★阿修羅♪ > ニュース情報6 > 253.html ★阿修羅♪ |
Tweet |
http://mainichi.jp/select/opinion/eye/news/20071221ddm004070065000c.html
記者の目:07年に一言 被爆老ヤナギの死が語るもの=玉木研二(論説室)
◇「暗黒の10年」忘却許すまい−−苦悩、国民は刻印しよう
鶴見橋は広島市の京橋川にかかる。東側のたもとのシダレヤナギの古木が、この秋ついに枯れた。
いわゆる「被爆樹木」である。1945年8月6日朝、爆心地から1・7キロのこのヤナギは閃光(せんこう)と爆風に傷つきながら耐え、周辺に傷ついた人々が横たわり、肉親を捜して市外からやってきた人々が往来した。
ここに身を寄せた一人に浦本稔さんがいる。当時13歳、市内の旧制中学1年生だった。熱線に右半身を焼かれ、ここまで逃げてきた。深夜になった。周囲で次々に負傷者が息絶えていく。郊外の家に帰るすべもない。浦本さんは「思わず悲しくなって『おかあちゃん』と叫びました。何度も何度も叫びました」と後年証言記録に語っている。
戦後、浦本さんは広島と絶縁するように上京し、働きながら大学を出、勤め人になった。経理をし、会社を1度変わる。周囲に被爆体験は語っていない。半袖姿にならなかった。結婚したが、妻に先立たれた。
鶴見橋のヤナギの下で母を求めて叫び続けた少年と、東京で過去を語らず、無口でまじめに働く(周囲にそういう印象を残している)浦本さんをつなぐものは、半身に残るケロイドだった。一度職場の懇親の場で「みんなシャツを脱ごう」となった時、突然浦本さんが「おれの苦しみは誰もわからん」と言って泣いたことがあったという。
浦本さんは99年春、自ら命を絶った。何を思い詰めてか知るすべもないが、死の7カ月前、足立区の原爆被害者の会の会誌「原子雲」に求められて体験を証言していた。
証言記では、ヤナギの下の絶望の一夜を述べた後「私に限らず、多くの被爆者が体中に残る傷を憎みながら、あるいは戦争を憎みながら、原爆を憎みながら生きていかねばならぬということを、時には思い起こしていただきたい」と胸底に押し込めてきた思いを初めてのぞかせた。「時には思い起こして」という言葉に、被爆者がしばしば抱く疎外感がにじむようだ。
こうした人生は数限りなくあるだろう。もし浦本さんが晩年に体験を語り残すことがなければ、その秘めた苦悩を、後世誰も知ることはなかった。その方が圧倒的に多いのである。
それを今年、改めて認識させたのが、広島県の原爆被害者団体協議会が3年がかりで進め、第1次の結果をまとめた「被爆後10年間」の実態調査だ。
浦本さんが、広島から上京した昭和20年代、すなわち原爆投下から10年間の時代、被爆者は公的な支援制度もなく、偏見と差別にさらされるまま放置された。「空白の10年」あるいは「暗黒の10年」である。
現在の県内の生存被爆者がその時期をどう過ごしたか。調査によると、72%が病の不安を抱き、35%は生い先短いといううわさに悩んだ。29%は体力が劣り、肉体労働が難しかった。
それでも働かなければ、食べていけなかった。そして偏見がのしかかる。25%は他人に被爆体験を語らず、20%はわが子でも話題にしなかったという。
この間長く病床にあったり、原爆症を発症して後に死亡した多くの人々の声も集めたら(もはや不可能だが)、どの数値も、もっと高くなっていたはずだ。浦本さんは言葉を活字で残したから、いつまでも思いの一端に触れることができる。放置され、沈黙の中に忘れ去られた人生は数知れない。私たちはそのことを思わなければならない。
大半の日本人が被爆をわが身にもかかわることと意識したのは54年、アメリカの水爆実験で漁船員らが放射能に侵された「第五福竜丸事件」からだ。原水爆禁止運動が起き、遅まきながら政府も現在の援護法につながる法や制度づくりに重い腰を上げた。そして今、針の穴をくぐるほど厳しいといわれた原爆症認定も、抜本改革にはまだ遠いながら基準見直し・認定拡大の方向に動いている。
しかし、私はあえて言いたい。そうしたことでは救えない、放置されたまま埋もれ、忘却されるものがある。数値化できない苦悩や葛藤(かっとう)の軌跡である。
亡母は広島の被爆者で耳の後ろに傷があったが、終生、原爆ドームを嫌がり、「壊してほしい」と目をそむけて通った。なぜかも語ろうとしなかった。もはや聞くすべはない。こうして語り残されないまま消えていくものに、私たちは、国は、「唯一の被爆国」という言葉を使うならなおさら、記録し、後世に長く残すことに思いを致すべきではないか。もう時は限られている。
今秋枯れたヤナギはそう言い残した気がする。
==============
ご意見は〒100−8051毎日新聞「記者の目」係kishanome@mbx.mainichi.co.jp
毎日新聞 2007年12月21日 東京朝刊