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新日本婦人の会(http://www.shinfujin.gr.jp/a_1_shinbun/index.html)という女性団体の新婦人しんぶんという新聞に経済同友会終身幹事の品川正治さんのインタビューが載っていて、それを大津留公彦さんが転載(http://ootsuru.cocolog-nifty.com/blog/2007/03/post_7a9b.html)しています。内容は次のとおりです。
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戦争体験から考えた座標軸
戦争体験した私にとって一平卒の目で見なければ駄目だというのが基本です。戦争を起こすののも人間ならば、止める努力ができるのも人間ではないかということを、どうして”国がおこした天災”見たいに受け取っていたのだろう。国家とか経済とかは権力者ではなく、国民の目で見るべきだと。なぜ、もっと早くそれに気がつかなかったのか、というのが私の座標軸です。
「これなら生きてゆける」
・・・翌年五月、内地に引き揚げる直前に各部隊に配られた日本の新聞の、憲法前文、何よりも9条を読んで全員で泣きました。二度と戦争をしないと自分らは決心していたけれど、国の憲法がそこまで踏み込んで、これからの国のあり方を示してくれた。正直、夢にも思っていませんでした。「これなら生きてゆける。我々の生き方はこれしかない」と思いました。
「戦争っていうものはこういうものだ」
@戦争になれば”勝つ”ということが最高の価値になり、自由や人権、さらに人の命、敵の命はもちろん、国民の命も犠牲にしてしまう。価値観が転倒するということです。
A戦争は全てを動員するということ。
人間を武力として、そして一番怖いのは、学問の動員です。医学も生理学も科学もこうした動員のなかで大量殺戮兵器が生まれます。社会科学や歴史学まで動員さてれ「日本は”神国日本”」として絶対不敗という歴史以外、認められない。
B国の権力の中で、戦争を指導する人たちが最高の権力を握り、司法、行政、立法は、軍部の下におかれ、勝つためには指導部のいうとおりにしなくてはならなくなる。
戦争とはそういうものなのです。
戦争をする国と平和憲法を持つ国との違い
アメリカはその戦争をしている国なのです。「グローバリゼーション」という言葉はアメリカの戦略用語で、決して経済用語ではありません。戦費がいくらかかろうと財政破綻をしないように、世界銀行も動員さtれ、次は日本を動員したいのです。こんなときに憲法「改正」なんて、ばかなことを考えるのかと言いたいのです。何故こんなことになっているのかといえば、政財界やマスコミが「日米の価値観がいっしょだ」という考え方で物事を見ようとするからです。二度と戦争をしないという憲法を持った国と、ずっと戦争を続けているアメリカの価値観が一緒だと言ってしまえば、歴史の解釈のしようもなくなってしまいます。違うと言い切ったら、いろいろな選択肢が出てくるにもかかわらず、中国やイランなど、どこの国を見るみる場合もアメリカの目で見る格好になって、日本の将来を決められますか?というのが私の考えです。
自分の一票がどれだけ大事か
戦争をするか、しないか、これを我々が決める。このことは理想主義ではない。まして日本のように国民主権というのが確立されている国の場合は、自分の一票がどれだけ大事かという基本的な立場に立って、戦争に関してははっきりと自分というもの出すのがいわゆる民主国家として、当然ではないかと思います。