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大和口札取る毎に思うかな 方言の札はやめ沢之助。ほか、柳宗悦、心が騒ぎます。
http://www.asyura2.com/07/kanri14/msg/280.html
投稿者 竹中半兵衛 日時 2007 年 10 月 27 日 23:16:52: 0iYhrg5rK5QpI
 

(回答先: 今は誰もバツなんかくらわせませんて(笑) 投稿者 茶々 日時 2007 年 10 月 27 日 19:16:58)

茶々さん、レスありがとうございます。学生時代に沖縄方言に関心があり、それなりにかじっていたことがあります。スレッドの歌は、皮肉に富んでいますが、なかなかユーモアがあり、いまだに覚えていたものです。この当時から昭和の戦前にかけて、民芸運動家柳宗悦や沖縄学の創始者伊波普猷(いはふゆう)らの方言存続を主張する、抵抗(学務部との論争など)文献があるのですが、今、手元にはありません。ネット検索で、問題の一端は推測することができと思います。


県立一中の方言争議は下記URLに記事だけありました。

沖縄語(琉球語)の歴史(日本語版)
http://www.haisai.co.jp/nenpyou2.htm

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●大正の初め頃、方言罰札制度へ反発する学生達によって校内でも、かえって校内での方言が盛になる。校門に貼られた反発歌「大和口札取る毎に思うかな 方言の札はやめ沢之助」(沢之助は山口沢之助校長にひっかけたものもの)
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後世に伝えよう「沖縄の言葉(しまくとぅば)」
http://www.news.janjan.jp/column/0603/0603221187/1.php

> 「方言取締令」「方言札」なども行われた。こうした異常な「しまくとぅば」撲滅運動に異議を唱えたのが、民芸運動家の柳宗悦である。柳宗悦は「標準語は必要だが意義深い沖縄口を否定するのは不可と反駁」(『評伝柳宗悦』288ページ、ちくま学芸文庫)とした。その方言論争は有名である(3月4日付け沖縄県立博物館で「柳宗悦の民芸と巨匠たち展」開催中の記事参照)。沖縄戦では、標準語を知らないお年寄りたちが方言を使っただけで、日本軍に「スパイだ」とみなされて銃殺された。戦後は、学力向上を理由に各学校で方言札が使用され、その方言札を下校時の最後まで持っていた児童生徒は便所掃除などの処罰が課された。
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方言論争と皇民化教育
http://www.edu.city.kyoto.jp/hp/saikyo/okinawa/king.html

 日清戦争後、近代化の波の中で、沖縄でも生活風俗を大和風に改めようと
する運動があったが、昭和10年代になると、この動きは熱をおびてきた。
沖縄的な名字を大和風に改めたり、読み変えたりするようになった。仲村梁
(ナカンダカリ)を仲村に、安慶名(アゲナ)を安田に、島袋(シマブク)
を島に改めたり、金城(カナグスク)の呼称を「きんじょう」に、大城(オ
オグスク)を「おおしろ」にといったぐあいである。また、沖縄の生活習俗
にも改変が加えられた。衛生上問題があるという事で、豚便所(ウゥーフー
ル)の廃止や、裸足の禁止、火葬の奨励など、風俗改良運動がおこり、一定
の成果がみられるようになった。
 だが、言葉(琉球方言)は明治以来、県が標準語教育を遂行してきたにも
関わらず、容易に標準語に改まることはなかった。しかし、昭和10年代に
なると、国家主義の高まりにともない標準語を励行しようという気運は次第
に強くなっていった。昭和15年には県当局が推進した標準語励行運動は強
制や禁止、懲罰などきびしくすすめられたので、「方言撲滅運動」とうけと
られがちであった。そんなおり、日本民芸協会の柳宗悦らが1940年1月
に沖縄を訪れ、県学務課がすすめている標準語励行運動は行き過ぎであると
批判したことから、県内外に賛否両論の「方言論争」をまきおこした。民芸
協会側の意見は次の三点に要約することができる。

1.準語励行運動に反対するものでものではないが、そのために沖縄方言を
  見下してしまうのは県民に屈辱感を与えることになり、行き過ぎである。
2.沖縄方言は日本の古語を多く含んでおり、学術的にも貴重である。
3.他県にはそのような運動はない。

 これに対し県当局は、沖縄県民が消極的で引っ込み思案なのは、標準語能
力が劣っているからであり、県外で誤解や不利益を受けているのもそのため
であるとして、標準語励行こそが県民を繁栄に導く唯一の道であると主張し
た。沖縄方言の学術的価値についても、誇るべきものには違いないが、その
研究は一部の人にまかせるべきものであるとして問題にしなかった。
 この論争は、はっきりとしたかたちでの結論は出なかったが、日本が挙国
一致体制で戦争を押し進めていた時期でもあり、沖縄側にも方言撲滅的な意
見に同調する意見が多かったこともあって、標準語励行運動はむしろ強化さ
れていった。
 沖縄戦が始まると、軍部は沖縄住民を陣地構築や飛行場建設に借りだした
ということもあって、軍事機密を保護するという名目で、沖縄県民を対象に、
「方言を使用する者はスパイとみなす」という内規を出した。さらに口頭や
文書で地域の住民に対して内規にもとづく通達をおこない、県民の方言使用
についてきびしい抑圧を加えた。そのことによる悲惨な事件もおきた。
 方言論争にみられた柳宗悦らの指摘は、むしろ戦後になって反響をよび、
日本本土での沖縄蔑視問題や、沖縄側の安易な本土追随の姿勢を反省させ、
沖縄の人々が沖縄文化の豊かさを最認識するきっかけとなった。


キングジョーのいわれ
 今や古典となった特撮TV番組のウルトラセブンですが、その中に「ウル
トラ警備隊西へ」という長編があります。この中に「キングジョー」という
宇宙ロボットが登場しました。銀色のロボットで、手足がそれぞれのパーツ
に分かれて空を飛んだりできるという強敵です。この「キングジョー」名称
の由来ですが、当時円谷プロに在籍していた、脚本家の金城哲夫氏の姓から
とったものとされています。「キンジョー」という音が、「キングジョー」
へと変化したのです。沖縄の姓というのは意外と種類が少なく、地名からと
ったものが多いということです。金城(きんじょう)も、元は「かなぐすく」
という呼称だったのを、戦前の強制的皇民化の流れの中で大和風に変えさせ
られたものだということです。

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柳 宗悦1889-1961(明治22-昭和36)
http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/nittetsu/guidance/philosophers/yanagi_guidance.html

略 歴

 1889(明治22)年、柳宗悦は東京市麻布区市兵衛町二丁目十三番地に貴族院議員である柳楢悦と母勝子の三男として生まれる。父は彼が幼少の頃に亡くなったが、父の残した莫大な遺産によって何不自由なく成長し、学習院初等科に入学。中等科に進む頃に、後に共に雑誌『白樺』を創刊する志賀直哉や武者小路実篤らと知り合い、生涯の友となる。更に学習院高等学科では、鈴木大拙や西田幾多郎に学び、1910(明治43)年、無事高等学科を卒業後、東京帝国大学文科に進む。また『白樺』はこの年に創刊される。

 東京帝国大学で哲学を専攻した柳は、当初、宗教に深い関心を示していたが、ウィリアム・ブレークに興味を持ったのをきっかけに、宗教と芸術の関係に関心を持つようになる。1913(大正3)年、東京帝国大学卒業後、声楽家の中島兼子と結婚し、千葉県我孫子へと転居する。その後、我孫子へは志賀やバーナード・リーチも転居し、白樺同人もしばしば訪れたために、さながら芸術家コロニーのようであったという。

 1919(大正8)年、『宗教とその真理』を刊行、四月に東洋大学教授となる。朝鮮の美術に関心を持っていた柳はこの頃盛んであった朝鮮の独立運動に関して日本の朝鮮政策批判の文章を書いている。更にこの後数年にわたり、しばしば朝鮮を訪問し、「朝鮮民族美術館」設立を計画、1924(大正13)年完成にこぎつけた。

 1924(大正13)年、前年の関東大震災で被災した柳は一家で京都へ転居する。そこで濱田庄司を介して河井寛次郎を知り、しばしば三人で京都の市に出向く。そこで発見した古い器や着物、いわゆる「下手物」が後の民藝思想へと繋がっていく。 またこの年、甲州で木喰仏を見て、研究を初め、翌年1925(大正14)年、『木喰上人之研究』に多数の論考を発表。

 1926(大正15/昭和1)年、河井・浜田と高野山で民藝の運動について話し、その後『日本民藝美術館設立趣意書』を発表、さらに『越後タイムス』に「下手ものの美」を発表。この頃から柳の民藝運動が始まる。

 1929(昭和4)年、『工芸美論』刊行、さらに1931(昭和6)年、月刊雑誌『工藝』を創刊。この頃、頻繁に民藝品収集のため日本各地を旅する。 1934(昭和9)年、日本民藝協会を設立、会長に就任し、同年十二月『美と工藝』を創刊。1936(昭和11)年、大原孫三郎の援助などにより日本民藝館が完成する。

 1938-39(昭和13-14)年にかけて沖縄に滞在し、豊かな沖縄の民藝を知り、その紹介と保存に尽力する。また当時沖縄でなされていた本土への同化政策(具体的には標準語欣行運動)に批判的立場をとり、その後の沖縄方言論争を巻き起こすことになった。

 1949(昭和24)年、『美の法門』を上梓。その後も活発に著述、調査旅行を行うが、この頃からリウマチと心臓の不調に悩まされるようになり、1961(昭和36)年、72歳で没する。

思 想

 「民藝」という言葉を生み出したことで有名な柳宗悦であるが、若き日は様々な二元に引き裂かれる人間存在にとって、可能な救いとは何かを問い求める宗教哲学者であった。そこで彼が見出したのが、二元の多様を内包すると同時に「実在/神の閃き」を映し出す「自然」であった。そして、「自然に則る生き方」こそ、現世に生きる人間が「二にあって一に達する道」であると考えるようになる。

 しかし、そのような「自然に則る生き方」とはどのようなものなのか。彼は下手物の収集や、各地を旅行し、土地に根付いた人々の生活を見るなかで、「自然に則る生き方」の具体的発現を見つける。それこそが「民藝」である。柳によれば、鑑賞される純粋な美術品とは異なり、民藝は「下手物」、つまり日々の生活のなかで使われる道具であり、したがって、民藝の美は、用に即することによって生まれる「用即美」である。そのような民藝は、美術品が一部の天才的個人によって作られるのとは対照的に、あくまでも普段使いの工芸品として、名も知れぬ民衆によって生み出される。名もなき民衆が生活のため、その地で与えられた天然の資源を基に作り、日々の生活のなかで使われるものだけが「民藝」と呼ばれるに値する。そのような民藝は土地と生活に生みだされたものであり、それゆえに「器には自然の加護がある。器の美は自然の美である」と柳は言う。そのとき民藝は柳が求め続けた「自然」の開示となる。しかし、このような民藝を生み出したのは無学な名もなき民衆である。彼らは救いを求めて、工芸品を作るわけではないが、生活のため、工芸品を作るなかで、深く土地の自然と交わり、自然へと帰依していく。そうして作り出された民藝に偶さか「自然」が開示され、「美」が宿る。凡夫でありながら、自然に帰依するとき、美を生み出す力が与えられるということ、柳はそこに無力な衆生が仏に身をゆだねることで救われる「他力道」のあらわれを見てとる。それは柳が若き日に求めた「二にあって一に達する道」であった。



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