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【日経BP・伊東乾さんのコラム】法を免疫不全に陥らせるな! 知らぬ間に踏み込む違憲の罠
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法を免疫不全に陥らせるな!
知らぬ間に踏み込む違憲の罠(CSR解体新書33)
2008年3月19日 水曜日 伊東 乾
罪刑法定主義 ハンムラビ法典 刑事訴訟法 裁判員制度 社会的責任
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10年くらい前のことです。私が持っていた大学1年生にコンピューターの初歩を教える「情報処理」(「情報」)の講義で、演習の手伝いをしてくれるTA(ティーチング・アシスタント)の大学院生の1人が、こんなことを言いだしました。
「六法全書のテキストを全部コンピューターに入力して、裁判官システムを作ってみたいと思うんです。事件が起きたらその概要を入れると、刑が自動的に出てくる。そうしたら余計な裁判の時間とか人手が省けて、便利でしょう? 誰でも考えつきそうなのに、なんでみんな開発しないのかな?」
●裁判官コンピューターは作れるか?
言うまでもないかもしれませんが、この学生は情報科学を専攻する「理系」の大学院生です。
当時の私は今より遥かに法律には疎かったですが、友達が深刻な裁判を受けていたこともあり、法廷というところでは検察官も弁護側も、同じ「法体系」に基づくとして、正反対の主張をするのだから、法律が論理体系として完備で閉じたものではなく、内部に矛盾を含むものに違いないことは、察しがついていました。
六法全書の内容をすべてコンピューターに入力した程度では、決して自動裁判マシーンは作れないでしょう。またそんなもの作られたらたまらんな、ジョージ・オーウェルの「1984」も真っ青の、超管理社会になるだろう、とも思いました。
●「法廷は情状酌量がすべて」!
この院生の言葉が気になっていたので、しばらくしてから東京大学内で法律の先生にこの問題を尋ねてみました。すると「裁判なんてね、論理もへったくれもありませんよ。法廷の実務は、いかにして裁判官の情状を取るか、それだけですね。法律は学問なんかじゃない」とアッサリ言われてしまいました。六法全書の内容をコンピューターに入れても、絶対に裁判マシンはできないというわけです。
「Aという行為がダメだという条文があるとしますよね。これに対抗するためには、それをよい、あるいは容認可能だとする条文や判例が必ずあるはずだと思って法廷での戦術を考えるわけですが、最後は情状ですよ。判決を決めるのは」
へぇ、そういうものなのか、とびっくりしました。ハッキリ書けば裁判の本質はお情けにかかっていて、それを巡る腹芸の応酬だとその先生は言う。事実の認否から量刑まで、日本の法廷は裁判官の裁量が非常に広いところがある。分かっているプロは、その幅の広さの一番いい線を突くように、相手を情で説得してゆくのだ。条文で決まっていることなんて、ほんの少しで、実務は学問とは程遠いものなんですよ…。
東大の法律の先生に「法律実務は学問ではない」とアッサリ言われてしまったのは、ちょっと衝撃的でした。ちなみにこの先生は学生運動華やかなりし世代の人で、若い時から友達の法廷などにも関係したようで、いずれにしても、とても参考になりました。
●「罪刑法定主義」の源流
さて、そんな法廷の実態も少し見たうえで、先週もお話ししました「罪刑法定主義」について考えてみたいと思います。NBオンラインはネット連載ですから、インターネットで読者の皆さんもアクセスしやすいウィキペディアから、「罪刑法廷主義」の記事を引用してみましょう。
「ある行為を犯罪として処罰するためには、立法府が制定する法令(議会制定法を中心とする法体系)において、犯罪とされる行為の内容、及びそれに対して科される刑罰を予め、明確に規定しておかなければならないとする原則のことをいう」
とあります。教科書によって他の定義もあるかと思いますが、今はこれを元に話を進めましょう。
このウィキペディアの「定義」の後半には
「公権力が恣意的な刑罰を科すことを防止して、国民の権利と自由を保障することを目的とする。事前に法令で罪となる行為と刑罰が規定されていなければ処罰されない、という原則であり、遡及処罰の禁止などの原則が派生的に導かれる」
と記されています。私が注目するのは、むしろこの後半の方なのです。私が「罪刑法定主義」に関連する話題に言及する時、法律に明るいと思われる方から、
「犯罪とされる行為の内容、及びそれに対して科される刑罰を予め、明確に規定しておかなければならない」
ことが「罪刑法定主義」で、それ以外の概念が紛れ込んだ不正確な議論は望ましくない、概念を混同している、そもそもそんなものは罪刑法定主義と何の関係もない、といった指摘を受けることがあります。
しかし私が、とりわけ裁判員制度に関してこの言葉を使うのは、上に書いた後半「公権力が恣意的な刑罰を科すことを防止して、国民の権利と自由を保障することを目的とする」
に力点を置いて使っているのです。本来の目的は「国民の権利と自由を保障すること」にあるはずの「罪刑法定主義」が、その本来の目的を見失って「予め法に明確に規定されている」ことが一人歩きすれば、それは既に、ここで言っている「罪刑法定主義」ではない。
いわば「権利と自由」を守るという、本来の「免疫能力」を失った罪刑法定主義、いわば免疫不全の法概念になってしまう。それを強調したいのです。
●刑罰が記されていないモーセの十戒
この問題を考えるうえでは、歴史をさかのぼってみるのが有効です。そこでまず、罪と罰が明確に対応づけられていない状態とはどういうものを指すか考えてみましょう。 旧約聖書に載っている「モーセの十戒」はその例と言えそうです。幾つか抜き出してみると
2 偶像を作ってはならない(偶像崇拝の禁止)
6 殺人をしてはいけない
7 姦淫をしてはいけない
8 盗んではいけない
9 偽証してはいけない
10 隣人の家をむさぼってはいけない
これら「禁止条項」つまり不法行為は記されていますが、罰則に関する規定はありません。禁忌を犯したものをどのように処罰するかは、聖俗の権力の判断に任されていた。それが恣意的に乱用されると必然的に国は混乱するでしょう。様々な経験を踏まえて、人類は法律を詳細に定めるようになったと考えられます。しかし問題は、その定め方です。
●ハンムラビ法典の罪刑法定主義
古代バビロニアのハンムラビ法典は「目には目を、歯には歯を」という「復讐法」で知られています。これはある人が片目をつぶされたら、加害者の片目をつぶしてかまわない。両目なら両目、歯を折られたら、歯を折り返してかまわない、という「罪」と「刑」の関係を法で定めたものです。
「目には目を」は、「やられたらやり返せ」という復讐を認める野蛮な規定だと思われやすい。しかし現代の法学は「片目をつぶされたから両目をつぶして仕返ししてやろう」といった「倍返し」を禁じるもの、報復の拡大合戦を防ぐ「罪刑法定主義」の原点として実は「ハンムラビ法典」を評価しています。
でも今日の法廷で通用すべき「罪刑法定主義」を考える時、被害者が体に傷害を受けたとして、相手に身体刑を求めるという話にはなりません。何かが抜けている気がします。
さらにもう少し見てみると、「ハンムラビ法典」には「目には目を」などの一見平等な「復讐」と見える表記もありますが、実際にはもっといろんな規定があって195条で「子がその父を打った時は、その手を切られること」、205条で「奴隷が自由民の頬をなぐれば耳を切り取られること」など、親子間や、奴隷と自由民の間では平等でない関係が、おのおの「予め」「明確に」規定されています。つまりハンムラビ法典は、国民全体の自由や平等を前提とする「罪刑法定主義」ではないわけです。
●悪役から見た大岡越前
ちなみに日本では、狭義の「罪刑法定主義」は「大宝律令」から存在していることになり「関東御成敗式目」「武家諸法度」なども、犯罪と刑罰の対照関係があることになっています。ただし平等や自由の概念はありません。
では、落語や講談に出てくる「大岡裁き」、つまり江戸町奉行だった大岡越前守の人情裁きは、今日の基本的人権の観点から見て「罪刑法定的」と言えるでしょうか? テレビの「大岡越前」を見ていると、加藤剛演ずるところのお奉行様は、柔軟と言えば聞こえがいいですが、かなり恣意的な判例を多く下している気がします。人情をかけてもらった方はいいのです。問題は悪役の方で、勧善懲悪のストーリーだと、悪いやつは最初から悪いと決まっているので、やっつけてサッパリすればエンターテインメントとして成立します。
それにしても、ろくな取り調べもなく、弁護士などもおらず、お白洲で「不届き千万につき、市中引き回しのうえ磔獄門」などと即断される悪役は、妻子もあるだろうし、冤罪の可能性も高かったろうな、などと思ってしまいます。ちなみにチャンバラに出てくる切られ役ですが、あれもフィクションの様式美の世界とはいえ、現実にあったらひどい話ですね。頭目から「かかれ!」とか言われて、さっさと斬られてゆく。家のローンはないだろうけれど、借金くらいあるかもしれない。残された家族はどうするのか、なんて、どうでもいいことを昔から考えてしまいます。
そういうヒネくれた発想の原点は私の場合、子どもの頃、「仮面ライダー」に出てきた「戦闘員」が正義の味方に簡単にやられちゃって、「イー」とか言いながら倒されていくのを見て、疑問を持ったあたりにあります(世代の離れた方には分からないお話ですみません)。というか、同じ頃ニュースではゲバ棒を持ったお兄さんたちが機動隊に排除されるのも映っていました。家のローンというのは、ちょうどその頃私の父が亡くなって、母が代わりにローンを返し始めたのを知っていたので、そう思ったのです。いずれにしても我ながらヒネクレた子供ですね、こうやって書いてみると。
事ほど左様に、私はイカニモな正義の味方に感情移入できないタチでした。友達と「仮面ライダーごっこ」などをする時にも、好んで悪役になって、最後はかっこよく倒される、砂場での「爆発の仕方」(怪人はなぜか、倒されると必ず爆発するのです)に凝ったりしました。ただ、小学校低学年以来どうも「カッコよく退治されてしまう」側の「その後」みたいなものが気になってしかたがないのです。その延長で今に繋がっているのかもしれません。
閑話休題。ドラマはフィクションですが、いずれにせよ幕藩体制期末まで、日本の刑事法制に、今日の意味での「罪刑法定主義」があったとは考えられていません。そもそも日本では幕藩体制期と明治以後には「法学」に関して明確な断絶があります。封建時代までの「法」には、何か決定的なものが抜け落ちているのです。それは何か?
端的に言えば、それは憲法です。
●違憲の罠に無意識にはまるな
いま、刑訴法という「OS(基本ソフト)」が変わって、裁判員制度が始まる時、不用意な法律用語の使い方をして、自由や基本的人権などを干犯してしまうことが私は一番危険だと思うのです。
現実の法廷は多様な問題を取り扱います。もとから論理的に不完全な法という体系は、枝葉の法律でも思わぬところで法律同士でバッティングすることが避けられない。まして今回は刑訴法のような樹木の幹に相当するものの大幅な変更です。
だからこそ法律家が「偉い人」で上に来るのではなく、むしろ私たち普通の人間が、新しい体制をしっかり見つめてゆく「SR(社会的責任)の眼」の観点が重要と思うのです。
そういった見方のひとつの原点はフランス革命を思想的に支えた18世紀イタリアの法学者チェザーレ・ベッカリーアにあるようです。そこでもう少し、その源流にさかのぼって、素人の目で具体的に確認してみたいと思います。
(つづく)
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[伊東 乾の「常識の源流探訪」]
法を免疫不全に陥らせるな! (3月19日)
法律家の常識が通用しなくなる日 (3月10日)
勧善懲悪の思考停止に陥るな (3月4日)
時津風部屋に見る「局所最適・全体崩壊」2 (2月26日)
力士の責任はどこまで問えるか? (2月21日)
「負け組」の拡大再生産を防げ! (2月13日)
意識の死角はいつ生まれるか? (2月8日)
本物のリーダーはいつも笑いを絶やさない (1月29日)
著者からのコメント (1月23日)
笑いは人間性のバロメーターになるか? (1月23日)
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http://business.nikkeibp.co.jp/article/person/20080307/149217/
法律家の常識が通用しなくなる日
刑訴法という“OS”が裁判員制度で変わる
(CSR解体新書32)
2008年3月10日 月曜日 伊東 乾
相撲協会 時津風部屋 社会的責任 刑訴法
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既にご存じの方が多いと思いますが、3月6日、日本相撲協会は大阪市浪速区の大阪府立体育会館で臨時理事会を開き、時津風部屋の力士急死事件で先月29日に傷害致死罪で起訴された兄弟子の3力士について、裁判で有罪が確定すれば解雇するが、それまでは出場停止とすることを決めました。
理事会では北の湖理事長(元横綱)が事の重大さを再認識して3力士の解雇を主張したようですが、他の理事が「師弟関係にあり、昨年10月に解雇された元時津風親方の山本順一被告(58)と同じ処分」を下すことに異議を唱えて、処分が先送りされた格好になったようです。
「裁判で有罪が確定すれば解雇」ということは、1審判決を不服として力士たちが上告すれば、数年間にわたって相撲協会は起訴された力士たちを出場停止扱いとし続けるということになるでしょう。この間日本相撲協会は、被告たちを協会の一員として、共に責任を問われながら、被告席側から法廷に立つことになります。
私のささやかなコラムを関係者が目にされたかは定かでありませんが、NBオンラインは1日に100万前後のアクセスがあり、このサイトも毎週数十万のアクセスを頂いているということで、ご遺族の思いと、日本にとってプラスになる方向に沿わせていただければと考えました。
今回の記事は2〜3週の分載で準備していたわけですが、図らずもオンエアの最中に起訴と相撲協会決定が挟まる形になりました。微妙な時期の記事掲載を決断してくださったNBオンライン編集部、川嶋諭編集長のご英断に、改めて心から感謝したいと思います。
●相撲協会正常化のカギは法律ではなく「SR」
今回の事件が発覚したのは、被害者のご遺族の思いと賢明な行動があってのことですが、問題の本質的な解明や、相撲協会の体質改善、再発防止の定着には時間がかかります。
裁判には一定以上の長い時間が必要ですが、角界の本質的改善は、単に判決を受け身で待つというだけではなく、その間の長い時間、社会が法律と別の形で、相撲協会の挙動に注目し続けてゆくことが必要だと思います。
その間、協会は力士や部屋に給料等を支払い続けるのか? というご指摘もありましたが、私選弁護人の費用などを考えるだけでも、起訴3力士のご家族の負担はただ事ではないはずです。とても幕下や序二段の力士の給金だけで足りるとは思えませんし、お金だけで済む問題でもありません。
協会が、相撲界の内部で起きた刑事事件を、被告側の立場から考える期間を持つという意味でも、今回の「罪が確定するまでは出場停止」という判断は「普通」の判断で、これが角界正常化につながるものになってほしいと思います。くれぐれも「協会は処分しないが無言の圧力で自主廃業を強要」といったことがないように、社会的責任=SRの目を光らせておくのが大切ではないでしょうか。
SRの目、それは「社会の圧力」ではありません。むろん「ヒステリックな糾弾」などになってもいけない。そこで問われるのは、あえて言うなら「民度」の高さ、それが簡単に「衆愚」に流れるのは、ギリシャ=ローマの昔から、歴史が多くを教える通りです。
この「市民社会の見識」こそ、このコラムの現在のテーマSR=社会的責任そのものにほかなりません。
●今専門知識を持たない人の「見識」が問われる
マスコミの報道やイメージで日本人が大きく振れやすいのは、首長選挙などでタレント候補が圧勝するのを見ても、私たちの社会の一面を示していると思います。選ばれたタレント候補が行政の長として、よい仕事をし続けてゆくか、それをチェックし続けるのもまたSRの目。不慣れな知事さんの一挙手一投足をあげつらうのも考えものですが、当選すれば公約無視、といった事態は避けるべきでしょう。
「社会の木鐸」という古い言葉がありますが、報道機関がそういう役割を果たすには、マスコミもさりながら、情報の受け手である私たち市民の姿勢も、大きく問われることになります。「マルチ商法詐欺」「ネットいじめ」「大相撲」今まで取り上げてきた、一見無関係に思われるかもしれないトピックは、トピックそのものというより、それに対する市民の向き合い方を考える「(C)SR」の観点で、一貫した背景を持っています。この連載を通じて、とりわけ読者の皆さんからのリアクションから、市民の「見識」への希望を与えていただいています。
先々週(第30回)の冒頭に記したように、私はこの記事を「法律の素人」として、普通の一般市民として書くようにしました。例えば法律用語を厳密な使用にとどめませんでしたし、法廷であるような整理もしませんでした。でも大半の読者から、賛否両論含め、建設的で見識あるご議論を頂けた、それを大変ありがたいと思いました。
逆に起訴前(連載継続中に起訴)という事件でしたので、広く報道されている話題であっても「根性焼き(タバコの火を皮膚に押し付けるイジメ)」「前の夜に親方がビール瓶で頭を強打」といった話は一切避け、被害者が急死した当日の「かわいがり」の関連だけに限局して、跡付けが現実的に可能な内容のみを記すようにしました。
ちなみに、頭からぶつかってゆく「ぶつかりげいこ」の当事者の脳機能測定は無理だと思いますが、ボクシングのスパーリングを受ける、程度のことであれば、現在のヘッドセットで十分にデータを取ることができるので、それを前提に議論を準備してみました。あえて「法律の素人」として、こういう議論を準備したのには、実は背景があります。
実は、裁判員制度の導入初期には、専門知識を持たない市民の「見識」が一番問われます。そこで「専門家」が啓蒙(無知蒙昧を啓く)の姿勢で「上から」ものを言うのを容認すると、全体がとてもおかしなことになってしまう。それについて具体的に触れたいと思うのです。
●「素人」としての判断が求められる「社会的責任」
昨年私は刑法の團藤重光先生のお話を伺って『反骨のコツ』という新書を上梓したのですが、朝日新聞がこの本を出すに当たって、原稿は3人の専門家、法曹に入念にチェックしてもらいました。
お名前は出さない約束ですが、現役の裁判官も含まれています。碩学のお話ですが談話のテープ起こしが元ですから、ミスがあってはいけません。詳細な指摘の中で、私の質問や発言に含まれる、素人らしい間違いや勘違いもたくさん指摘してもらいました。それを受けて、編集部と相談のうえ、私はそれらの大半を残すという判断をしました。
なぜ誤ったものを残すのか? 手抜きか? 本のクオリティーを下げたいのか? そうではありません。もし私が、自分がナイーブに考えたことを、出版前の専門家のチェックでそこだけチャッカリ直して、いい子ちゃんになったとしても、本を手にされる、圧倒的に多くの「法律に不慣れな一般市民・読者」と、距離ができてしまうだけだから、明らかな「誤り」は修正しましたが、素人が陥りやすいとされる、素朴な考え方、感じ方は、基本的に全部残すようにしたのです。
それは團藤先生からもお勧めがあってのことで、下手に法学に慣れてしまうと、手続き論の表層に流れて、その法の背景にある設置意図や、もっと大切なことが分からなくなってしまう、それではこの本の意味は半減するからとお許しを頂いて「碩学と、法律はよく分からない素人による対話篇」として編みました。実は歴史を振り返れば、プラトンの対話篇もガリレオの「新天文対話」なども、みんなそのようにできています。
團藤先生は「死刑廃止論」で有名ですが、私は必ずしも廃止論の立場でお話を伺っていないし、「裁判員制度」についても、是々非々の形になっています。團藤先生のお名前に惹かれて本を買ったが、要らない伊東の長広舌で最悪、なんてブログ評も出ていますが、それはこんな背景で、確信犯でやっていることなのです。
大体、変な話ですが、東大という所に勤務して分かったことは、世の中の人は東大の教員が「ミスを犯す」というのを大変好みますね。私は自分の狭い専門以外は、ただの中年に過ぎません。私も「曲がりなり」ですが東大教員ですので、法律に明るくない普通の市民として発言すれば、専門家からサンドバッグ代わりに叩かれることが期待できます。そういうスケープゴートが必要なのです。ズブの法律の素人の大学教員が、「上からの目線」の法曹に叩かれる。そういった情報が、インターネット上のあちこちに存在するようになれば、今後「市民裁判員」になる多くの「普通の人」が、法律家とどう対峙してゆけばよいかの参考になる、シミュレーションの役にも立つでしょう。私ひとりが紙の上の「よい子」で事なきを得るより、はるかに気が利いています。じっさい裁判員の話題は、全国民に注目してもらうべきことですから、今後も私は、積極的に「一素人、社会の普通の人間」として、この問題を考えてゆきたいと思っています。
今回も、そういう照準の記事で、多くの方に本当に真摯なご議論を頂くことができた、そのこと自体が大変ありがたいと思うのです。何事も、通気のよい明るみに出して、変な権威主義や、隠蔽体質で事を損ねないのが大事だと思います。「素人」としての判断が求められるのが、今実施が準備されている「裁判員制度」です。素人だからといって萎縮してはいけないし、また法曹が専門家然として、権威主義的に対応することは、社会的責任上むしろ禁止されるべきことだと思うのです。
●専門家を偉い人と崇め奉ってはいけない
「裁判員制度」に関しては、親しい友達の法曹三者たちに言わせると「正直なところ、本当にどうなってゆくかは分かんないんだよね」というのがホンネのようです。「それをどうやって確立してゆくかが、初期の最大課題」という認識で、ほぼ一致していると思います(そういう書き込みも頂きました)。
ここで私たち「市民」が留意すべき点の1つは、専門家を偉い人と崇め奉ってはいけない、ということだと思います。逆に言うと「専門家」は「素人」を下に見たがる傾向が強い。「反骨のコツ」への反響を見ても、良心的な普通の人が、あれこれ考えさせられた、とコメントしてくれるのに対して、法律家と思しい匿名子からは「**も知らない」「**も理解していない」「初歩的なレベルに達していない」「低い」と、アタマから価値を否定したがる傾向が見られます。
いずれにしても議論を誘発して本は普及したようですから、狙いは当たったわけですが、この「専門家が上から断ずる」状況を許してしまうと、裁判員制度が「初期に確立すべき課題」は、すべてお流れになってしまうでしょう。だから専門家が無知蒙昧を啓(ひら)くという「上からの態度」で臨むことは、裁判員を迎える法廷では、厳密に戒めなければならないと思うのです。
●「新刑事訴訟法」としての裁判員制度
法に明るくない普通の市民、おじさんやおばちゃんが法廷に行く。そこで「普通の」(これが難しいわけですが)正義感と、きちんとした自分の考え(これも難しい)をもって、是々非々を問う。
これに「あなたは素人だから、レベルが低い」と法曹が返してしまったら、この制度はおしまいになる。こう書けば、ハッキリしていることですが、現実に専門用語が飛び交ったりすると、素人はよく分からなくなってしまうし、特に新しい制度では、被害者家族が尋問や求刑ができるようになります。
時津風部屋事件に限らず、被害者家族は大変な心痛を負っておられる。その心理状態のまま法廷での発言があれば、弁護側はモノが言えなくなるし、市民裁判員も明らかに情動を動かされます。懸念されているのは、被害者の身に起きたことは間違いなく悲劇だけれども、今被告席に立たされている人間が、その責めをすべて負うべき人であるかは、全く保証の限りではないこと、だから「冤罪」が懸念されるわけです。
時津風部屋事件の被害者のお父さん、斉藤正人さんのご見識が「裁判員制度を考えるうえで、大変貴重だ」と記した背景もここにあります。ギャップを感じられた方もあるようですが、今後「第2の検察」として尋問や求刑を行うという被害者家族にこそ、最も慎重な判断が求められるのが裁判員制度=刑事訴訟法の改定、実質的には「新刑事訴訟法」の導入なのです。これが念頭にあったので、今後の日本社会全体が手本とすべきご姿勢に、とりわけ頭が下がると思ったわけです。
●刑訴法というOSが変わる
新しい「裁判員制度」は、単に「裁判員というものができた」というようなものではなく「従来の刑事訴訟法の枠組みが完全に通用しない」「前代未聞の状況で、本当は法律家も一から考え直さなければならない」状況になっている。官のサイドの専門家からもそのように聞いていますし、死刑廃止運動で知られる安田好弘弁護士に至っては「刑事司法の崩壊」とまで表現している。表現の当否はおくとして、いずれにせよ、昭和23年7月10日法律第131号として定められ、60年にわたって使われてきた土台が、実は根底から組み替えられつつという事実は間違いないようです。これを単に「刑事裁判には裁判員という要素が新たに導入されるらしい」と矮小化して捉えると、より深い問題がまったく見えなくなってしまう。これは大きな問題です。
具体的に言えば、今まで使っていた言葉が、そのままの意味では通用しなくなってしまう。この問題をもっと、広く社会が、とりわけ法律の素人である普通の人たちが、理解して議論する必要があると認識するようになりました。
これはコンピューターのソフトで考えれば分かりやすい。OS(基本ソフト)が変わるとソフトもバージョンアップしないと、使い物になりません。これと同じように、「裁判員制度」が導入される=刑事訴訟法(刑訴法)という土台が変わると、今まで長年、法律家が使ってきた慣れ親しんだ言葉の意味や定義が変わってしまう。というより、そのままの定義でパターンを踏襲して安心していると、使い物にならなくなる「バグ」(プログラミング不良、欠陥、元来は「害虫 bug」の意から)が出来てしまうことが問題なのです。
そうなると「法律家の常識が通用しなくなる日」が必ずやってきます。戦前の法律家は、憲法から変わってしまった戦後の法制度の下で、国民のコンセンサスも得ながら、一から実務を立ち上げてきた、そこでパターンとして確立されてしまったものが、現在の司法試験の問題や法律塾、法科大学院などで主に講じられている。
いわば旧OS用のバージョンで洗練されているものを金科玉条と思っていると、OSが変わった時、対応ができなくなってしまう危険性がある。そのことを、欽定憲法下を知り、新刑訴法試行の当初から知っている世代の方は憂慮しておられます。その典型的な例として、この連載でも今まで2回使い、その都度必ずリアクションがあった「罪刑法定主義」を具体的に取り上げて、再検討してみたいと思います。
(つづく)
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