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株式日記と経済展望
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu151.htm
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/
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『大国の興亡』 ポール・ケネディ(著) 帝国の拡大に伴う軍事費の
増大が経済的に見合わなくなることにより、米ソの覇権が失われる。
2007年9月7日 金曜日
Paul M. Kennedy
◆大国の興亡 1500年から2000年までの経済の変遷と軍事闘争 ポール・ケネディ(著)
http://www.7andy.jp/books/detail?accd=18792672&introd_id=Xmo46Wk3o36m949ii816i8X466GA3565&pg_from=u
きわめて多くの点で(象徴的な点も実際的な点も含めて)ヴェトナムをはじめとする南アジアにおけるアメリカ軍の長期的な活動が国際的な力関係に与えた影響は、いくら強調してもしすぎることはないだろう。また、それがアメリカ人の国民精神におよぼした影響も同様である。大半のアメリカ人が想定する、世界における自国の役割が、さまざまな点でいまだにこの戦いに強く影響されているからだ。
この戦争が「開かれた社会」で戦われた (国防総省機密文書の漏洩、テレピや新聞が日々報道する虐殺とその不毛性がこの戦争をさらに公開のものとしたという事実、アメリカが初めて明らかな敗北を喫した戦争であったこと、第二次世界大戦で勝利をおさめた経験がなんの役にも立たず、四つ星の将軍から「ベスト・アソド・ブラィテスト」たる識者をも含むすべての者がすっかり評判を落としたこと、
それが国家の目標と優先課題に関するアメリカ杜会のコンセンサスの分裂と時を同じくし、ある程度はその原因となったこと、それにつづいてイソフレ、前例のない学生の抵抗運動や都市の混乱、さらには大統領の権威そのものを失墜させたウォーターゲート事件が起こったこと、多くのアメリカ人にとってこの戦争が建国の父たちの教えたすべてのこととまったく矛盾していると思われたうえに、世界中でアメリカの評判を落とす結果となったこと、
さらにはヴェトナムから帰還したGIたちが戦争の恥辱と帰国後の冷淡な処遇にたいする反動をその一〇年後に体験記や小説、テレピのドキュメソタリー番組、あるいは個人的な悲劇といったかたちであらわして、この戦争をアメリカ人の意識からいつまでも消さたかったこと) こうしたことのすべてが、犠牲者の数こそ少ないものの、ヴェトナム戦争がアメリカ人におよぼした影響を、第一次世界大戦がヨーロッパにおよぽした影響に匹敵するものとしているのである。
その影響は個人のレベルないし心理的レベルでも広くみることができるが、それ以上に重大なのは、それがアメリカ文明とアメリカの制度のあり方におよぼした影響であった。この戦争の影響は、大国の戦略的次元とはまったく異なる意味で、今後も重要性をもちつづけることだろう。
しかし、戦略的次元の問題は本書にとってはより重大であり、若干の説明を要するものである。第一に、それは兵器や経済の生産性の圧倒的な優位が、かならずしもそのまま軍事的な有効性につながるとは限らないことをあらためて認識させるうえで役に立った。このことは、大国間の長期にわたる戦争(通例は大国の連合というかたちをとる)において、双方が同じ程度の兵力を投入した場合の経済とテクノロジーの重要性を強調する本書の論点を損なうものではない。
経済的に、アメリカは北ヴェトナムの五〇倍から一〇〇倍の生産力をもっていただろう。軍事的にも、(タカ派の一部が主張するように)敵を石器時代に逆戻りさせるほどの火力をもっていた。実際、核兵器を使えぽ南アジァ全体を完全に破壊する力があったのである。しかし、この戦争はこうした優位がそのまま力を発揮するようなものではなかった。国内世論や世界の反応を恐れて、アメリカは自国にとって致命的な脅威となるはずのない敵にたいして核兵器を使うことができなかったのである。
この戦争の合法性と効力がしだいに疑問視されるなかで、多数の死傷者にたいして世論が反対したことからも、政府は通常兵器の使用を制限せざるをえなかった。爆撃にも制限が加えられ、中立国のラオスを通るホー・チ・ミン・ルートを抑えることができなかったし、ハイフォン港に武器を運ぶソ連船は拿捕できなかった。二つの重要な共産主義国を参戦させるような挑発を避けることが重要だったのである。
そのために、戦争は本質的にはジャソグルや水田での小規模な戦闘となり、アメリカの火力の優勢や(ヘリコプターによる)機動力が効力を失うような地勢で行なわれた。そして、それにかわってジャソグル戦のテクニックや部隊の団結が強調されることになったが、これは精鋭部隊をもつかどうかというよりも徴募兵をすみやかに訓練できるかどうかの問題であった。
ジョンソンはケネディのあとを次いでヴェトナムヘの軍隊の派遣をさらに増大した(そのピークとなった一九六九年には五四万二〇〇〇人)が、それでもウェストモーラソド将軍の要請に応えられたかった。政府はあくまでこれを局地的な戦闘と見なして、予備役の動員を拒否し、経済を戦時体制におこうとしなかったのだ。
アメリカの本当の軍事力を発揮できない不利な条件で戦うことの困難さは、より大きな政治問題を反映していた。クラウゼヴィッツならこれを目的と手段の不一致と称しただろう。北ヴェトナムとヴェトコンは、彼らが心から信じるもののために戦っていた。そうでない人びとは確実に全体主義の規律に従い、国家主義的な政権を情熱的に支持していた。
それと対照的に、南ヴェトナム政府は腐敗した、大衆に人気のない、明らかな少数派であり、仏教の僧侶を弾圧し、搾取され、戦争に疲れて怯えた農民の支持を失っていた。政権に忠実な国民軍はしぱしばよく戦ったが、この内部の腐敗を帳消しにできるほどではたかった。
戦争がエスカレートするにつれて、しだいに多くのアメリカ人がサィゴソ政権のために戦うことに疑問を抱きはじめ、この戦争がアメリカ軍自体を腐敗させていることを憂慮するようになった。士気の低下、冷笑的な気分、規律の乱れ、麻薬の常用、買春、黄色人種の蔑視、戦場での残虐行為などといった腐敗が進んでいたのである。
また、アメリカの通貨の下落やより広い戦略的形勢の悪化はいうまでもなかった。ホー・チ・ミンは軍隊を一〇対一の割合で失う覚悟があると宣言していた。そして、ホー・チ・ン軍が(一九六八年のテト攻勢のように)無謀にもジャングルから出て都市を襲ったときには、しぼしぽそのような結果となった。
しかし、こうした損失にもかかわらず、彼は戦いを続行した。南ヴェトナムにはこのような意志の力はみられなかった。また、アメリカ杜会自体も、この戦争の矛盾が明らかになるにつれて、勝利のためにすべてを犠牲にするという決意をなくした。双方にとって何が問題となっているかを考えれば、アメリカ国民の感情はよく理解できるものだった。
実際のところ、この戦争は開かれた民主主義国家が気乗りのしない戦争で勝利を得ることが不可能だということを証明したのである。これは根本的な矛盾であり、マクナマラのシステム分析も、グァムを基地とするB-52爆撃機もそれを変えることはできなかった。
サイゴン陥落(一九七五年四月)から一〇年以上たったいまでも、この戦争をさまざまな面から扱った出版物はあとをたたないが、この戦争が世界におけるアメリカの地位にどの程度の影響をおよぼしたかを正確に把握することはいぜんとして困難である。
長期的な展望、たとえば二〇〇〇年あるいは二〇二〇年になって振り返ったとすれぼ、それが世界にたいするアメリカの傲慢さ(あるいはフルプライト上陸議員のいう「力の尊大さ」にたいする有意義な衝撃だったと見なされ、それによってアメリカが自国の政府および戦略上の優位を再考し、一九四五年からすでに始まっていた世界の変化に対応することを余儀なくされたと考えられるかもしれない。いいかえれぱ、ロシアがクリミア戦争で受けた、あるいはイギリスがポーア戦争で受けたような衝撃であり、結局はそれが自国の改革と再認識に役立ったというわけである。
しかし、短期的にみた当時の戦争の影響は、有害の一語に尽きた。戦費の急激な増大は、ちょうどジョンソン大統領の「偉大な社会」構想にもとづく国内支出の急上昇と同時に起こったために、アメリカ経済に甚大な影響をおよぼしたが、この点については以下(235〜36べージ)にくわしく述べる。
さらに、アメリカがヴェトナムに金を注ぎ込んでいるあいだに、ソ連は核戦カヘの支出を着実に増やしていたのである。その結果、ソ連の核戦力はアメリカとほぽ同じレベルに達した。また、その当時の世界的な砲艦外交の主たる担い手となっていたソ連海軍への支出も着実に拡大されていた。
そして、このアンバランスは、ほぼ一九七〇年代を通じてアメリカの有権者が軍事支出の増大に反対したことによってさらに悪化した。一九七八年には、「国防支出」は国民総生産の五パーセソトにすぎなかったが、これは過去三〇年間で最低だった。軍隊の士気は、戦争そのものと戦後の経費削減の影響を受けて急速に低下した。
CIAをはじめとする機関の大改造は、いかに濫用抑制が必要だったにせよ、有効な活動の妨げとなったことは明らかだった。アメリカのヴェトナムヘの肩入れぶりは好意的な支持者さえ危ぶませた。腐敗しきって世論から見はなされた政権を支持して戦うというやり方は、第三世界のみならず西ヨーロッパでも、一部の人びとからアメリカの世界からの「疎隔」と呼ぱれているものの大きな要因だったからだ。
それはアメリカがラテン・アメリカをないがしろにする態度にもつながった。そして、ケネディの希望にみちた「進歩のための同盟」に代わって非民主的な政権への軍事的支援や反革命的な行動(一九六五年のド、ミニカ共和国への介入のような)が一般的傾向となった。
その結果、必然的に、ヴェトナム戦争後、既存の同盟関係に将来問題が生じたときに、アメリカが世界のどの地域のために戦い、あるいはどの地域のためには戦わないかをめぐっておおやけに論議がなされたため、動揺していた中立国が反対陣営について安全を確保するといった事態が生じた。
国連の討論では、アメリカ代表はしだいに他国から包囲され、孤立するようになった。ヘンリー・ルースがアメリカは兄弟愛で結ぽれた国々の長男になるだろうと主張したころから考えれぼ、隔世の感があった。
バワー・ポリティックスにたいしてヴェトナム戦争がもたらしたもう一つの結果は、それがおよそ一〇年ものあいだアメリカ政府に中国とソ連の分裂の認識を誤らせたことだった。そのためにワシントンはそれに対処する政策を打ち出す機会を失ったのである。したがって、一九六九年一月にかたくなな反共主義者のリチャード.ニクソンが大統領になった直後に、この手ぬかりがただちに正されたのは注目すべきことだった。
しかし、ニクソンは、ガディス教授の言葉をかりると「イデオロギー的な頑迷さと政治的現実主義を巧妙に使い分ける」政治家だった。そして、世界の大国との対応ではとりわけ後者が明白にあらわれたのである。国内の過激派を嫌い、たとえぼアジェンデのチリなど社会主義政策をとる国には敵意をもっていたにもかかわらず、ニクソン大統領はグローバルな外交となるとイデオロギーにはこだわらなかった。
彼にとって、一九七二年に北ヴェトナムヘの大規模な爆撃を増やすよう命令すること(ハノイに圧力をかけて、南からの撤退交渉においてアメリカの立場に近づけようとすること)と、同じ年に中国を訪れて毛沢東と和睦することとのあいだには、まったく矛盾がなかったのである。
それ以上に重要なのは彼がヘンリー.キッシンジャーを国家安全保障問題担当補佐官(のちには国務長官)に選んだことだろう。キツシンジャーの世界情勢への対応は歴史的かつ相対主義的なものだった。すなわち、すべての出来事はより広い文脈のなかで相関的にみるべきであり、大国はそのイデオロギーではなく実際の行動によって判断すべきだというのである。
絶対論者による安全の追求はユートピア的である。すべての他者を絶対的な危険にさらすことになるからだ。したがって、達成する期待がかけられるのは、世界情勢のなかの合理的な力の均衡にもとづいた相対的安全だけである。これは、世界が決して完壁に調和することはないという成熟した認識であり、交渉への意欲を示すものだった。
キッシンジャーは、自分が話題にした政治家(メッテルニヒ、カスルレー、ビスマルク)のように、「人間の知恵の始まりは、国際問題と同じく、いつ終えたらよいかを知ること」だと感じていた。
彼の警句はバーマストン流(「われわれには永遠の敵はない」)であり、まだピスマルク流(「中国とソ連のあいだの敵意は、われわれが双方とこの二国問の相互関係より近い関係を維持すれぱ、最もわれわれの目的にかなうだろう」)でもあり、ケナン以来のアメリカ外交のどれとも異なっていた。だが、キッシンジャーは彼が崇拝する十九世紀のヨーロッバの政治家たちよりも、政策決定に関してはるかに大きな機会をもっていたのである。
さらに、キッシンジャーはアメリカの力の限界も認識していた。アメリカにはもはや南アジアのジャングルで長期的な戦闘を行なう力も、さらに重大な他の利益を維持する力もないと知っていただげでなく、彼もニクソンも世界の均衡が変化しつつあり、新しい勢力がそれまでは挑戦を受けることのなかった二つの超大国を脅かしていることを認識していたのである。
この二つの超大国はいぜんとして厳密に軍事力という点でははるかに他をしのいでいたが、それ以外の点では世界はすでに多極化していた。「経済的には少なくとも五つの主要グループがある。政治的にはさらに多くの勢力の中心があらわれている……」と、彼は一九七三年に書いている。
ケナンの言葉を繰り返し(それに修正を加えて)、彼はアメリカ、ソ連、中国、日本、西ヨーロッパという重大な五つの地域を想定した。そして、ワシントンの多くの政治家や(おそらく)モスクワのすべての政治家とはちがって、この変化を歓迎した。大国がたがいに均衡をとりながら、どの国も他国を支配しないという協調関係を保てば、一方の利益が他方の絶対的な損失となるような二極化した情勢よりも、より安全でよりよい世界になるというわけである。
このような多元的な世界でアメリカの利益を守ることについて、自分の能力に自信をもっていたキッシンジャーは、より広い意味でアメリカの外交の根本的な見直しを提唱した。
一九七一年以降の中国とアメリカの着実な国交回復への動きによって引き起こされた外交革命は、「世界の勢力の相関関係」により深い影響を与えた。日本はワシソトソの動きに不意打ちをくったが、中華人民共和国と新たな関係を結べぽ、拡大するアジア貿易にさらにはずみをつけることができると考えた。
アジアにおける冷戦は終わったように思えた。あるいは、それがさらに複雑になったといったほうがよいかもしれない。ワシントンと北京の外交的なバイブとなって秘密文書の橋渡しをしていたバキスタンは、一九七一年にインドと国境紛争を起こしたときには、アメリカと中国の双方から支援を受けた。
モスクワは予想とおり、ニューデリー政府に強い支援を与えた。ヨーロッバでも均衡はすでに変わっていた。クレムリンは中国の敵意とキッシンジャー外交に脅威を感じて、第一次戦略兵器制限条約(SALTI)を結び、鉄のカーテン越しに関係改善のためのさまざまな試みを奨励するのが賢明だと判断した。
また、一九七三年にアラブ・イスラエル戦争が勃発し、キッシンジャーが「往復外交」を開始してエジプトとイスラエルの和解をはかり、ソ連が重大な役割をはたすのを巧妙に阻止したときも、ソ連はそれにつづくアメリカとの緊迫した対決に際して控え目な態度をとった。
ウォーターゲート事件が一九七四年四月にニクソンをホワイトハウスから追放せず、多くのアメリカ人が政府に疑惑を抱くようにならなかったとしても、キッシンジャーがいつまであのビスマルク流の軽業外交をつづけられたかは疑問である。事実、彼はフォードの在任中も国務長官の地位にとどまったが、しだいに行動の自由を制限されるようにたった。
防衛予算の要求はしぼしぽ議会によって削減された。南ヴェトナム、カンボジア、ラオスヘの援助は一九七五年二月に打ち切られ、その数カ月後にこれらの国々は侵略された。戦争権限法は、軍隊を海外に派遣する大統領の権限を大幅に制限した。ソ連とキューバがアソゴラに介入したときも、議会はCIAの資金と武器をアソゴラの親西欧派に送ることを拒否した。
共和党右派は、海外におけるアメリカの力の衰退にしだいにいらだちを示し、国益(パナマ運河)と旧友(台湾)を譲り渡したとしてキッシンジャーを非難した。彼の地位は、一九七六年の選挙でフォードが権力の座からおりる前に、すでに危うくなっていたのである。 (P194〜P201)
日本がアメリカの後を引き継ぐのだろうか?
(私のコメント)
ポール・ケネディの『大国の興亡』は1500年から2000年までの帝国の興亡の歴史を書いた本ですが、イギリスの歴史学者らしくアメリカについても、そして日本についても冷静に書かれている。1987年に発刊された本なのでソ連の滅亡については触れられていませんが、1985年には始めて石油生産が減り、穀物生産も自給できないほど衰えた状況を指摘している。
『大国の興亡』という本の題名が示すように、当時の超大国といえばアメリカとソ連でしたが、ソ連が今後どうなるか? アメリカがこれからどうなるかを500年の歴史を通じて考察したものだろう。「株式日記」においてもアメリカとソ連は兄弟国家であり血を分けた兄弟であり、弟が経済的に行き詰って滅んだように、アメリカも1970年前後に国内石油の生産がピークを打ち経済の衰えで滅亡していくのだろうと予言してきた。
つまりソ連もアメリカも石油文明が作った帝国ということが出来ますが、その石油が世界的に涸れ始めている。だからアメリカはイラクの油田を制圧する為にイラク戦争を始めましたが、手を広げすぎた帝国は増大する軍事費に押しつぶされて自滅を早める事になる。ポール・ケネディもアメリカを「手を広げすぎた帝国の危険性」を指摘している。
その前兆となるのがベトナム戦争ですが軍事超大国としてのアメリカの限界を示した戦争だった。核兵器の登場は全人類を20回殺せるほどの威力があり、全面核戦争はアメリカといえども無傷ではいられない。また従来の兵器をハイテク化しても相手が姿の見えない敵では何の効力も持たない。つまり軍事力だけでは帝国を維持するのは難しくなりアメリカはそれに対して不適応障害を起こしている。
つまり現在のイラク戦争は軍事力で圧倒しても統治に失敗すれば敗北して撤退せざるを得なくなる。そのことがアメリカにどのような結果をもたらすか、ポール・ケネディが指摘するようにベトナム戦争敗戦のときのトラウマがアメリカに再び甦るだろう。湾岸戦争で一時的にトラウマを克服する事ができたように見えましたが、息子のブッシュ大統領が元の木阿弥にしてしまった。
昔ならば戦争に勝つ事によって国の求心力を高める事もできて勢力の拡大につながった。アメリカはその最後の帝国であり、現在受け持っている勢力圏を維持していく為には国力以上の軍事費をつぎ込んでいる。核で戦争が出来ない以上、通常兵器で戦わなければなりませんが、ゲリラ戦では通常兵器すら通用しない。
◆アメリカー相対的に衰退しつつあるナンバー・ワンの問題
ソ連のかずかずの困難を銘記することは、アメリカの現在および将来の状況を分析するときに有益である。というのも、アメリカには二つのきわだった特徴があるからだ。
その第一は、ここ二、三〇年、世界の力関係のなかでアメリカの占める割合は相対的にソ連よりも急速に衰退しているのではないかという論議がなされている一方で、アメリカが抱える問題の大きさはおそらくライバルであるソ連の比ではないということである。しかも、アメリカの絶対的な力(とくに工業やテクノロジーの分野で)は、現在でもソ連よりはるかに大きいのだ。
第二は、アメリカ社会の組織化されていない放任主義の体質が(それゆえの弱点がないわけではないが)、厳しく統制された社会よりも情勢の変化に適応しやすいと考えられることだ。しかし、そのためには今日の世界の大きな動きを理解し、世界的な環境の変化に適応しようとする際にアメリカの立場の強さと弱点を認識できる政府の存在が必要である。
アメリカは現在もなお経済的に、そしておそらくは軍事的にも他に並ぶもののない地位にあるが、世界の「ナソバー・ワン」の位置を占めるすべての国の寿命に挑戦する二つの大きな試練を避けることはできない。すなわち、軍事戦略の領域では、自国が要請される防衛力とそうした責任を維持するために自国が保有する手段とのあいだのバラソスを保てるか否かという問題があり、それと密接に関連することだが、つねに変化していくグローバルな生産のバターンに対応して国力のテクノロジーおよび経済の基盤を相対的な侵食から守れるかどうかという問題である。
アメリカの能力にたいするこの試練は、アメリカが一六○○年ごろのスベイン帝国や一九〇〇年ごろの大英帝国のように、自国の政治的・経済的・軍事的能力が世界情勢におよぼす影響力がずっと確かだった数十年前に引き受けたさまざまな戦略上の責任をいまだに受け継いでいるため、より厳しいものとなるだろう。
その結果、現在のアメリカは、かつての大国の興亡を研究する歴史家にはなじみの深い、いわぱ「手を広げすぎた帝国」の危険をおかしているのである。いいかえれぱ、ワシントンの政策決定者は、世界におけるアメリカの利害や義務が現在では国力をはるかに超えており、そうしたものを同時に守ることができないという厳しくかつどうしようもない事実と直面しなければならないのだ。 (P346〜P347)
(私のコメント)
アメリカにとってはベトナム戦争やイラク戦争が、大英帝国のボーア戦争であり、帝政ロシアのクリミア戦争やソ連のアフガニスタン戦争のような衝撃であり、アメリカは世界戦略を根本的に立て直すことを迫られている。それに失敗すれば帝政ロシアやソ連のような滅亡が待っているのであり、上手く行ったとしても大英帝国のような衰退の道を歩む事になる。
ポールケネディの「大国の興亡」は800ページにもなる大著ですが、米英の歴史学者が日本をどのように見ているかも参考になる本だ。ポール・ケネディは多極化した世界でアメリカ、ロシア、中国、EUに並んで日本を挙げている。しかし最近の日本人は日本が大国である意識がなく、世界においても日本の影は薄くなる一方だ。
その原因としては政界も官界も学会も日本が大国である事を意識の上で放棄しているのだ。たしかに政治家にとっては外交と防衛をアメリカに丸投げして、官界も学会も世界戦略など考えずに済むからだ。大学においては軍事学も地政学も教えているところがない。アメリカの植民地根性がそうさせているのだ。戦後のGHQによる見えない検閲体制で日本人は世界戦略を考えてはならぬと洗脳されてしまったのだ。
日本人が世界戦略を考えるようになれば必然的に自主防衛や核武装に行き着かざるを得ない。それを恐れるからアメリカも日本の支配層も大学で世界戦略を教えないようにしているのだ。私も大学で「国際関係論」などはとったが外交論だけで軍事が全く抜けている。これでは外務省の役人も外交戦略なき外交せざるを得ない。まさに日本は頭脳を持たぬ大国なのだ。