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http://www.kobe-np.co.jp/kobenews/sg/0000543201.shtml から転載。
戦争画の在り方批判 小磯良平の書簡発見
2007/08/16
発見された小磯良平の手紙など=神戸市立小磯記念美術館(撮影・藤家 武)
神戸生まれの昭和を代表する洋画家・小磯良平(一九〇三-八八年)が戦時中、「戦争画」の在り方や画壇の停滞ぶりを批判する内容の手紙を友人の画家に送っていたことが十五日までに、神戸市立小磯記念美術館の調査で明らかになった。小磯は戦中、陸軍の依頼で戦争画の大作を何点も描き評価を得たが、戦後はこれら戦中の作品について沈黙を守った。手紙は、戦時下の小磯の本音や苦悩を示す初の資料として貴重な ものといえる。(堀井正純)
見つかったのは、岡山県へ疎開中の画家・内田巌(いわお)(一九〇〇-五三年)にあてた手紙三十八通。神奈川県内の内田の遺族の元に保管されていた。
注目されるのは、終戦前年の四四(昭和十九)年十二月三十一日付の一通。当時、画壇でも自由な表現は困難で、小磯は「戦争画も純粋芸術と称する絵も同じく多少ともに病気にかかってゐる」と画壇全体が力を失っている状況を憂慮。
「藤田(嗣治)が戦争画をかいても猪熊(弦一郎)がかいても(中略)昔の絵と一寸も異はない(中略)これでよいのか」と、戦争画が美術界の発展に役立ってないことを指摘、批判している。また、手紙には「戦争美術のタイコをヂャンヂャンたたいても何もならない」という一文もあった。
小磯は戦前から若手の実力派として活躍。戦中は従軍画家として四度、中国などへ赴き、作品を発表。「娘子関(じょうしかん)を征(ゆ)く」で芸術院賞を受賞するなど高く評価された。だが、戦後は戦争画については黙して語らず、画集への収録も許さなかった。
今回、調査に当たった廣田生馬(いくま)学芸員(40)は「内田あての手紙は、小磯と戦争画、当時の美術界と戦争との関係を再考するための一級の資料。かっとうを抱えながら、過酷な時代を生きた画家の生々しい心情が伝わる」と評価。「やや遠回しな言い方だが、弾圧を受ける恐れもある中での言葉には重みがある。相手が盟友でリベラルな思想を持つ内田だからこそ書けたのでは」としている。手紙は、同市立小磯記念美術館で九月十五日から公開予定。
戦争画 戦時中、軍部は国民の戦意高揚のために、藤田嗣治、宮本三郎ら数多くの画家たちに戦争記録画を描かせた。このうち藤田は戦後、戦争協力の責任を問われ、日本を離れフランスへ帰化した。戦争画は長年、美術界のタブーとして語られることが少なかったが、近年、その美術的な価値や意味を再検証する動きが出ている。