フセヴォロシスク(サンクト・ペテルブルク地域)にあるフォード工場の労働者は、賃上げを求めて三週間以上にわたってストライキを続けてきた。労働者は、要求の全体を勝ち取ることはできなかったが、経営者側も労働組合を屈服させることには成功しなかった。マリア・クルジーナ(「前進」グループのメンバー。このグループは第四インターナショナルを支持している)がこの運動の主要な段階の経過を書き、それにボリス・カガルリツキー(グローバリゼーション研究所)が補足したものが、以下の報告記事である。 4カ月にわたる 交渉が不調に サンクト・ペテルブルクから東へ二十五キロメートルに位置するフセヴォロシスクのフォード自動車組立工場では、四カ月にわたる交渉が不調に終わった後、昨年十一月十九日の真夜中からストライキが始まった。ITUA(自動車労働者地域間労働組合)の支持を受けている労働者側の主要な要求は、三〇%の賃上げ、労働条件の改善、団体協約の再交渉であった。 経営陣は、ストライキ中やストライキの威嚇がなされている期間中には、組合との交渉を拒否するという高圧的な態度に出た。しかし、ストライキが一週間続くと、本来なら自動車の売上げが最も好調な時期なのに、在庫が枯渇する中で、生産の低下を埋め合わせることがもはや不可能になった。そこで、経営側は、労働組合との交渉に応じて、その場で、二〇〇八年三月一日から一一%の賃上げを実施すると提案した。この提案は労働組合によって拒否された。年間のインフレ率――十二月には一一・五%に達した――は、フォード社の「寛大さ」を無に帰していたのである。 ロシアでは、三週間のストライキというのは、長期ストである。経営者からの要請があれば、ストライキには常に違法判決が下されるからである。しかし、それだけではない。同時に、現在の賃金では、労働者の生活はかつかつなので、長期にわたって仕事をストップさせて、賃金を受け取れない状態を長く続けることができないからでもある。 自主的に職場 放棄に突入 こうした条件のもとで、ITUA労働組合は、一筋縄ではいかない巧妙な作戦を実施した。公式には、千五百人のストライキ労働者の大部分は、三日間でストライキを停止した。しかし、その後、三百五十人の労働者だけがストライキを継続し、それだけで工場はストップした。 公式ストに入っているこれら労働者には、組合から手当が支給されたが、他方、残りの労働者は自分たちの賃金の三分の二を会社から受け取り続けた。というのも、残りの労働者は、公式には、「やむを得ず余儀なくなされている生産の中断」のために労働ができないということになるからである。このような状況は、十一月二十三日から二十八日まで続いた。 十一月二十八日。経営陣は、別の班や別の工場に所属し、会社の招集を拒否するよい口実が見つからなかった約三百五十人の労働者を、夜に電話で呼び出し、生産の再開を試みた。しかし、たったひとつの班だけに人員を集中しても、通常の生産の組織が不可能であることが明らかになった。 第一日目、通常の生産では一日当たり三百五十台の車が生産されるのに、六十六台の車しか組み立てられなかった。しかも、組み立てられたこれら六十六台も、そのたった一台たりとも品質管理を受けられなかった。品質管理部門の労働者がストライキに突入していたからである。 同時に、別の労働者が自然発生的に、正式なストライキに突入し始めた。労働組合にはもはやこれらの労働者に手当を支給する余裕がなかったのだが、約八百人の労働者が職場を放棄した。毎日、労働組合が点呼すると、三十人、四十人と、新しく労働者が日を追うごとにストライキに突入していっていることが明らかになった。さらに、新たに六百人の労働者がさまざまな口実をつけて、事実上、仕事をやらなくなっていたが、これらの労働者は自分たちの賃金の三分の二を受け取り続けていた。 ロシア内外から 連帯基金カンパ 十一月十一日、経営者たちは再び夜間の生産(第3班)を再開させようと試みた。この班は、(通常時の90台に対して)四十台の車を組み立てた。それでも、通常のテンポで工場が操業を再開していると主張するにはほど遠い状態であり、生産は通常の三分の一のままであり、生産された車のうちのほぼ一〇〇%近くが品質管理を受けることができなかった。職制や現場監督に頼っても、組立ラインでは五百人以下しか働いていなかった。しかも、経営者側は、健康にとって危険性のある塗装や溶接の職場にも、研修を受けたこともなく資格も持たない労働者を配置するという犯罪的な不正行為を行った。 「第三班」の労働者はこう語っている。「溶接職場では、通常、人員が十一人いるのに四人しか配置されていなかった、現場監督はもっと速く働け、と要求した。十分な人員がいないではないかとわれわれが監督に説明すると、監督はわれわれをののしり、不満な奴はストライキを始めるしかないのだ、と言ったのだ」。 ロシア全土の労働者が、フォードのこの組立工場に注目した。連帯基金のおかげで、ストライキ労働者は、一日当たり二十ドルの救援手当を受け取った。別の収入がある労働者は、受け取ったこれらの手当を未婚の親や多くの家族のために再び提供した。しかし、労働組合の方は資金が底をつき始めた。そこで、ロシア国内からも海外(IMF=国際金属労連参加のいくつかの組合)からも多くの労働組合が、連帯資金を送る運動を組織し、インターネットのウェブサイトでもこうした連帯が呼びかけられた。 企業・産業別 を超える闘い 最終的に、経営側が、インフレに見合う賃上げと超過勤務分の賃金の支払いを認めるとともに、ストライキ労働者に対して報復的措置を取らないこと、を約束したので、ストライキは労働者の一人一票の秘密投票によって十二月十四日に終結された。これは、ソ連邦の体制が崩壊して以降、最も長く、最も緊迫に満ちた社会対立であった。 今回の闘いは、全面対決ではない形で終結したように思われる。経営者の側は、労働組合を破壊することができなかった。他方、ストライキの成果は、とりわけその大衆動員の力強さに比べると、控え目なものだった。しかし、このストライキは、この企業の枠を超える、そしてまた自動車産業部門すらをも超える意義を持っている。 このストライキによって、ロシアの労働者が、西ヨーロッパと比べても、さらにはラテンアメリカと比べてさえ、ひどい低賃金のもとにあることをすべての人が知ることができた。それはまた、次の点を立証することにもなった。すなわち、ロシアの法規が労働運動にとって不利なものとなっているけれども、強力な労働者組織があればその制約を乗り越えることができると。これは水に投じられた一石である。生み出されたこの波紋は広がり続けるだろう。(「ルージュ」(08年1月3日)
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