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□お笑い99.9(2) [どん底あるいは青い鳥。]
http://donzokoblue.blog55.fc2.com/blog-entry-161.html
2007/01/27
お笑い99.9(2)
仙台筋弛緩剤事件に関して「身内を逮捕すると言われて偽りの自白に陥る人は多いらしい」などと書いていたら、富山の件で偽りの自白をした人は「身内が、犯人はお前だと言っている」と言われていたらしい。
取り調べは、任意同行を求められた02年4月8日から始まり「『身内の者が間違いないと言っている』と何度も告げられ、やっていないと言っても信用されるわけがないと思った。言われるままに認めざるを得ない状況だった」と話した。その上で「身内までも僕のことを信用していないんだと思った。気が抜けたようになってしまった」と語った。男性は3回目の聴取で自白に追い込まれた。(引用元) |
警察には「否認したら身内をとやかく言えばいい」といった取り調べ用のマニュアルでもあるのだろうか。しかしそれで罪を認める人とは、要は身内や知人を深く慮る「善人」だろう。その手法によって得られる自白は偽りである可能性が端から高いのではないだろうか。
さらに「『うん』か『はい』以外に言うな。『いいえ』という言葉を使うなと言われた」とし「今からいう言葉を一切覆しません」とする念書も書かされ、署名、指印させられたとも語った。被害者宅に押し入った手口も「酒屋を装って電話をかけたんじゃないかと言われ、同意させられた」とした。(引用元、同上) |
「酒屋を装って電話をかけたんじゃないか」「はい、そうです」が、調書では「酒屋を装って電話をかけました」という文言になって、それを聞いた裁判官が「この自白には犯人にしか語りえない秘密が含まれている」なんて言うのだろうなと想像する。ここで捏造された物的証拠などでもあれば超楽しいのだが、そこまでしなくても日本の裁判所はちゃんと有罪にしてくれる。
有罪率99%でも、起訴される率は63%だと、こちらのブログに書かれてあった。
多くの国では、犯罪の疑いのある者を起訴することは検察官の義務とされているが、日本では起訴するかどうかは検察官の裁量にゆだねられているからだ。(引用元) |
このように聞くと、もしかして犯人がわかっているのに起訴されなくて割り切れない思いをする被害者(やその遺族)もいるのではないかと少し気になる。いずれにしろ、裁量といえば役人が法律を自由自在に運用するようなもんかと思ったら、やはりそういう感じであるらしい。
問題は有罪率が高いこと自体ではなく、司法が実質的に行政官によって行われ、裁判以前の段階で事実上の「判決」が下されることにある。これは立法行為を実質的に官僚が行い、国会がそれを事後承認する機関になっているのと似ている。(引用元、同上) |
役人は運用の結果に責任を持たない(ように見える)。検察官は不起訴の決定に責任を持つのだろうか。やはり6割の起訴率をなるべく上げて、そのぶん有罪率を下げたほうが「裁判という公開の場において判断された」ことになってよろしいのではないかという気がする。
▽関連記事
富山県警誤認逮捕の男性「身内が認めたと迫られ自白」 [読売新聞]
http://www.asyura2.com/07/nihon22/msg/127.html
投稿者 white 日時 2007 年 1 月 26 日 16:26:30: QYBiAyr6jr5Ac
□「有罪率99%」の謎 [池田信夫 blog]
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/38d4a7aab7eb22e556d128473c233b71
「有罪率99%」の謎 2007-01-22
映画「それでもボクはやってない」が昨日から公開され、話題になっている。私は見てないが、ちょうどそのストーリーを裏書するように、強姦事件で有罪判決を受けて服役した人が実は無実だったと富山県警が発表した。まるで日本では、無実の人がバンバン犯罪者にされてしまうみたいだが、これは本当だろうか。
こういうとき、よく引き合いに出されるのが、有罪率99%という数字である。たしかに日本の裁判で無罪になる率(無罪件数/全裁判件数)は94件/837528件=0.01%(2004年)で、たとえばアメリカの27%に対して異常に低いように見える。だが、アメリカの数字は被告が罪状認否で無罪を申し立てて争った事件を分母にしており、同じ率をとると日本は3.4%になる(ジョンソン『アメリカ人のみた日本の検察制度』)。
これでも十分低いが、これは日本では「逮捕されたらすべて有罪になる」ということではない。送検された被疑者が起訴される率は63%で、国際的にみても低い。多くの国では、犯罪の疑いのある者を起訴することは検察官の義務とされているが、日本では起訴するかどうかは検察官の裁量にゆだねられているからだ。したがって有罪件数を逮捕件数で割ると、国際的な平均水準に近い。
この違いの原因は、大陸法と英米法の違いにある。英米法では陪審員がおり、彼らは職業裁判官に比べて無罪の評決を出す確率が高く、検察官にとって予測がむずかしい。これに対して、日本では裁判官と検察官の間に有罪となるかどうかについてのコンセンサスがあるので、無罪になりそうなものは検事があらかじめふるい落としてしまうのだ。
このように司法手続きが実質的に行政(警察・検察)の中で完結しているので、その「成果」としての起訴案件が無罪になることは、深刻なスキャンダルとなる(メディアもそういう扱いをする)。これは検察官の昇進にも影響するので、彼らはきびしい「品質管理」を行って起訴の条件をきわめて保守的に設定する。その認識は警察も共有しているから、政治家などのむずかしい事件は逮捕もしない。
裁判官も罪状についての認識は検察官と同じだから、無罪にすることは勇気が必要だ。無罪判決を多く出す裁判官は「変わり者」とみられて、処遇も恵まれない。弁護士も確実に負ける刑事裁判はやりたがらないので、いい弁護士がつかない。したがってますます無罪になりにくい・・・という悪循環になってしまうのである。
冤罪の原因としてよく問題になる警察の「自白中心主義」も、このように行政の力が強いことが一つの原因だ。英米法では、裁判は対等なプレイヤーのゲームと考えられているから、司法取引や刑事免責など、捜査する側が被疑者と駆け引きするツールがたくさん用意されている。これに対して日本では、司法の主要部分は行政官が行うので、被疑者と駆け引きするのではなく「お上」の決めた罪状を被疑者に認めさせるという捜査手法になりやすい。
つまり問題は有罪率が高いこと自体ではなく、司法が実質的に行政官によって行われ、裁判以前の段階で事実上の「判決」が下されることにある。これは立法行為を実質的に官僚が行い、国会がそれを事後承認する機関になっているのと似ている。こういう行政中心のシステムは、交通事故のような定型化された犯罪を処理するのには向いているが、疑獄事件のようなむずかしい事案は、検察が恥をかかないために見送る結果になる。この状況をジョンソンは、ジョナサン・スイフトのいう蜘蛛の巣にたとえている。小さなハエは捕まるが、スズメバチやクマバチは巣を突き破って逃げてしまうのである。
お笑い99.9 [どん底あるいは青い鳥。]
http://www.asyura2.com/0610/nihon21/msg/710.html
投稿者 white 日時 2007 年 1 月 15 日 19:57:07: QYBiAyr6jr5Ac