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私は1924年、大正13年の生まれでございます。小学校で満州事変がおこり、中学で日中戦争、高校で太平洋戦争が始まっていました。私の思想形成期は100%戦時中でした。福沢諭吉の言い方を借りると、1世にして2世を生きた男です。22年間は大日本帝国憲法のもとで、60年は日本国憲法下で生きてきた男でございます。私は、正真正銘の戦中派なんです。
実は私はご紹介にあったとおり、旧制の高等学校の2年生のときに召集で軍隊にとられて参戦しました。思想形成期を迎えておったときに戦争に行ったわけです。しかし、いわゆる軍国少年で行ったわけではありません。この戦争は正しいのか、国家の起こしたこの戦争は果たして正しいのか…その思いは、戦争中も私の頭から去らなかった問いでした。
当時の旧制高校は、いまの高校とはかなり違いました。私は旧制第三高等学校(注・いまの京都大学)、「紅萌ゆる…」という校歌です。私も人並みに勉強して高校に入ったわけですが、入って驚いたのは、受験勉強なんて、勉強というのが間違いだな、と分かったのです。しかも後2年間しか生きられないという覚悟で皆入っていた。先生方もそれを認めていた。例えば「あの学生は俺の授業には出てこないけれど、あの男は何かを読み終えて死にたいのだろう、自由にさせておいてやろう」それが先生の風格でした。
2年生になって、どの授業も、先生が必ずと言っていいくらい、授業が終わると生徒に頭を下げるのです。クラスの中に、これが最後の授業で入隊するという学生が居る。「最後に俺の授業に出てくれた、ありがとう」と。確かに次から次へ召集を受けて、毎日生徒を送らねばならないという日々でした。
自分のことを考えても、死ぬまであと2年の間に、カントの『実践理性批判』だけはドイツ語で読んで死にたいというのが私の希望でした。すると先生が、「とにかく2ヵ月でドイツ文法は全部教えてやる。夏休みからその本を読め、難しいがその気になれば読める」と教えてくださった。その方が岩波文庫で訳しておられたのですね。どう考えても分からないと申し上げると、「そこは俺もわからなかった、君に見破られた」といわれたこともありました。
三好達治*という詩人がいますが、学生が、自分はどうしてもあの人の講義を聞きたいというと、田辺元(*哲学者)、湯川秀樹(*物理学者)などの講座のなかに、三好達治を福井の田舎から学校がお呼びしたのですね。私は、三好の講座をまざまざと覚えています。5日間の最後の授業が終わった後、先生はうずくまって大声で泣かれた。「お前たち若い者を死なせて、俺はノウノウと詩をつくっている」と泣かれた。生徒が「分かりました」といって肩を抱いても、泣いて立ち去らなかったのです。
さて、私は、鳥取の連帯に入隊しました。入隊時に一大ショックを受けました。私たち現役兵は甲種合格で入隊したばかりです。その100人の男を並べて、連隊長が非常呼集をかけまして連隊の全員を集め演説をしたのです。「お前達はこの前に並んでいる男達の顔を良く見ておけ。この男達は死にに行くのだ、お前らがこの男たちを殴ったり蹴ったりしたら、その者を俺は切る」と言ったのです。軍隊の中ですから、戦死も当たり前ですが、それでも「死にに行く男たちだ」といわれたときは、度肝を抜かれました。
その通り、私たちは2週間だけその連隊におり、戦地に送られたわけです。私は中国の黄河の南、洛陽を中心として戦線に参加し、迫撃戦を闘いました。体に12発の手榴弾を持って戦ったことも、迫撃砲の直撃を食らって気を失ったこともあり、まだその破片が足に残っております。
皆さんは、「戦争を体験した人は、苛烈で過酷な戦闘を皆同じように経験し、戦争の認識をしているのではないか」とお考えでしょうが、全く違うのです。戦争体験ほど大きく違うものはないのです。
ふつう、こういった戦争体験話はやりません、やれないんです。南太平洋のニューギニア、レイテ、インパールなどで戦った方の前では、私の中国戦線での話など語れません。あの方達は、戦死と言っても7割は餓死しておられる。食料を見つける気力も体力もなくなって、「俺を放って行ってくれ」という死に方をした。別れた日が戦死した日とされているのです。中国の体験などおこがましくて話せないのです。
もう一つの戦線、硫黄島やサイパン島などで戦われた方は、玉砕以外になかった。米軍に勝つことは、もう考えられない。いかに玉砕するかという状況だったのです。
実際に、体験はどうであったかですが、オーラルヒストリーとして、戦闘体験記を克明に残してはいますが、実は、オーラルヒストリーは難しいのです。「なぜ、あなただけ助かったの?」の一言で、60何年前のトラウマがよみがえってくるからです。
私にもそういった思いがあります。戦場で隣の兵隊が倒れた、「なぜ助けてやらなかったのだ」と思うのですね。復員してご家族の前に挨拶にいったのですが、顔を上げることすらできなかったのです。それは傷を掻きむしることになるわけです。東京大学の御厨さん*にも言っています。記録を残さなくてはならないという義務感がある、しかしそれがいかに難しい仕事かを分かった上でしていただきたいと申しあげています。私自身、戦場の経験をお話していますが、なかなかできないことの一つなんです。
私の戦場は中国でした。景色、山、川、谷川、日本と同じような景色が私たちの戦場でした。部落に取り残された若い婦人と子どもたちの顔つきも、日本人と同じです。そういう意味で、人間として接することが可能でした。洛陽から西安というのは三国志の舞台だったのです。恵まれた戦場だったと思っております。漢詩の風景に毎日接しているような感じでした。
そういう形で戦闘部隊としてやっていたのですが、皆さんはご存じないことだと思うのですが、中国には100万の日本軍が展開していましたが、戦闘部隊は10万もいなかった。つまり90万は占領部隊でした。北京、上海、南京、に占領軍として赴任していて行政もやっていたわけです。よほど大きな戦闘をやるときに、占領軍から戦闘軍に変わった場合もあるが、区別されていました。北京の総司令部勤務は食糧難も空襲もなかった。
つまり、戦争は兵隊の目で見るのか、司令部の将校の目で見るのかで、ぜんぜん違うのです。戦争をどちらの目で見るかは、決して小さな問題ではありません。戦争は戦っている前線の兵隊の目で見てほしい。司令部の目では決して見てほしくないのです。
さて、日本の内地では8月15日は終戦の日ですが、中国では11月まで戦闘状態にありました。国共内戦といわれる国府軍と中共軍の戦闘に巻き込まれていました。日本軍が武装解除すれば、そこが空白遅滞になるので、国府軍は武装解除させなかったのです。映画『蟻の兵隊』*は、山西省の軍隊の話です。
私は河南省、隣の出来事ですが、武装解除は11月で、それまでは何の区別もありませんでした。私の軍の隊長は、稀に見る識見と人格者で、終戦以後は一度も戦闘をしていません。終戦と知るや、弾薬を兵士に支給され、「全弾打ち尽くせ、一発も弾を残すな」と指導されました。蒋介石の軍も共産軍も、その凄まじい発砲を見て、こんなすごい日本軍に攻撃をかければ、どんな被害が出るか分からん、ということで、いっさい攻撃されなかったのです。この方は帰国して大会社の社長になられた方です。8月15日以降の戦闘はやらせる中国側にも問題があると、一切しなかった。
しかし中国全土では、15日以降も、日本軍は5000名の戦死者を出している。国際法上では戦死ではないわけなので、6,7月に亡くなったとして靖国神社に祭っているわけです。唐家璇*・国務委員という外交を扱っている中国人は良く知っていて、「あれは国府軍に使われて共産軍の戦闘で死んだ人でしょう、その方々も靖国に入っているのですね」といわれました。
戦後、日本軍は11月に武装解除されて、大きな捕虜収容所を中国が作られ、日本の将兵は全部そこに収容されていました。そこで皆さんにお話しておきたいのは、収容所に数千人の日本人がおり、軍隊内の争いが起こったことです。
参謀本部、陸軍総司令部などの将校を中心に、日本政府の敗戦の責を問うて弾劾する署名運動が始まったのです。指を切ってその血で書く血書を、各隊に回って集めた。ところが私たちの戦闘部隊を中心に兵隊達から反対運動が起こりました。「将校達は何を考えているんだ。300万の兵隊を殺し、2000万の中国人を殺して、アジアでどうやって生きていくんだ。」日本政府への弾劾文に戦闘部隊は「何を言うか。終戦で結構じゃないか、二度と戦争をしない国にして見せるというのが俺達のできることじゃないか」と。そして血の雨が降りました。弾劾文がどう使われたか知らないのですが、実際に戦った戦闘部隊は1名もそれに応じなかったのです。
1年後、山陰の引き揚げ港、仙崎(山口県長門市)に帰りつきました。私たちの部隊は中国地方出身者ですから、東北や九州など、もっと遠くに帰る人を先に下船させました。山陰部隊は2日間、港に停泊していたのです。
その時に新聞が配られた。「日本国憲法草案が発表された。よく読んで国に帰れ」という趣旨だったのですね。今の前文も九条もそのまま書かれていた。それを読んで泣かなかった兵隊はいなかったのです。「自分たちは戦争をしない、それで生きていくしかないと思っていた。それを憲法にまで書いてくれたか、これなら死んだ戦友の霊も弔える、われらも確固たる生き方をして見せられる。戦争放棄、<国の交戦権を認めない>まで書いてくれた」と。これは人生に片時も忘れられないことです。まさに復員船の中、全員がそれを読んで泣いた事実を忘れられません。私の憲法への思いの原点はここにあるのです。
もうひとつ、私が戦争に行ったのは、ちょうど思想形成期で哲学を必死に勉強していたときでした。それが戦争を経験して、なんて俺は馬鹿だったんだと気づいたのです。「戦時下をいかに生きるか」を考えていたが、問題の出し方を間違えていた。戦争は天災ではない、人間が起こすのだ、人間が止めることもできるのだ、なぜそれに気がつかなかったのか、と。
戦争は天災ではございません。「戦争を起こすのも人間、戦争を許さず、止める努力ができるのも人間、あなたは、どちらなのか」、それが本当の問いなんです。それ以降、これが私自身の座標軸になっています。私は小学校から戦時中でしたから、いま申し上げた捉え方をしろというのが無理だったのですね。しかし、今なら皆さんにそう思っていただける。「私は戦争を起こす側か? 止める側か?」、どっちなのかを、いまなら問える、訴える機会なのです。本当に戦争になってしまえば、北朝鮮が悪い、台湾のせいだ、という形になってしまうのです。いまこの年で、私はぜひ訴えなければならない、今だからこそ、皆さんに分かっていただけるのではないか、それを訴えているのです。
さて私は、経済人として戦後を送ってきました。今、よく似た現象が起こっているのです。戦争という言葉を、市場、マーケットと置き換えていただきたい。教育・環境・福祉・農業、これらは人間の努力なのです。これを市場に置き換える形にまかせる市場原理主義を、私は許せない。戦争は人が起こす、これと同じ市場原理主義には、経済界に身をおきながら、私は真っ向から反対しています。人間の努力の先頭に立つのが政治ではないか、何を間違えているのか。
いずれにせよ日本国憲法をそういう形で我々は迎えた。押しつけられた憲法というのが改憲理由だ、とよく言われますが、国民は歓呼で迎えた憲法であり、押し付けられたのではないのです。押し付けられたという人は、帝国憲法で政治をやり、利を得た人たちです。戦前も戦後もその立場で政治をやりたい人たちです。日本国民は、新たな憲法を歓呼で迎えたのであります。
一つ、難しい問題があります。九条二項、日本の支配政党は立党の段階から、この国民の思いと、考えを共にしていないというよじれがあります。しかし日本の支配政党は、国民が必死で守っている憲法を変えることができない。このよじれが60年続いているのです。そこで、憲法は変えないけれども、憲法の範囲でここまでなら許されると自衛隊をつくり、有事立法をし、米軍とのガイダンスを作り、とうとう自衛隊のイラク派遣をしました。
九条の旗は、もうボロボロです。しかし旗ざおを国民が握って放さない、これを5年以内にもぎ取ってみせようとしたのが安倍内閣だったのです。旗はボロボロ、しかし旗ざおは国民の手の中にあり、あくまで放すことがない。これが九条二項に関する私の心情です。
もう一つ、難しい問題があります。「正規の戦争も認めない」という戦争放棄、二度と戦争をしないという理念です。その基本的理念を持つ国は、現実の国家の憲法ではコスタリカを除いて、日本のような憲法を持つ国家はないのです。軍産複合体が国家を支えている国は、軍隊放棄を謳えないのです。日本が九条の旗ざおを放せば、この戦争放棄の理念は、地球上から消えてしまいます。
戦争放棄は、21世紀の宝物のような理念です。これは他の国が真似できるかというと、どう考えても難しい。中国を考えると、抗日戦争を戦い抜いて勝利を得たのが政権の基盤です。フランスもドゴール以下のレジスタンス闘争が国家の誇りになっている。それらの国が、「正規の戦争はない」という日本の基本理念はなかなか持てないでしょう。しかし国際平和からは、この戦争放棄の理念は必要な理念なのです。国際平和のために九条の旗ざおは絶対に放さない、という気持ちを、皆さんに持っていただきたい。
ここまでは私の戦争体験から出た憲法理念を申し上げています。
私は一人息子と嫁をなくし、孫娘を小学校から育ててきました。いま大学の娘に、自分の戦争体験だけでなく、戦争とはこういうものだという指標を話しています。
1) 戦争は、「勝つために」が全ての価値に優先してしまう。最も大切な命や人間としての価値観、自由や人権も「勝つために」でないがしろにされ、価値が反転してしまう。命をも犠牲にして勝つというのが戦争で、価値観を転倒させてしまう。
2) 戦争は、全てを「動員」する。学問、精神も動員する、それに耐えられるか? そういうと、学問を始めようとしている娘はぎょっとします。日本史は神国日本に置き換えられ、ゲーテ、カントという見事な哲学を生んだドイツ人が、戦争中にはホロコーストを起こした。精神動員の恐ろしさは極まりないのです。
3)戦争は、戦争指導者が全ての「国家権力を握る」。国のあり方は、司法、行政、立法の三権分立が基本です。しかしこれも、戦争を指導する立場の人が権力の中枢に座る。これが戦争です。
なんとか普遍的に理論的に戦争をどういうものかを、話したいと思っているのです。
もう一つの非常に大切な話をします。
「アメリカは今、戦争をしている国だ」ということをハッキリ自覚しないと、日本の針路を考える上で間違ってしまいます。アメリカは全てを動員しているのです。あれだけ世界の金融を動員しているのですから、全てを動員しようとしている国だということは間違いがないのです。
私が危惧せざるを得ないのは、日本とアメリカは価値観を共有していると、日本の政治指導者、とくに小泉以来の支配階級ばかりか、マスコミまでがそう思っていることです。世界でたった一つ原爆を落とされた日本、落としたアメリカ、それが戦争の価値観を共有しているという立場で指導しようとしている。そんなことを、沖縄の人に言えますか? 広島、長崎の人に言えるでしょうか? そんなことでは、世界史の解釈はできなくなります。
日米は価値観が違うということを、日本の指導者は、なぜアメリカにハッキリ言えないのか? マスコミも、日米が価値観を共有しているという立場からしか解説しない。だから曲がり曲がった理論しか出てこないのです。
市場主義が現在の経済の基本に座ってしまっている。小泉さんは信念の強い人ですが哲学はゼロです。政治は歴代総理の中でカンはよく働く。しかし政策はゼロです。郵政改革は政治であって、政策でもなんでもない。あれは、郵政族をどこまで追い込めるかという政治をやったのです。それを政策として考えた竹中は、アメリカのネオコンに近いフリードマン*の弟子です。彼は本気で市場競争原理主義をやろうとしたのです。
戦後、経済成長の果実は国民で分けるのが、日本の資本主義でした。儲けが出れば資本家のものだ、というのがアメリカの資本主義です。日本は経済の成長は国民で分けてきました。産業間格差は極力なくしていく、都市と農村もなくしていく、これが日本の資本主義だったのです。もしこの日本的資本主義が間違っていれば、日本が世界2位の経済大国になれるはずがなかったのです。
この日本の資本主義を、なぜアメリカ型でなければ正常な資本主義でないというのか、竹中さんのいう資本主義は、私には分かりません。なぜ儲けが資本家だけのものなのか。私は経営者でしたが、資本家のためだけに経営をしているなんて気持ちはなかったですね。保険会社でしたが、社員を思い、代理店を思う。そうでないと勤まらない。アメリカのように、社長が社員の給料の1000倍も取るなんてことは考えもしなかった。せいぜい社員の12倍が限度でした。アメリカの資本主義は、ごく一部の人が何10億もとる。社員の給料を減らし、リストラで追い込んで、自分の給料を取るのです。
市場原理主義の導入で、たった数年のあいだに日本の社会はめちゃめちゃになりました。正規社員は6割になってしまい、完全に壊されてしまいました。何をするつもりなのか? 教育・医療・環境・福祉は、人間の努力がそれを支えているのです。その気持ちをなくして、市場が支えているというのは、私はまったく賛成できません。しかも市場という、それはいったい何なのか。日本はマーケティングを良く知って、貿易立国として生きてきたのです。
いまの資本主義とは何か。現実に動いているお金は市場の金の数十分の一です。市場の金が商品として出回ってしまった。レバレッジ(信用取引や金融派生商品、外国為替証拠金取引などの他人資本導入)、デリバティブ(金融派生商品)の手法を使って、現実のお金の何十倍を動かしているのです。本来アメリカは金を借りているのですよ。一番借りている先は中国、次は日本から借りています。ところがアメリカは、ドルは自分のものという意識で、国際経済全体を動員するシステムを作り上げてしまった。グローバリズムは、経済用語ではない。アメリカの戦略用語です。それをグローバリズムがこうだから、という形で理屈を説こうとしているのです。
規制緩和、これもよく使われている言葉です。小泉が「改革なければ成長なし」と言ったが、あの規制緩和は大企業のための規制緩和でしかないのです。中小企業や地方の企業はやっていけるわけがない。新聞を読むとき、規制緩和という言葉が出たとき、「誰のための」という言葉を思ってほしいのです。権力からの自由はもうない、大企業だけの権力への自由=規制緩和となってしまったのです。
大きな政府から小さな政府へ、官から民へと言いますが、日本は大きな政府なんてことは全然ない。地方公務員は最低数です。対GNP比は、福祉・教育はアメリカと最低を争っています。どこにも大きな政府といわれるようなことはしていないのです。日本の外交体制(外交官数約5,000人)をイタリア並みにするなら後1000人の外交官が必要で、フランス並みなら倍の人数にしなくてはならないのです。大きな政府だというなら、比べものにならないほど大きいのが政府の借金です。国債の額は大きい。ついこの間まで、日本はアメリカの財政赤字を嘲笑していたのです。「アメリカは、なぜこんなに国債を発行しているのか?」と。
ここで考えてほしいのは「誰のために」「誰から」借りているのか、です。バブルが壊れたときに、企業を救済するために国民からお金を借りたのです。国民の家計簿からお金を出させようとしたが、なかなか出さないので、国債を発行したのです。GNPを1%あげるために100兆も遣った国はどこにもない。これを企業の救済に使ったのです。国債を直接買っていない人でも、銀行や郵便局に預金をしている人は、その銀行や郵貯が国債を持っているのです。韓国や中国からは借りてはいない。つまり国民から借りているのです。
支配階層は、国民のものは俺のものと思っているのではないか。今、企業は最高の収益を上げています。救済された企業は、その金を返すのが当たり前ではないでしょうか。
ところが「法人税、累進税を下げてくれ」と言っているのです。それを下げれば、また国民の金を使わざるを得ない。それで年金を減らす、健保を上げる、消費税を上げようとしているのです。
つまり企業からは返させないで、個人の家計部門から出させようとしている。そして、それが分かるとまずいので、国民の目をそらすために敵を作ったのですね。それが公務員です。日本的修正資本主義を推進してきたのが公務員です。その人たちの給料を5%減らしたって財政には毛ほどの影響もないですよ。ところが国民の目をそらすのには使える。 こういう形で日本の政治が行われているのです。
憲法9条はアメリカの世界戦略をも変える
なぜ、日本とアメリカの価値観、資本主義が違うということを、日本の政治家や経済人は、アメリカに対して言い切れないのか? それはなぜか?
外交官の現役やOBにその話をしたことがあります。そして「外交の力で、日本はこうしますということを、アメリカに言えるか」と確認したのです。すると、もと駐米大使をした人が、ハッキリ言ったのです。「それは無理なんだ」と。「しかしできることが一つある。できる人は一人いる。それは国民だけだ。国民が憲法改悪にノーを言い切れば、いまおっしゃった問題は全部消えます。国民の出番なんです。もう私たちの力は及びません。しかし国民が、国民投票で改憲にノーを出せば、日本の政治のあり方、経済のあり方、アジアでの立場、アメリカの世界戦略、全部変えざるを得ないんです。世界経済第2位の国が、『世界に敵はいない、日本は戦争はしない』と、国民投票の形でハッキリ言えば世界は変わります」と、彼は涙を浮かべて言いました。そして現役の外交官からは拍手が起こったのです。
これこそ日本国民の出番、世界史が変わるのです。ベルリンの壁どころでない。アメリカは世界戦略を変えざるを得なくなります。
アメリカと喧嘩をするのではない。「日本とアメリカは違う」と言うだけです。そういう時期に日本国民は遭遇したのです。これだけ大きな世界史の変化に立ち会うことができるというのは、生きていて本当によかったと思っています。今訴えない限り「戦争を起こすのは人間だ、止めるのも人間だ」と言わなくてはならない。
経済も人間の努力、「人間のための経済」であって、「経済のために人間があるのではない。利益だけ求めて動き回っている資本とは違うのだ、だからアメリカとは違います」と言わなくてはならないのです。私が言うことは、経済界では主流ではないと思われるでしょう。
しかし日本国憲法は、主権者が、あなたたち一人ひとりなんですよ。経済界はヒエラルキーが出来上がっています。トヨタ社長と販売会社では10万対1かもしれない。しかし改憲の国民投票では1対1です。九条の旗はボロボロでも、国民はその旗竿は手放さないでほしい。この憲法こそが、日本の子どもたちに残すものなのです。(文責・珠)
薔薇、または陽だまりの猫 戦争、人間、そして憲法九条/経済同友会終身幹事・品川正治
http://blog.goo.ne.jp/harumi-s_2005/e/5b9861f9d9352f3542d4b5314deb8677