可能性がある。(後略)」
ここで私が表現した「株式市場での他の大手参加者」とは、村上ファンドのことを意味していた。ライブドアの問題が表面化した瞬間に、私は村上ファンドのニッポン放送株式売買が問題になると判断したのである。
こうして考えたときに、当時の伊藤金融担当相の国会答弁が問題になる。立会外取引でニッポン放送株式を大量取得したことについてのコンプライアンス上の問題が瞬時に判定できるとは到底考えられないのである。さらに問題は、「本当に違法取引ではなかったのか」との点にも波及する。
今通常国会は依然として会期を残しており、伊藤前金融相の国会答弁の背景が明らかにされなければならないはずである。国会議員のなかに堀江氏や村上氏と接触のあった議員は数多く存在するはずである。ニッポン放送株式の売買手口については、他にもインサイダー取引が存在しなかったかどうか、徹底した再調査が求められる。
インサイダー取引は重大な犯罪である。しかし、これまで日本ではその運用が極めて甘かった。2003年5月17日に小泉政権は「退出すべき企業は市場から退出させる」との方針を全面放棄して、りそな銀行を公的資金により救済することを発表した。この政策方針変更についての正確な情報を事前に入手していれば、莫大な利益をほとんどリスク無く獲得することができたはずである。
りそな銀行、株価指数取引、株価指数投信などについて、証券取引等監視委員会は徹底的な手口調査を実施しなければならなかったはずだ。私は当時のテレビ番組で何度もこのことを訴えたが、証券取引等監視委員会が動いた形跡は皆無である。
こうした状況まで含めて考えると、今回の摘発には「国策捜査」としての性格が色濃く影を落としているように感じられる。私が巻き込まれた事件の場合には、完全なる「でっちあげ」によって事件が仕立て上げられた。このことの詳細をここで述べることはしないが、近年の警察、検察の動きにはあまりにも強く政治が関わりすぎている側面が強いように見える。「国策捜査」と称せられる最近の司法当局の活動全体についての真相解明をわれわれはもっと真剣に追求するべきである。
今回は予定を変更して「村上ファンド代表逮捕について」の「直言」といたしました。あしからずご了承ください。
http://web.chokugen.jp/uekusa/2006/06/post_e81f.html
2006.06.25
第10回「失われた5年−小泉政権・負の総決算(4)」
2003年5月17日、りそな銀行実質国有化方針決定の記事が新聞に掲載された。りそな銀行が公的資金により「救済」される方針が示されたのだ。
小泉「改革」の経済政策における柱は次の2つだった。「国債は絶対に30兆円以上発行しない」の言葉に代表される超緊縮財政政策運営と、「退出すべき企業は市場から退出させる」の言葉に代表される「企業の破綻処理推進」である。経済悪化を促進して、他方で企業はどんどんつぶしていくのだから、行く末は自明だった。
私は小泉政権の発足時点から、「小泉政権の政策が実行されてゆけば、日本経済が最悪の状況に向かうことは間違いない。金融恐慌も現実の問題になるだろう」と発言し続けた。権力迎合の殆どの付和雷同エコノミストは、「改革推進で株価は上昇するし、経済も明るい方向に向かう」と大合唱していた。
結果は、私の懸念通りだった。日経平均株価は小泉首相が所信表明演説で政策方針を発表した2001年5月7日を起点に、順当に暴落していった。2003年4月28日には7607円に達した。わずか2年で株価は半値に暴落した。1989年12月29日の史上最高値のわずか5分の1以下に暴落したのである。
2002年9月30日、内閣改造が行なわれ竹中経財相が金融担当相を兼務することになった。竹中氏は金融再生プロジェクトチーム(PT)なるものを組織し、金融行政のルール変更を画策した。竹中氏に接近していた元日銀の木村剛氏もこのPTに加わった。
金融機関の自己資本算定にかかわる、資産査定の厳格化や、繰延税金資産の計上ルール変更などが論議された。PTはルール変更を主張したが、銀行界からの猛烈な抵抗にあった。それは当然だ。銀行は存在しているルールに基づいて経営している。期の途中で突然ルール変更されて対応できるはずがない。ゴルフでティーショットを打ってから、OBラインが変更されるのでは、とてもゴルフはやれないのだ。
資産査定の厳格化の方針そのものは、私もそれ以前から主張し続けていたことである。しかし、ルールを変更する際にも一定のルールは存在する。十分な論議と適正な準備期間は不可欠である。
結局、ルール変更は見送られた。ただ、このPTは、中小企業専門の新しい金融機関の設立の必要性を報告書に記述した。そののち、木村氏は自らが中心人物となり、新銀行設立の申請を金融庁に提出し、金融庁は異例のスピードで新銀行設立を認可した。新銀行では、木村氏自らが関係する企業に、多額の資金を好条件で融資していることがその後に発覚した。この銀行の設立、運営についても徹底的な調査が求められている。
竹中氏としては、金融機関の自己資本算定のルール変更について、上げたこぶしを下ろす先がなくなった格好になった。その延長線上にりそな問題が浮上したと考えられる。2003年のりそな処理=株価底入れの過程については、3つの重要な論点があると述べた。@金融行政と外国資本との連携の疑い、Aりそな銀行がなぜ標的とされたか、Bりそな銀行処理における繰延税金資産計上の不自然さ、の3点だ。
小泉政権は大銀行についても、「退出すべきは退出させる」方針を貫くことを再三にわたり表明していた。日経平均株価が7607円まで暴落した最大の理由がこの点にあった。大銀行が倒産させられるなら、企業の破綻は一気に拡大する。そして連鎖的に第二、第三の銀行破綻が引き起こされるだろう。いわゆる「金融恐慌」の懸念である。
「金融恐慌」が発生しさえしなければ破綻することのない企業も、「金融恐慌」が現実になれば、連鎖的に破綻してしまうリスクを十分に有する。こうした懸念が強まるにつれて、株式の「投げ売り」が広がる。株価はすでに大幅に値下がりしていたが、破綻になれば「紙くず」になる。「紙くず」になる前に株式を処分せざるを得ない。
小泉政権の「大銀行破綻も辞さず」の政策方針が株価を暴落させた最大の背景である。ところが、最後の最後で、小泉政権はりそな銀行を「破綻処理」せずに、「救済」したのである。「救済」の根拠法規は預金保険法102条である。預金保険法102条は「抜け穴規定」を有する条項である。第1項に第1号措置と第3号措置が規定されている。
当該金融機関の自己資本がマイナスに転じた場合、すなわち債務超過の場合は「破綻処理」になる。これが第3号措置である。これに対して、自己資本が規定を下回っても、プラスを維持する場合は「破綻前資本注入」が実施され「救済」される。これが第1号措置である。りそな銀行には、第1号措置が適用されたのである。
この措置が人為的に選択されたことは間違いない。「破綻処理も辞さぬ」と言いながら、結局は「破綻処理ではない救済」が選択されたのだ。この時点でりそな銀行を破たん処理していたなら、日本は間違いなく「金融恐慌」に突入したはずである。この懸念があったからこそ、株価は暴落していたのだった。
逆に、最後の最後で政府が銀行破綻を回避するために「銀行救済」を選択するのなら、株価は当然猛反発する。「金融恐慌のリスク」が株価を下落させていたわけで、その「リスクプレミアム」が消失する分だけ株価は上昇するはずである。政府が「銀行救済」の方針を貫くことがはっきりするにつれて、株価は大幅反発した。日経平均株価は2003年8月18日に10,000円の大台を回復した。
小泉政権が5月17日のりそな銀行処理に際して「破綻処理」ではなく、「救済」を選択した背景とし2つの推論が成り立つ。ひとつは、「破綻処理」選択が小泉政権崩壊を意味したことだ。日本経済が金融恐慌に突入したなら、政権は持ちこたえるはずがない。引責総辞職は必至である。いまひとつの推論は、小泉政権がどこからかの指揮、指導を受けて、当初より暴落後の銀行救済を目論んでいたとの見方である。
おそらくこの両者のいずれもが真実であると思われる。小泉政権は2003年前半に米国政府と頻繁に連絡を取り合っている。米国の指揮、指導を受けて、大銀行の破綻危機が演出され、最後の最後で銀行救済がシナリオどおりに実施されたのだと考える。
2003年5月17日以降の株価猛反発でもっとも大きな利益を獲得したのは外資系ファンドであったと伝えられている。政府が「銀行破綻処理」でなく「銀行救済」の措置をとることがはっきりしていれば、株価が猛烈に反発することはまず間違いのないことと事前に予測することが可能になる。この政府方針を事前に入手し、株式投資を実行したのなら、これは明白に「インサイダー取引」となる。
外資系ファンド、国会議員、政権関係者がインサイダー取引を実行した疑いは濃厚に存在するのである。私はこの問題について、テレビ番組などで再三、調査を要請した。証券取引等監視委員会はこのような局面でこそ、本格的に行動すべきである。だが、調査に動いた形跡はまったく存在しない。「村上ファンド」を摘発するなら、その前に2003年の「インサイダー疑惑」を徹底調査すべきであるし、今回の問題でも「政界ルート」に踏み込むことが不可欠である。
りそな銀行が俎上に乗せられた背景も極めて不自然である。当時の銀行の財務状況は五十歩百歩だった。もとより、政府が発表してきた銀行の財務状況はまったく信用できないものだった。日本長期信用銀行も日本債券信用銀行も破綻する直前まで「健全銀行」に分類されていたが、破たん後の処理を経て公表された結果は、いずれも兆円単位の債務超過だった。
りそな銀行と同程度の財務状況の銀行は複数存在していた。りそながあのような対応を受けるなら同じ対応を受けるべき銀行はいくつも存在していた。ところが現実には、不自然にもりそな銀行のみが俎上に乗せられたのである。その最大の理由は、りそな銀行の当時の頭取が、かなり明確に小泉政権の経済政策を批判していたことにあったと考えられる。りそな銀行では頭取が交代し、新頭取が手腕を発揮し、経営に活力が広がり始めていた局面だった。決して状況は悪くなかったはずである。政治的にりそな銀行は狙い撃ちされたのだと私は確信している。
監査法人がりそな銀行の経営幹部に自己資本不足の可能性を指摘したのは、2003年3月末を過ぎた後だった。この段階で自己資本不足の指摘がなされても、対応の方法は存在しない。3月末以前であれば、各種自己資本増強の施策をとることができる。この点も、一連の動きが策謀であったとの仮説を裏付ける大きな根拠である。
先述の木村剛氏は、5月14日付のインターネットコラムに、「破綻する監査法人はどこだ?」との文章を発表している。明白にりそな銀行の問題を取り扱っているとわかる文章だった。このなかで木村氏は、(りそな銀行の)繰延税金資産計上は0年か1年しかありえないことを力説している。もし監査法人が2年以上の繰延税金資産計上を認めるなら、それを認めた監査法人を破綻させるべきだとの趣旨の考え方が強く主張された。
ところが、5月17日のりそな処理では、繰延税金資産の3年計上が認められたのである。そのからくりはこうだ。0年または1年計上の場合、りそな銀行の自己資本はマイナスに転落し、預金保険法102条では第3号措置しか適用できない。りそなは「破綻処理」になる。3年計上にすると自己資本比率がプラスになり、預金保険法の「抜け穴規定」を活用できる。
小泉政権は、最終局面で「破綻処理」でない「銀行救済」を選択したのである。最終局面で預金保険法の「抜け穴規定」を活用して「銀行救済」が選択されるなら、もとより株価が7607円まで暴落する必然性は存在しなかった。小泉政権は最終局面で「抜け穴規定」を活用することを、かなり早い段階から検討していたのだと考えられる。その意思決定には米国が深く関与したと見られる。
小泉政権は「金融危機」なる「風説」を流布し、株式を「売りあおり」、最終局面で預金保険法102条の「抜け穴規定」を活用して「銀行救済」を実行し、株価の猛烈な上昇を誘導したと言っても過言ではないような行動をとったと判断することができる。国家ぐるみの「株価操縦」、「風説の流布」的行為の疑いは濃厚である。そしてこの方針を事前に入手した投資家が株式売買に動いたのなら、実質的な「インサイダー取引」が行われたことになるのだ。
第8回で記述したが、不良債権処理問題で最重視される二つの政策課題は「金融システムの安定性確保」と「自己責任原則の貫徹」である。何が難しいのかと言えば、この二つを両立させることである。目標がひとつであれば、対応は容易極まりない。「金融システム」を守るには、銀行は破綻させずに政府が救済するとの方針を明示すればそれで大混乱は排除できる。逆に「自己責任原則」を貫くことだけを目標にするなら、金融恐慌突入もやむなしと「破綻すべきは破綻」で進めばよいのだ。だが、両者を両立させるとなると難しい。しかし、2つの課題はいずれも極めて重要であり、いずれも放棄してはならない政策課題なのである。
結局、小泉政権は「銀行救済」を選択したのだ。「自己責任原則貫徹」を放棄し、「金融システムの安定性確保」だけを求めることになった。このような「安易な道」を選択するのなら、それまでの大混乱は不必要だった。株価の暴落誘導の巻き添えを食らって塗炭の苦しみに直面した国民をどれほど生み出したことか。年間3万人を超える自殺者のかなりの部分がその犠牲者でもある。逆に外資系ファンドなどは、人為的な資産価格暴落による資産の底値買いにより巨大利得を獲得したと考えられる。小泉政権は資産価格暴落誘導と並行して、「対日直接投資倍増計画」を実行し、外国資本による日本資産取得に注力してきた。
また、三角合併容認など、米国企業が日本企業を容易に買収できるための条件整備にも積極的に取り組んできた。一連の政策全体が外国資本に対する「利益供与」政策になってきたとの評価は、決してうがった見方ではない。
不良債権問題処理に際しては、責任ある当事者に相応の責任処理を求めることが不可欠である。責任処理を甘くすれば、同じような失敗が繰り返されることが助長される。「モラル・ハザード」の問題が発生してしまう。仮にりそな銀行が経営に失敗して責任処理が必要であるとしたとき、責任処理の第一の当事者は銀行そのものである。銀行の所有者は株主であり、株主は出資した資金を奪われる形で責任を負わされる。
ところが、政府がりそな銀行を救済した結果、当然のことながらりそな銀行の株価は大幅上昇した。責任を負わなければならない株主は、逆に利益を得ることになった。このような措置が取られるなら、各銀行の株主は、株主総会などを通じて銀行経営者に「できるだけ銀行経営を悪化させて、政府から実質国有化の措置がとられるように努力してほしい」などの要望を伝えるようになってしまう。りそな処理では、第一に責任を負うべき存在である株主に政府から利益が供与されたのである。
銀行が実質国有化された後、銀行の経営陣には小泉政権と親交の深い人々が配置された。この人事も利益供与の一変形である。結局、民間会社はこのような措置を通じて、乗っ取られたのだ。企業の破綻処理の経過を細かく観察すると、すばらしい経営資源を保有する企業が数多く、政府により乗っ取られ、政権と親交の深い企業や人物に提供されていることがわかる。これらの巨大な「利権政治」について、深い検証が必要である。
りそな処理で見落とせないのは、木村剛氏が、5月17日のりそな銀行実質国有化案が提示されて以降、一度も政府決定を批判していないことである。私は木村氏とテレビで何度も、りそな処理をめぐって論争した。私は、「自己責任原則貫徹の大原則」が完全に踏みにじられたことを訴え続けたが、木村氏は全面にわたって政府決定の擁護に回ったのである。5月14日に記述した内容とは正反対の主張を繰り返したのである。
りそなの繰延税金資産計上が3年となったことについて、竹中金融相(当時)は、監査法人は独立機関で、政府といえども監査法人の決定には逆らえないと繰り返したが、りそな処理に際して監査法人が金融庁当局と完全に独立に意思決定したなどということはありえない。3年計上は政府の意向であったと考えるべきである。
当時の公認会計士協会会長は奥山章雄氏(中央青山監査法人)だが、奥山氏は竹中金融相の下に置かれた「金融問題タスクフォース」のメンバーも務めた人物で竹中氏との関係は非常に深い。公認会計士協会と金融庁当局が連携してりそな銀行処理が決められたと考えるのが妥当である。当時の関係者からの取材をもとにして、りそな処理がどのような経緯を経て決定されたのかを再検証する必要がある。
小泉政権の経済政策は2003年春に事実上、完全破綻した。緊縮財政政策と企業の破綻処理推進の組み合わせは、日本経済を金融恐慌の入り口まで誘導し、多くの罪無き国民に悲痛な苦しみを与えた。結局、「自己責任原則」を代償として完全放棄することにより、金融恐慌を回避したのである。一連の経過のなかで、外資系ファンドを中心に巨大利益を供与された人々が存在することを忘れてはならない。
小泉政権の政策評価に際してもっとも重要であるのが、2003年のりそな処理なのである。このりそな処理についての厳密かつ客観的評価なくして、小泉政権の政策評価は不可能である。2003年から2006年までの株価反発、経済改善をもって小泉政権の「改革」政策を高く評価するような軽薄な論評には、まったく存在価値が無いことをしっかりと見抜かなければならない。そのような評価に共通する背景は、「権力迎合」の精神構造である。
http://web.chokugen.jp/uekusa/2006/06/10_47b9.html
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【私のコメント】
小泉政権で国策捜査・国策逮捕により迫害されていた植草氏が小泉政権の政策の核心に触れ始めた。
小泉政権は米国を支配するユダヤ金融資本の命令で、2003年にりそな銀行破綻危機を故意に演出して株価を暴落させた。その底値で株を買いあさったのはユダヤ金融資本であった。これは小泉政権がユダヤ金融資本と協力して行った悪質な株価操縦に他ならない。植草氏の主張するように、インサイダー疑惑として徹底的に追及する必要がある。
フランス革命はユダヤ金融資本が扇動し実行した革命戦争であり、ワーテルローの戦いでロスチャイルドが英国株式をわざと大暴落させた後に底値で買い漁って英国を乗っ取った事実が思い起こされる。また、1929年の米国株大暴落を仕組んだのもユダヤ金融資本であり、彼らは空売りで大儲けした。日本の1980年代後半のバブルも米国政府を通じたユダヤ金融資本の命令で実行されたという説がある。これが事実ならば、彼らはバブル暴落過程で空売りで儲け、暴落の底値で買い漁って日本を半ば乗っ取りつつあるといえる。
http://blog.goo.ne.jp/princeofwales1941/e/e442e963aa096e2bbb1c24a9b873fde6
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