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(回答先: 【裁判員制度=一般市民を人殺しに強制加担させる強制徴集制度】 宗教界、裁判員に悩む…「人裁けるか」「正式な制度だから」 投稿者 passenger 日時 2009 年 1 月 11 日 23:21:39)
小生は耶蘇ではないが、下の文については敬意を表するものである。
新約聖書 ヨハネによる福音書
http://www.wcsnet.or.jp/~m-kato/bible/john.htm
0801> イエスはオリブの山に行かれた。
0802> 朝早くまた宮にはいられると、人々が皆みもとに集まってきたので、イエスはすわって彼らに教えておられた。
0803> すると、律法学者やパリサイ人たちが、姦淫している時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、
0804> 「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。
0805> モーセの律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。
0806> 彼らはそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。
0807> 彼らが問い続けるので、イエスは身を起こして彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。
0808> そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。
0809> これを聞くと、彼らは年寄りから始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。
0810> そこでイエスは身を起こして女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。
0811> 女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。〕
(一説によると、このときイエスが地面に書いていたのは、その場にいる律法学者やパリサイ人たちの犯した罪のひとつひとつであったという)
人を罰することの出来るのは選ばれた者たちだけであろう。誰にでも出来ることではないという意味である。例えば今の世が神の治める世であれば「神に選ばれた者たちだけ」という意味である。
今の日本は民主政治といわれるものなので民が民から選ぶのであるが、完全無欠の神ならぬ身である以上、最低限、覚悟を持った志願者から選ぶべきと考える。よって、「裁判員法では、「人を裁きたくない」というだけでは辞退理由にならない・・」などは論外である。「裁きたくない」と思うのが圧倒的多数の国民であり、それがまだこの国の民が健全である証拠であろう。「人を裁くのは誰にでも出来る」と考えた阿呆以外にこんな制度は思いつくものではない。「おれにだって人ぐらい楽々裁けるさ。どうせ他人の人生だ」とでも考えた恥知らずの増上慢の下司野郎だけがこんな制度を作れるのである。この法案が国会を通過したというからには、国会議員の多数もそのような恥知らずの増上慢の下司野郎なのであろうか。単に上から言われるままにその法案に賛成してしまった無責任議員が多数であったという方がまだ救われる気がする。ゲホゲホゴホゲホ。
国会に行ってウイルス撒き散らして来たろか。
註1:増上慢・・・1.まだ悟りを得ないのに、得たと思ってたかぶること。2.実力が伴わないのに自慢すること。自信過剰。(広辞苑)
註2:アメリカには20ドル札があるからという理由で2千円札を作ったのと同じ発想でかの国の陪審員制度に似せた制度をと考えたのではないかという疑問も感じないわけではない。
註3:「志願者から選ぶ」といっても、その選ばれた裁判官が被告人から見てムチャクチャな判決を下そうとするのは至極当然であり、なぜなら日本は人間関係すなわちその場の空気を読むことが最優先の国であったのであるから、特に小さな町ではそうだが、検事は裁判官と顔見知りでつまり同じ業界のお仲間である。ここで弁護士もその場を構成するはずだが、しかし彼は本来あくまで被告人の代理人であって正式な構成員ではない。一方、法廷に現れた刑事被告人はいわば「いちげんさん」であり、裁判官がその馴染みのお仲間の言い分と「いちげんさん」の言い分のどちらを信用するかといえば考えるまでもない。というか、馴染みの仲間の言い分を否定するのには勇気がいるのよね。今後のこともあるし。したがって遠藤誠弁護士(違ってたらゴメン)が裁判官時代に経験したという、主席裁判官による「だって、検察が起訴してるんですよ?」という推定有罪の名言が日本の初期設定であり、聞くところでは「一生無罪判決を出したことのない裁判官がほとんどである」ということにもなるのである。そこでまた刑事裁判というのはほとんどが有罪になるという伝統がすなわちその場の空気を支配するので、それに反する無罪判決などはよほどでなければ出せるものではないのである。
違いますやろか。
おそらく裁判制度そのものが日本にはなじまないのではなかろうか。いっそ昔に戻ってクガタチにするとかw
盟神探湯
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%9F%E7%A5%9E%E6%8E%A2%E6%B9%AF
遠藤誠
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A0%E8%97%A4%E8%AA%A0
いちげんさんおことわり
http://f40.aaa.livedoor.jp/~paulnobu/ichigensan.html
http://www.cc.u-ryukyu.ac.jp/~michita/reading/2005-05a.html
■『裁判官だって、しゃべりたい!─司法改革から子育てまで』(日本裁判官ネットワーク 2001 日本評論社 ISBN: 4535512825 \1700)2005/05/05(木)
〜信念を通す人たちの語り〜
数十人の現役裁判官によるグループが中心となって語った本。裁判官と最高裁の間にはミゾがあるのだそうで、「信念を通す人は、どんなによく仕事ができ、人格識見ともにすぐれた優秀な裁判官であっても、今の裁判所では所長にさえなれないことを覚悟しなければならない」(p.294)とある。本書全体から受ける印象としては、ここに参加している数十人の裁判官は、こういう人たちが少なくないような気がする。
本書でなるほどと思ったのは、「起訴有罪率がほぼ100パーセントだからこそ、自分たちの仕事への情熱を維持していける」(p.24)とある検察官が語っていたという話。確か『自白の心理学』に書かれていたんだったと思うが、日本は起訴有罪率がほぼ100パーセントで、ほとんどの裁判官は有罪の判決しか下さずに一生を終えるので、被告人に対して推定有罪の態度で臨んでおり、冤罪事件を見破ることができないんだ、というようなことが書かれていた。この説明に私はナルホドと思ったわけだが、しかし本書に書かれているのもその通りで、起訴有罪率が低いと、検事が仕事への情熱を失う可能性があるかもなあと思った(どうせ裁判でひっくり返されるんだし、という感じか)。しかしまあそれにしても、起訴有罪率が高いのはあくまでも理想であって、達成すべき目標ではないはずなのだが、それがノルマ的になってしまうと、『取調室の心理学』にあるように、歪んだ供述が生み出されたり、まがい物の証拠が作り出されたりすることになるのだろう。
なお、ある判事は「職業裁判官は、調書を読んで、嘘か真実かを見抜く力がついています」(p.123)と述べていたり、別の判事は「自分が担当した事件は、裁判官として自分が納得するまで考えて結論を出し、責任ある仕事を果たしている」(p.147)と述べている。もちろんそういう部分はどの裁判官にでも必ずあるのだろうが、上に挙げた2冊の本にあるように、そうではない部分をもっている可能性について、裁判官がどう考えているかは知りたいところである。本書中では、免田さんと対談した判事の森野氏が、「私自身が裁判官として、たとえば免田さんの再審請求を受けたときに、はたして再審開始決定ができたかどうかと言われると、残念なことに自信がない」(p.62)と述べている。つまり「そうではない可能性」があることは認めているわけだが、それに対してどう考えるかまでは、残念なことに述べられていない。
本書は、興味深いところもあるものの、わかりにくいところも多少あり、全体としてはホドホドという感じであった。タイトルどおり、とりあえずしゃべりたい話題を幅広く(悪く言えば雑多に)語った、という感じか。企画自体は悪くないので、もう少し焦点というかテーマを絞ってくれるといいのに、なんて思ったりした。