★阿修羅♪ > 憲法1 > 310.html ★阿修羅♪ |
Tweet |
http://www.jca.apc.org/~kenpoweb/articles/sumino0402.html
はじめに
日本国憲法は、第96条で憲法改正の手続を定めています。これは二段構えになっています。第一段階は、衆議院、参議院それぞれの総議員の三分の二以上の賛成で「憲法改正案」を発議する。第二段階は、その改正案を国民投票にかけてその過半数の賛成を得る。こういうことを経て憲法改正の公布となります。日本国憲法を改正するためにはこの手続を経なければなりません。石原東京都知事などは、その憲法敵視観から、こういう手続を経ずに国会が日本国憲法を過半数で否決すればいい、ということまで言っていますが、これは憲法を無視していて論外です。
その改正手続についての法案を国会に提出する動きと関連することですが、現在、衆参議院の憲法調査会は発足以来5年を目途とした調査期間の最終年に入っています。それから、自民党、民主党、公明党の三政党が、ここのところ改憲の姿勢を明確にしてテンポを早めてきています。また、小泉首相自身が改憲の段取りを打ち出している。こういう動きをみると改憲問題が、今年、来年にかけて大きな焦点になろうかと思います。
実は、この96条の改正手続について、2001年11月、憲法調査推進議員連盟がその手続法案をつくっています。この議員連盟、人によっては改憲議員連盟ともいいますが、その会長が中山太郎氏で、衆院憲法調査会の会長でもあります。この改憲議連は自民党、民主党、公明党その他の議員で構成されています。
その改憲手続法案は、さきほどの96条の改正条項にみあって、まず国会の衆議院、参議院、それぞれ三分の二以上の賛成で憲法改正を発議する、それをどのような手続でおこなうのかについて定める国会法の「改正」案という法案があります。これが第一段階に対応するものです。その次に第二段階の国民投票に対応する法案として、「日本国憲法改正国民投票法案」を作っています。今年の通常国会で自民党が議員立法として提案する「国民投票法案」は、そういう改憲議連の法案などを参考にすると思われます。そこで、この改憲議連の案を基本的に対象にして考察したいと思います。
一、国民主権と憲法の制定・改正
法案の中身の問題に入る前に、まず、近代憲法と憲法改正条項のもつ意味について、お話しておきたいと思います。
近代憲法の出発点となったものには、アメリカの1788年の連邦憲法、その前の76年の独立宣言、あるいは諸州における憲法として、たとえばバージニア憲法などがあります。それを受けて1789年のフランス革命での人権宣言、そして1791年のフランス革命の最初の憲法、そういうものがあります。
近代憲法は、基本的人権の保障と国民主権、そして権力分立、さらには平和主義の保障を基本原理としています。これらが近代立憲主義の内容となっています。この基本原理と不可分なものとして、近代憲法は「硬性憲法」という性格をもつことが一般的です。つまり、普通の法律の改正、廃止の場合には議会での過半数の同意で決めますが、憲法の場合には、その改正にはもっと重い条件をつけるということです。日本国憲法ですと三分の二ですが、国によっては五分の三、四分の三などもあります。いろいろな加重要件になっています。そうした憲法を「硬性憲法」といいますが、それはまた基本的人権の保障、国民主権という基本原理を守るための手続でもあります。
日本国憲法第96条は、アメリカ諸州の憲法を継承すると同時に、20世紀に広がった直接民主主義を取り入れ、国会採決での加重要件にとどまらず、国民投票制度を義務的なものとして採用しています。それは、国民主権原理を展開したものでありますし、さらに主権論でいいますとルソー流の人民主権原理の性格をもっているといえます。
憲法制定と憲法改正の関係
ここで、憲法制定と憲法改正との関係について述べておきます。1776年のアメリカ独立宣言およびそれと結びついたアメリカ諸州の憲法、あるいは1789年からのフランス革命のなかの諸憲法で確認されてきたように、近代憲法の制定は国民ないし人民がもつ憲法制定権力の発動としてあらわれます。それを憲法の上に国民主権ないし人民主権として定めました。それと同時に、時代の必要性に対応して憲法を改正するときのために、それらの憲法では憲法改正条項を設けています。それは、立法権、あるいは議会よりも重く、その上位に位置付ける設定になっています。それを憲法学者は「組織された憲法制定権力」とよんでいます。憲法制定権力は人民自身がもつもので、それによって憲法を制定する。同時に、その憲法を改正する場合には、改正条項による。その改正条項を「組織された憲法制定権力」あるいは「設定された憲法制定権力」といっているのです。
したがって、憲法改正権の不可欠の一要素として国民投票制度があるのは、憲法制定権力の形態変化の、ないし補完的な発動として重要な意義があるといえます。その点、日本では1994年に読売新聞社が「憲法改正試案」を発表しましたが、そこでは憲法改正国民投票制度を不要としたり、あるいは任意的にするという案をうちだしています。これは、憲法制定権力者を議会の立法権者と同一視する考えであり、問題だといわざるをえません。
憲法改正の限界
もう一つ、若干理論的問題ですが、憲法改正については、形式的には全面改正とか一部改正とか、あるいはアメリカの現行憲法のように増補式という分類があります。自民党の安倍幹事長の最近の発言などをみると、全面「改正」も考えているような側面もあります。しかし、憲法改正にあたって、問題はその内容であって、憲法改正は無限界とする説と、憲法改正権に法的限界があるという説があります。日本の憲法学界では、明治憲法の改正、つまり日本国憲法の制定の際にこのことが大きく問題になりました。憲法の学説上は憲法改正権には限界がある、というのが多数です。その限界の基本原理として、国民主権と基本的人権の尊重、ということが認められています。
問題は、憲法9条を中心とする日本国憲法の平和主義原則を、その限界とすることができるかどうかということです。これを限界とする説もあります。こんにち、その限界の内容としてどこまでを設定するかということは大きな問題でありましょう。憲法改正権の限界というのは法理論上の問題で、事実問題としてはそれを無視してすすんでいくこともあります。しかし、憲法改正権の根拠である憲法の基本原理そのものを改正してしまう、なくしてしまう、あるいは侵害することは法論理的に認められることではない、というのが学説の考え方です。
二、改憲議連の国民投票手続法
国会の立法義務とは何か
つぎに、さきほど述べましたように憲法調査推進議員連盟がうちだしている二つの法案とその要綱について見てみることにします。
改憲議連は、「憲法改正国民投票法案提案理由」のなかで以下のように述べています。「憲法が、改正手続を定め、必要に応じて憲法改正が行われ、迅速に時代の変化に対応しうることを期しているにもかかわらず、その改正を実行するための立法措置を国会がとらないのは、憲法改正手続を定めた憲法第96条の趣旨から導かれる国会の立法義務に違反する『不作為』とでもいうべき状態にあると言わざるを得ない」。これを法案提出の大きな根拠にしています。
しかし、これまでそうした動きがいっさいなかったわけではありません。1952年から1956年頃にかけて、戦後第一回目の改憲の動きがありました。この時は1952年に、選挙制度調査会が内閣に「日本国憲法の改正に関する国民投票制度要綱」を答申し、それを参考に当時の自治庁が「日本国憲法改正国民投票法案」を作成したことがあります。しかし、内閣の政治的配慮によってその国会提出を見送ったという経緯があります。その後も、戦後政治のなかで改憲問題が幾たびか登場してきました。しかし、国民の批判や反対で国民投票法案の提出までいたらなかったというのがこれまでの経緯です。それを国会の怠慢というのは当っておらず、国民がその制定の必要性を認めなかったということです。
今回も自衛隊のイラク派兵ということで憲法9条の破壊行為を事実上すすめていき、その限界を突き破るものとして改憲準備が進行しているなかでのこうした法案の動きであり、その政治的意図はきわめて明白であるということができます。
なお裁判で、国の立法不作為を問題にすることがあります。たとえば、重度身体障害者が、一度は公職選挙法上認められた在宅投票制を、不正選挙に悪用されたとして国会が法制で全廃したことに対して、在宅投票制は身体障害者等にとり選挙権の行使に不可欠であり、これを廃されたことにより不合理な差別を受けたなどとして、国に国家賠償請求をした事案があります。その結果は、一審、二審では憲法論に基き請求が認められましたが、最高裁で斥けられ、最高裁対して社会的にきびしい批判がなされました。その場合には、国家賠償請求訴訟で国民が権利主張をするために、たとえば憲法に基く根拠法が不整備で、権利侵害があるときに、国の立法不作為を問題にするというものです。憲法96条については、今日、国民の憲法改正権が侵害されて、国民投票法の不存在が問題にされているのではなく、改憲勢力の国会議員が自らの動きの根拠として立法不作為論を言うのは、筋が通らないという批判が出ています。
日本国民としてみれば、こうした法案についての「不作為」を言う前に、日本国憲法の諸原則の完全実施こそ重要課題だといえます。たとえば憲法20条の政教分離の徹底化、25条にもとづく社会福祉の充実、あるいは憲法94条等にもとづく地方財政の保障など、こうした問題に取り組むことこそ国会の責任です。
改憲案の提案権と審議の定足数などの問題点
発表されている「国会法の一部を改正する法律案要綱」に立ち入ってみてみましょう。ここでは改憲案の提案権を、衆議院では議員100人以上、参議院では議員50人以上の賛同のもとに提案できるとしています。普通の議案の提出要件、あるいは予算を伴う法律案の提出よりも重くしていることに、少数意見の提案権の侵害という点ではなお検討が必要だと思いますが、問題は内閣の改憲案提出権の有無の点です。それにつき法案ですと、内閣法等の解釈・改正等にゆだねるとしています。学説は否定説も肯定説もありますが、こんにちでは否定説が重要ではないかと思います。憲法「改正」にあたっては、国民の下からの声が基本におかれるべきです。内閣ですとその姿勢、とりわけ憲法99条の憲法尊重擁護義務との関係が重要になります。他の国会議員などと違い、内閣は法の執行にあたる、しかも、憲法9条破壊の事実行為をこんにち拡大しているとき、改憲案の提案でそれらの違憲行為と結びつけ、その正当化をいっそうすすめることが危惧されるからです。
国会法の「改正」案にはいろいろな側面がありますが、改憲案の審議の定足数ということも、問題になります。日本国憲法は56条で、一般の法案の審議等をおこなう場合の定足数を各議院の総議員の三分の一としていますが、改憲案審議の場合は96条の総議員の三分の二ということがあてはまると思います。
あるいは衆議院と参議院がそれぞれ三分の二以上の賛成で改憲案を発議するということで、憲法96条は衆議院と参議院を対等に位置づけています。そして衆議院と参議院で意見が異なったときに、「法律案要綱」では両院協議会を設けるとあります。しかしこの場合、衆議院と参議院を対等にしていくという趣旨からすると、両院協議会の設置・作用はふさわしくないといえます。日本国憲法では、59条、60条、61条で衆議院が優越する関係で、両院協議会を認めています。この衆議院の優越とは違って、憲法「改正」案については、衆・参議院を対等にしています。ですから、日本国憲法上の両院協議会をそのままであってはならない、そう思います。
憲法第96条に衆議院、参議院の各議院の総議員の三分の二以上の賛成で憲法改正案を発議するとしていることの問題もあります。この総議員というのは解釈論ですと問題のあるところです。この点について、国会法「改正」案は言及していません。それは、現在の在職議員数ではなく、法定議員数、つまり法律で定められている議員数を一般に衆議院や参議院では運用の根拠にしていますが、そのことを確認する必要があると思います。在職議員を「総議員」と解するときには、すでに指摘されているように、少数派議員の除名等により、憲法「改正」案の強行可決という異常事態も想定されるからです。
大きな問題はらむ投票方式
国会法「改正」案でいちばん問題になるのは、改憲発議の方法・方式のところです。とりわけ、憲法の「改正」点が複数にわたる場合の提案方法です。第一は、各条文または各項目ごとに提案すべきか、第二に、全体をまとめて不可分一体として提案すべきか、という問題です。この点について国会法「改正」案要綱は、国会にその判断を委ねるとして、そこではふれないという書き方になっています。しかし、これは改憲についての原則問題だと言ってよいでしょう。
つまり、こんにちですと、9条とセットで「新しい人権」としての「プライバシー権」とか「環境権」とかを盛り込むかたちの「改正」論議がおこなわれています。焦点は明らかに9条の改定にありながら、国民をいかに憲法「改正」世論のなかに巻き込んでいくかという意図から、日本国憲法は「新しい人権」としての「プライバシー権」や「環境権」が書かれていない、だから不便をきたしている、というのです。しかし、これら「新しい権利」は立法で十分に対応できることです。判例でもそのための努力をしてきました。改憲勢力がいちばんプライバシーの保護に消極的であったり、反対であったり、あるいは国民の知る権利を法律の上に盛り込もうとする時にはいつも反対してきました。そういうことから、いかに「新しい人権」と抱き合わせにして憲法9条の「改正」をしたいかという、そういう意図を感じざるをえません。
しかし、一括して改憲条項についての賛否を問うか、あるいは各項目ないし各条文ごとに提案するかということは、国会側の政治的判断に委ねられてはならないことであり、主権者たる国民が改憲条項について自らの意思を表示できるかどうかの原則問題だと思います。このことは、「憲法改正国民投票法案」でも明記されるべきことだと考えられます。
この点では、改憲の投票方法については、アメリカの諸州、スイスのカントン(州)などでいくつかの例があります。アメリカの多くの州では、条文ごとに用紙に賛否を記入する分離投票をおこなっています。たとえば、ミシシッピー州の憲法では、「同時に一つ以上の改正が提案されるときは、人民が各改正案別々に賛否の投票をすることができるような方法と形式で、提案されなければならない」(第15条273節2項)と定めています。そこでは、住民意思を明確にすることが重要な問題になると思われます。
国民投票権の範囲、「過半数」の数え方
つぎに「日本国憲法改正国民投票法案」の基本的原則や条項についてです。これも何点かにわたります。
まず、国民投票の投票権者はどこまで及ぶか、という問題です。改憲議連案での説明では、「憲法改正の重大性にかんがみれば、その投票人の範囲はできるだけ広げるべきと考えられる」としています。このように指摘するのですが、既存の公職選挙法等の枠を大きくは踏みこえていません。たとえば、こんにち18歳以上の者の選挙権については、国際社会のなかでも日本が大きく立ち後れて、重要な課題になっていますが、この問題に取り組もうとしていない。あるいは、重度身体障害者の在宅投票制度を廃止したことは下級裁では憲法違反という判断が下され、その後立法で特例が設けられ在宅投票が認められているのですが、この国民国民投票法案には、規定がないということがあります。
次に、国民投票の期日等です。ここも「国民に憲法改正案についての周知を徹底させるためには、十分な期間が必要」といっていながら、それを保障しないおそれがあります。一般的には、国会が改憲発議をした日から起算して60日以後90日以内、2ヶ月から3ヶ月となっています。ただし、それが衆議院の総選挙とか参議院の通常選挙と重なる特定期日の場合には、国会の議決にゆだねるということが問題になります。そうすると60日以内に国民投票の期日が設定されるということも考えられます。
それから、憲法第96条では、国民投票で国民の過半数の賛成ということを条件にあげています。この「過半数」の判定をどうするかということが問題となります。学説上もいろいろな捉え方があるのですが、この法案では、「有効投票総数の過半数」と一番狭めた基準を採っています。そのほかに、憲法改正国民投票に投票した選挙人総数の過半数と捉える型と、他方で有権者の総数の過半数の賛成とする型もあって、スイスのカントンなどではそれらの例があります。しかし、改憲議連の案では投票したなかで、白票等の無効投票を除いた有効投票総数の過半数だとしています。この捉え方については、国民投票に参加したのに無効票とされる扱い方に疑問が出されています。また、投票総数過半数説の立場からは、憲法改正という重要事項については、積極的に賛成の意思表示をした者がその投票の過半数である必要があるとされます。
そして、このことに関してさらに問題なのは、この法案では、最低投票総数についての規定がないことです。つまり、多くの有権者が棄権して、たとえば30%の投票しかなく、その中のまた有効投票総数の過半数の賛成で憲法「改正」について国民の承認を受けたとされるようなことがあり得ます。日本は投票率が低い方ですから、国民投票での最低投票総数につき、たとえば有権者の二分の一というような限定付けが必要ではないでしょうか。そうでないと、国の基本法の「改正」が低い投票率の過半数で決まってしまって、法的安定性の低いものになる。それは、社会的・政治的にも問題がある、と言えます。
それは、アメリカの諸州でおこなわれた憲法改正の国民投票の経験からもいえることです。アメリカの場合には、通常の公職選挙といっしょに憲法改正国民投票をおこなうと、公職の選挙には投票しても、憲法改正の国民投票に参加しない有権者がきわめて多いという例が報告されています。ですから、日本の場合、憲法改正の国民投票だけをする場合も考えられますが、衆議院の総選挙、参議院の通常選挙と同時におこなうという場合に、国会議員の選挙のほうには投票しても、国民投票には投票しないケースも十分考えておかなければならないと思います。
憲法「改正」の国民投票で過半数の賛成を得た場合、内閣総理大臣はその通知を受けてただちに憲法改正の公布の手続をすると「法案」はしています。しかしその場合、国民投票の手続や効力などについて投票人からの訴訟の提起ということが考えられます。この「国民投票法案」は、そのことを考えにいれていますが、そこにはいろいろな問題があります。東京高裁から最高裁に上訴するという二審制にしますが、その国民投票の手続等々について無効判決の場合も予定しています。その場合、その国民投票について、憲法「改正」内容の合憲性を争点として提起する余地もあります。議員定数不均衡についての違憲訴訟が衆議院に関しても参議院に関しても行われて、最高裁がときに「違憲状態」という判決を出すことがありますから、憲法「改正」の国民投票について、その手続、内容について違憲という問題もありえないことではない。しかし、「国民投票法案要綱」では、「国民投票無効の……訴訟が提起されても、一旦投票の結果が出て、それが告示されている以上、判決で無効とされない限り投票の効果は確定するという考えに立つ」とします。ただし、同時に、「無効の訴えの判決が出るまでは、国民投票の効果は確定しないという考えもありうる」としながら、後者の考えに立つと、「投票の結果に不満な者が訴訟を濫発していつまでも効果が確定しないおそれがある」として、前者の立場をとるとしています。しかし、憲法改正という重要な国政問題について、国民の正当な意見表明や批判を抑えることにならないか危惧されます。
総じて、「法案要綱」「や「法案」では、想定される憲法「改正」の公布と効力発生の時期との関係、そして国民投票無効訴訟との関係が明示されているとはいえず、十分な検討がなされなければなりません。
国民投票運動にたいする規制
最後に、国民投票運動に関する問題です。
国民投票のために法案の予定では60日から90日の期間があります。そこでさまざまな議論がなされることになりますが、端的にいってマスコミにつきさまざまな規制が入ってくる余地があるということです。その運動規制について、「国民投票法案要綱」では、「国民投票に関する運動については、基本的に自由であるという原則の下に、公務員のように、立場上、公正であることが求められる者の行為、国民に多大な影響を与えるマスコミによる虚偽報道等の不当な行為等についてのみ、公選法にならった規制を設けている」としています。しかし、それらが、これまでの公職選挙法の例にみられるように不明確で、規制を拡大・濫用する余地がある。しかも、諸部面で検討の必用が指摘されていて、規制が強化されるおそれもあります。
「国民投票法案要綱」では、「国民投票に関する運動は、公選法の選挙運動のように運動期間が明確に限られているわけではないこと等から、規制される運動の範囲が必ずしも明確ではない。……規制される運動の範囲をある程度明確にするよう、今後、検討が必要である」とします。この部分は、前記の、国民投票運動は基本的に自由とする原則とどのように関連するのか、必ずしも明らかでなく、規制強化の方向には警戒が必要です。それと同時に、未成年者使用の国民投票運動については、規制を設けないこととしたとしています。これなど当然のことと思えますが、これまで公職選挙法のもとでの法規制がきびしすぎるために、かえって、その政治的意図として、広範な動員を考えているのか、などと疑ってしまうほどです。
それでも随所に公選法に対応した法規制が出ています。たとえば、特定公務員等の国民投票運動の禁止として、裁判官、検察官、警察官等を掲げています。しかし、それらの公務員も職務外では政治活動の自由があって当然であるのに、日本では24時間公務員という奇妙な考えが通用していて、そのことについての再検討はされていないようです、それでも、法案で禁止されるとする「国民投票運動」を、「国民投票に関し憲法改正に対し賛成又は反対の投票をさせるり目的をもってする運動」と定義していることにつき、「法案要綱」では、「この規定では、憲法改正について意見を表明するあらゆる行為が規制の対象になる可能性があり、過度に広汎な規制となるおそれがないかについて更に検討の必要がある」としています。まことに、このような規制では、国民の間で憲法「改正」についての自由な意見交換もできない「警察国家」が出現してしまうでしょう。あるいは、それこそが改憲勢力のねらう国家像であるかもしれません。
また一般の公務員や教育者が職務上の地位を利用して行う国民運動の禁止を掲げています。ここでも規制が過度にわたる危険があります。とくに学校教育法上の教員にとっては、日本国憲法が児童・生徒・学生にとって身近な存在であるだけに、教育の自由と学問の自由に基づく憲法への真摯な取り組みが、上記のような規制によって歪められることがあるとすれば、それこそ大きな禍根といえます。
さらに法案は、外国人の国民投票運動の禁止等を掲げています。しかし、在日韓国・朝鮮人の人権問題の今日における進展を考えると、あまりにも形式的な処理という批判が当たるでしょう。「国民党費用法案要綱」ですら、「外国人に国民投票運動の一切を認めないことは、現在の国際化した社会において、過度の規制となるおそれがないか更に検討する必要がある」と指摘するほどです。この点はまた、定住外国人等に投票権を認めるかどうかの問題にまでかかわってきます。
マスコミにたいする規制
またマスコミについて「法案」69条は、「新聞紙又は雑誌は、国民投票に関する報道及び評論において、虚偽の事項を記載し、又は事実をゆがめて記載する等表現の自由を濫用して国民投票の公正を害してはならない」と、不明確な表現をしています。その虚偽報道等の禁止の関係で「法案要綱」は、「例えば、憲法を改正した場合あるいは改正しなかった場合に、どのような事態が生じるかについて予想を記載するような行為は、一般的には、虚偽の報道にはあたらない」とします。このような例示をしなければならないほど不明確で濫用の余地ある規定案といえます。それはマスコミ報道に対して、一定の萎縮的効果をもたらす役割を果たすことが考えられます。「法案要綱」では、「マスコミに対する規制は、公選法に規定されているもののうち、虚偽報道の禁止及びマスコミを買収して報道を行わせる行為等の禁止について規定するだけである。表現の自由の尊重の要請がある一方で、マスコミの影響力の大きさを考慮しつつ、マスコミの報道に対してどこまで規制を行うべきかの議論が更に必要である」と、マスコミ規制強化の姿勢を崩していません。しかも、上記のマスコミにたいする罰則では、「2年以下の禁錮又は30万円以下の罰金」ということも出ています。
また法案70条3項では、新聞紙又は雑誌の不法利用等の制限として、「何人も、国民投票の結果に影響を及ぼす目的をもって新聞紙又は雑誌に対する編集その他経営上の特殊の地位を利用して、当該新聞紙又は雑誌に国民投票に関する報道及び評論を掲載し、又は掲載させることができない」を掲げ、その違反者に対しては前記と同じ罰則をもって臨んでいます。しかしこの規定案は、新聞・雑誌の編集者等に対し、大きな脅威となって襲いかかってくるでしょう。「国民投票法案要綱」では、法案70条1・2・3項は、公選法にならい、マスコミを買収して国民投票に関する記事を掲載させるような行為等の不当な行為を禁止するものだとしています。しかし該当する公選法公選法148条の2、1・2項に明記されている「饗応接待」の語が、上記規定案からはすり落ちており、マスコミの「買収」関係がきわめて不明確になっています。その上、公選法148条の2、3項では、「当選を得若しくは得しめ又は得しめない目的をもって」と、新聞紙・雑誌の編集等の地位利用が、個別的で具体的に限定されて規制されるしくみになっています。ところが改憲議連の提起する法案70条3項では、「国民投票の結果に影響を及ぼす目的をもって」と、国政一般に関する領域にわたっており、それだけ新聞紙・雑誌に掲載される報道と評論の規制は広範囲に及ぶことが考えられます。そもそも「国民投票の結果に影響を及ぼす」ということは、直接・間接さまざまな度合いで考えられますし、国民ならだれしも、国民投票運動期間を問わず自由な意見表明を通じ、「国民投票の結果に影響を及ぼす」意図を発揮させようと考えるでしょう。マスコミ従事者の場合は、一般国民よりもいっそう使命感をもって、憲法「改正」国民投票という国政の重大問題につき報道し、評論することでしょう。それは、マスコミ従事者の「不法」な地位利用とはとても言えるものではなく、正当な言論活動そのものといえるでしょう。このような公然たるマスコミの全面規制案をもって憲法「改正」国民投票法案を作った改憲議連の真意がどこにあるのか、本当に疑われるところです。憲法に基く立憲政治にとって、言論の自由・表現の自由の重要なことは言うまでもないところです。それにもかかわらず、憲法「改正」国民投票に関し、新聞・雑誌という重要な表現媒体に対し、大幅な規制をもって臨むということは、改憲議連の憲法「改正」の目標とするところが、言論・表現の自由の保障されない、軍事・専制国家であることを想像するのに十分な証しとも考えられます。
放送事業者についても、日本放送協会あるいは民間放送に対し、虚偽報道等の禁止を掲げ、その違反に対し同様の罰則をもって臨んでいます。
むすび
以上、改憲議連の「法案要綱」あるいは法律案の主な問題点だけをピックアップしたわけですが、そこに見られるのは、学説などおける論争点については十分検討することなしに、ともかく憲法「改正」のための段取り、基本的骨格をまとめている、ということです。そこには多くの問題点、未解決な点があります。それらにつきわたくしたちは国民的立場から大きく批判し、対処していかなければならないと思います。
それからもう一つ言えることは、改憲議連の二つの法案を踏まえますと、今回の憲法「改正」に反対する運動は、現在すでに始まっているといってよいでしょう。あるいは、客観的にそのことが求められているといえます。この法案に従って憲法「改正」の国民投票の段階に入ると、その運動期間もそれほど十分に保障されているわけではありません。また、改憲反対の運動にたいする法的規制もさまざまに登場するでしょう。それがマスコミの言論活動のみならず、一般国民のさまざまな取り組みに影響すると思われます。
そのような事態に対処するためにも、当面まず、憲法「改正」国民投票法案に反対する国民の運動の大きなうねりをつくっていく必要があるでしょう。