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株式日記と経済展望
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu138.htm
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/
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日本では検察に起訴されたら99,9%有罪にされてしまう!
裁判員制度は国家機構の一部になった裁判を取り戻す為のもの
2007年2月23日 金曜日
◆「それでもボクはやってない」を見てきた 1月20日 磯崎哲也事務所」
http://www.tez.com/blog/archives/000830.html
(前略)
日本は民主主義の国で、首相や政府に対しても行政に対しても、そして「第4の権力」であるメディアに対しても、国民は非常に厳しく批判的な目を向けており、実際に容赦ない批判が浴びせられているわけです。
しかし、よく考えてみると、三権の一つである司法の問題については、ほとんど話題になることすらない。
それは、「司法にタテツくと怖い」といった恐怖感といったものからでは(おそらく)まったくなくて、司法の実態があまりに専門的で、話題にするにはあまりにつまらなく、お笑い用語でいうところの「からみづらい」存在だからでしょう。
つまり、司法のはらむ問題というものは、テレビや新聞といったマスメディアでは非常に取り上げづらかったし、「ジュリスト」などの雑誌や専門書でも「無罪判決を出すと裁判官の出世にひびく」といったことは書きづらい(また、おそらく専門家の間では「あたりまえ」の話として共有されているので書くまでも無い)ことなはず。
ましてや、前述のとおり、映画として興行ベースに乗るとはとても思えないテーマであります。
それがなぜ、「踊る大捜査線」等で大ヒットを飛ばしており、Wikipediaでも、「日本で数少ない、良い意味で映画を『ビジネス』として見ている人物」と書かれているフジテレビの亀山千広氏の製作で公開されたのか。
うがった(または素直な)見方で考えれば、
「『踊る大捜査線』シリーズでだいぶ儲けたから、今度は亀チャンの好きなものやらせてあげようよ」
的な社内力学で、本来、興行的には取り上げるべきではなかった作品が取り上げられてしまったとも考えられます。
しかし、(周防監督は、3年前から綿密な取材を重ねてこられたということでそういった意図は無いと思いますが)、素直な(またはうがった)見方で考えれば、これは、ニッポン放送=ライブドアの攻防で自社に対する新株予約権の発行が差し止められたフジテレビ(および亀山氏)自身が体験した、
「あれっ?裁判官って真実を見抜いてくれる人じゃなかったの?」
という意外感、恐怖感、絶望感または喪失感が背後にあって、フジテレビが、「われわれ以外にこれを送り出せる者はいない」という使命感から「公器」として世に問うた作品なのかも知れません。
作品は、裁判の「実態」を(あまりに)リアルに描いている(だけな)ので、法律関係の方々にとっては日頃見聞きしたり体験したりすることと同じで面白くないでしょうし、善良な一般市民にとっては、「刑事裁判」というのは まったく異世界のこと(数値的なリスクとしては「交通事故よりも確率の低い」もの)なので、これも興味がわくことなのかどうか。
そういえば、亀山氏は「踊る大捜査線」シリーズで、「取調べでカツ丼が出てきたり、現場の刑事の独断で敵のアジトに潜入したり」ではない、官僚機構の中に組み込まれて本庁に頭が上がらない「リアルな」警察の現状を描いたので、この作品もその延長線上といえば延長線上なのかも知れません。(しかし、それにしても「興行離れ」してます。)
出演者の方々も役者のオーラを消し去って、まるでドキュメンタリーフィルムのよう。(「裁判員制度の説明ビデオ」と同列の教材ビデオとしても活用できそうな。)
東京地裁のビルの部屋の窓の外に法務省のレンガの建物が見えたり(CG?)、アークヒルズや第25森ビルを見下ろす泉ガーデンの大手法律事務所と、実際に弁護を引き受けてくれる事務所の対比もあまりにリアル。
被害者の女子高生も駅員も警察も弁護士も検事も裁判官も、それぞれが自分の人生の中でそこそこ真面目にやるべきことをやっているだけなのに、「99.9%の有罪率」の中で刑事事件の被告人が地獄に落ちていくという現実。
見終わった観客の方々も全員、あまりにリアルで不条理な現実に、がっくりとうなだれてトボトボとした足取りでスクリーンを後にして帰っていきました。
デートで見に行っても後の会話も盛り上がらないでしょうし、男性の中には、怖くて満員電車に乗れなくなって生活に影響が出る人もいるのではないかと。
ということで、「最高裁判所裁判官の国民審査の投票をするのと同じくらい、日本国民であれば見るべき」映画だと思いますが、「『選挙に行ったときに、最高裁判所裁判官の国民審査もちゃんとやったほうがいいよ』と言うのと同じくらい人には勧めづらい」映画でもあります。
◆証拠を見て思う検察の姿勢 2月19日 植草一秀氏を応援するブログ
http://yuutama.exblog.jp/5141307/
2004年の事件の際、警官の目撃証言は全くのでたらめだった。
実際品川駅・横浜駅ビルに行けばわかるが、あの目撃証言は全くの作り話・でたらめだ。
現場に一度でも行ってみればあれが荒唐無稽な話であることははっきりわかる。
それでも下された判決は有罪判決だった。
今回の事件で検察側が出してきている証人や鑑定、
これほどいい加減なものはないと感じた。
2004年の時と同様、『またか・・・』と思った。
2004年の時の裁判官とも違う、他の痴漢冤罪事件の裁判官とも違う裁判官なので、
私は今回の判事の方々がこの『証拠』に基づく正しい判断を下してくださるものと信じている。
しかし検察側は裁判をバカにしているのではないだろうか。
逆に考えれば検察側の出してきた『証拠』はそう思えるものなのだ。
裁判になった時点で有罪は決まったものとたかをくくって、
『自己矛盾する目撃証言』や『いい加減な繊維鑑定』でもこれで充分と
踏んでいるのではないだろうか。
検察は裁判はどうせまともに審理しないと思っているのではないだろうか。
だからこんないい加減な『証拠』を出してきているのではないだろうかと思う。
検察側の立証はこれで全て終了したのだとするなら、
とんでもなくいい加減な証拠を出して立証を終わりにしたと言わざるを得ない。
おかしな点がいくつもある目撃証人。参考:1月分ブログ:12月分ブログ
霞っ子クラブに書かれていた目で見ただけで太さが違うと思われる繊維を類似と表現する鑑定人。
この『証拠』は素人が見ても『証拠』ではない。
(私のコメント)
昨日は『それでもボクはやっていない』という映画を見てきましたが、どうしようもない無力感にとらわれてしまう映画だ。確かに痴漢犯罪は多発しており多くの若い女性が被害にあっている。しかし人気のない場所で女性を襲ったような痴漢とは違って、満員電車の中で起こった痴漢行為は冤罪事件が起きやすいのも事実だ。
植草一秀氏の件に関しては何度か書いてきましたが、どうしても映画の『それでもボクはやっていない』という映画を見ると、日本の警察捜査や検察の国策捜査や裁判制度にいろいろ問題が山積しているようだ。日本では「疑わしきは罰せず」の原則は通らないようだ。そして検察に起訴されると99、9%有罪にされてしまう。じつに恐ろしい事態だ。
映画を見ていて警察や検察にあのように取り調べられたら、気の弱い私などはとても無罪を主張する事はとても不可能だ。たとえやっていなくとも罪を認めて被害者と示談で済ませようとするだろう。実際に裁判まできて争われる痴漢犯罪は少なく99,9%有罪にされてしまうから裁判は無駄なのだ。
日本国憲法では三権は分立しているはずですが、実際の権力は行政が握っている。立法に関しても官僚たちが法案を用意して内閣が提案して議決されるから、法律は議会ではなく行政が作っているのだ。また司法に関しても警察や検察の上からの圧力に抗しきれずに判事達は有罪判決を下す機関に成り下がっている。
マスコミに対しても行政府は記者クラブを通じて統制がされており、植草事件に関しても報道管制が敷かれて自由な報道は出来ない。官僚たちも国民世論に大きな動きが生じれば議会も動き出して厄介な事になるからマスコミを統制したがるのだ。
検察に関してもいったん起訴して検察が敗訴になる確率は0,1%しかないのは検察の面子があるからだ。実際には検察が起訴するかしないかで裁判は決まってしまうようなものだ。そこへ政治家が関与してくれば、政治家は検察の人事権を持っているから政治家達も悪い事をやりたい放題が出来る。それが国策捜査だ。
耐震偽装事件に関しても行政の責任なのですが、結局は姉歯被告などに責任が被せられて国土交通省の高官はお咎めなしだ。役人達は民営化という名の天下り先を沢山こさえては役人天国を形成している。5,5兆円も天下り団体の役員の給与に使われても、政治家が動かない以上、財政再建など無意味だし、財務省はむしろ増税でカバーしようとしている。
『それでもボクはやっていない』という映画を見て裁判官も検察も良心が痛まないのだろうか? 起訴されればほぼ100%有罪が確定してしまう。警察や検察の捜査が100%完璧なわけはないのだから、何パーセントかは確実に冤罪なわけだ。
最近では暴力団の資金稼ぎにオレオレ詐欺が流行っているようですが、少女と暴力団員が組めば痴漢犯罪をでっち上げて示談金を稼ぐ事もあるのではないかと思う。示談金の相場は10万円から50万円だそうですが、起訴すればほぼ100%有罪にしてしまう裁判が誘発している背景になっていると思う。
植草一秀氏の事件にしても起訴された以上は、どんなに警察の捜査がずさんであったとしても有罪の判決は100%下される。実際に痴漢行為があったかどうかは分からないが、起訴された以上は確実に有罪にされる裁判は間違っている。だから映画を見てとても憂鬱な気分になった。
2年後から日本でも裁判人制度が実施されますが、『それでも僕はやっていない』という映画はそれを啓蒙する為の映画といえる。もし植草氏の裁判が民間人の裁判員が加わっていれば、警察や検察のズサンな捜査が明らかになれば無罪になる可能性がある。現在の裁判では判事が国家機構の一部になってしまって100%近くの有罪を下してしまう。そのことを考えてこの映画を見て欲しい。
◆そういった問題点は、裁判員制度の導入によって改善されると思いますか? 日弁連特別試写会
http://www.toho.co.jp/movienews/0612/15soreboku_ts.html
周防監督:
それは、導入によってより良いものにしなければならないと思います。放っておいたら、職業裁判官の手の内で裁判は進んでしまうだろうという危惧がありますし、証拠開示の問題点もあります。
僕たちのような普通の人間の感覚でいくと、「裁判の証拠って全部見られないの?」と思うものですが、検察官は有罪立証に不必要だと思えば、その証拠は関係ないと思うかもしれません。あらゆる証拠をあらゆる立場から検討するべきだと思いますので、証拠開示をキチッとしていただきたいと思います。裁判員制度が始まったからといって、すべてが改善されるというのは大間違いで、むしろ悪くなる可能性だってあると思いますから。そのためにも、これから実施までの間には、色々とやらなければならないことがあると思います。