★阿修羅♪ > 憲法1 > 237.html ★阿修羅♪ |
Tweet |
戦争の話になると決まって戦争で日本人がどんなにひどい被害を受けたかの話ばかりが伝えれています。日本人は先の戦争では一方的な被害者だったのでしょうか。そうではありません。アジア・太平洋戦争での日本人の死者は約300万人。しかし、中国、インドネシア、ベトナム、フィリピンなど旧日本軍が侵略した国での死者は約1700万人にのぼります。とりわけ中国では約1000万人の死者をだしています。
中国に侵攻した日本軍は中国共産党・八路軍のゲリラ作戦に翻弄され、侵攻は難航を極めました。正規軍対ゲリラとの戦闘ではゲリラが有利に戦いを進めることができます。八路軍は住民からの庇護を受け、日本軍は八路軍を捕捉・殲滅することが容易ではありませんでした。業を煮やした日本軍はいわゆる三光作戦を行ないました。三光作戦とは何か概要を以下に示します。
http://www.max.hi-ho.ne.jp/nvcc/TR7.HTM
三光作戦
日本軍による、住民殺戮、破壊、略奪〈殺光=殺し尽くす、焼光=焼き尽くす、搶光=奪い尽くす〉を目的にした燼滅・粛清作戦。主に華北の中国共産党・八路軍の抗日根拠地に対して行われた。作戦命令の中で、「敵及土民を仮想する敵」と「敵性ありと認むる住民中十五歳以上六十歳迄の男子」は「殺戮」すること、敵が隠匿したり集積している武器弾薬や糧秣などは「押収」するか「焼却」すること、「敵性部落」は「焼却破壊」することが指示され、「徹底的に敵根拠地を燼滅掃蕩し、敵をして将来生存するに能はざるに至らしむ」ことが意図された。大量の毒ガス兵器も使用された。抗日根拠地の「無人区」化が図られた。1941年から42年にかけて、華北の抗日根拠地とされた地域の人口は、四千万人から二千五百万人に減少したと見られている。
中国侵略を行なった日本軍の中核は、兵士でなければ日本の良き青年、良き家庭の父であったであろう人たちです。その人たちが兵士として中国大陸で行なった数々の残虐行為の実態についてマスコミはほとんど伝えてきませんでした。そしてこれからも伝えることはないだろうと思われます。日本人が戦争でどんなにひどい目に遭ったかは毎年の広島、長崎の例を持ち出すまでもなく、幾度となくマスコミで伝えられてきました。しかし日本の普通の青年、父親が徴兵され、兵士となって戦場に送り込まれた後、彼らは中国人に対して残虐非道な仕打ちを行ないました。ここに戦争の恐ろしさのもう一つの側面があります。戦争は普通の人を鬼に変えます。もともと善良な暮らしを送ってきた人でも戦場では想像を超える悪逆非道な行いを何の良心の咎めもなく平然と行なうように変わってしまいます。
彼らが行なった残虐行為は枚挙にいとまがありませんがいくつか実例を挙げましょう。
以下は野田正彰氏の「戦争と罪責」からの引用です。
---------------------
何度も初回の生体解剖に戻らなければならないが、話を進めよう。
手術台を握って男は身体を突っ張っている。
看護婦は男に近づき、
「睡覚(横になりなさい)」
「麻薬給不痛(麻酔をするから痛くないよ)」
となだめた。
男は母国語によって恐怖を解いたのか、看護婦に引っぱられるままに、横になった。「あの看護婦、あんな嘘を言っている」とあきれる湯浅軍医を振り返り、看護婦は「どうですか」と笑いかけているように見えた。
静脈麻酔の後、二度と男は起き上がることはなかった。
-----
この頃はすでに三尾豊さんには拷問になれきっていた。
「ある日、華北から東北に何年も出稼ぎに来て、僅かばかりのカネを貯め、久し振りに故郷の両親のもとに帰ろうとしている労働者を捕え、みすぼらしいなりをしているのにカネを持っているだけの理由で監禁し、毎日引き出し、裸にして竹刀を持って背中といわず尻といわず目茶苦茶に殴り続けました。皮は破れて肉がむき出してくる。今度は六尺椅子に寝かせ、手足を麻縄で縛りつけ、ロウソクの火で足といわず、手といわずじりじりと焼いていきました。
このような拷問をしても何も出る筈もありません。余り早く釈放すると幹部の手前、格好が悪いのでそのまま留置場に入れ三ヶ月も放って置きました。毎日ろくに飯もやらず、とうもろこしのにぎりに水のため、病気になってしまいました。始末に困り、釈放しましたが、その人は不具者同様になり、よぼよぼと憲兵隊を出て行きました。
或る時は、華北から出稼ぎに来ている父親に面会に来た息子が中華民国のカネを持っていたことを理由に、留置し、取調室の梁に逆さに吊り上げ、竹刀で殴りつけているうちに、肩の骨を折ってしまいました。山東省から来た純朴な農民です。何もあろう筈はありません。自分の功績に狂っていた私はその農民をまたも六尺椅子に麻縄で縛りつけ、水を飲ませたのです。その後、満州国警察に引き渡したのですが、おそらく生きてはいなかったでしょう」
こんな日々を送っても、三尾さんは気持ちがすさむということはなかったという。精神の荒廃を感じとる精神を持たなかったのである。
------------------------
人は兵士になったからといって最初から残虐行為に進んで手を出したわけではありません。最初は抵抗感があったが、兵士という立場であるがゆえに次第に残虐行為になれていき、ついにはなんの抵抗感も感じなくなったのです。
中国政府は終戦後、捕虜となった日本軍兵士を尋問し、罰するのではなく、中国人に対してどのような犯罪行為を行ったのか本人に自覚させることに努めました。これを日本では「洗脳行為」だと非難する者がいます。確かに中国政府は「中国人民は寛大であり、本当に悔い改め、思想を改造すれば、許されて帰国できる。頑固に反抗し、表面的な罪状告白でしかなければ、必ずそれは露呈し、処罰される」と表明していました。しかし、このことは中国政府が、自らの犯罪行為を自覚できない者に粘り強く時間をかけ、人間として良心の呵責を取り戻させようとしたことを意味します。日本人が残虐行為を行ったというマイナスの事実を受け入れたくない一部の人たちが「洗脳された」などといって事実を認めようとしないのです。
中国から帰還した旧軍兵士達は日本社会に溶け込んでゆきました。彼らの一部は、中国人に対して行なった自らの残虐行為を告白しましたが、多くの人たちは何も語りませんでした。そんな彼らから生まれた子供たちが私たちなのです。家庭の中で、戦時中に自らが行なった残虐行為を家族に話すことができた人はこく一部でしょう。ほとんどの人たちは口をつぐみ、戦争でいかに人間が悪逆非道なことをなしうるのか、人々に伝えようとした人はほとんどいませんでした。私たちの父、祖父が中国でいかなることを行なってきたのか、隠されたままです。
私は旧軍兵士達を糾弾しようというわけではありません。戦争というものが如何にたやすく人間を怪物に変えるものであるのか、その戦争の恐ろしさに気付く必要があるといいたいのです。