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小泉・竹中によるサッチャリズムの典型例です。その理念は、その結果は...
http://ameblo.jp/t-garasu/entry-10011588055.html
医療に市場原理導入を目論む規制改革会議の宮内義彦氏のマッチポンプ
■泥棒が裁判官になるような「利害の抵触」
日本医療に対して、米国式の市場原理を導入することに警鐘を鳴らし続けてきた李啓充氏(医師・作家・元ハーバード大学助教授)は、昨年5月の兵庫県保険医協会の講演で「利害の抵触」として次のようなことを述べている。
「ある職種に就いている人が、その立場や権限を利用することで、個人的な利得を得ることが可能になるような状態」を利害の抵触と言う。たとえば、泥棒が裁判官の立場になって、自分を裁き、無罪にするようなことを指す。
「利害の抵触」の最たるものが、規制改革会議。その代表(議長)の宮内義彦氏はオリックスの総師。オリックスはリース業が本業だが、保険業を大々的に営んでいる。規制会議は、混合診療の解禁を突破口に、医療の市場原理の導入を目論んでいる。
オリックスは融資する際に、オリックス保険会社のガン保険の加入を条件にする。民間の医療保険の市場が自動的に増えるのが、未承認薬の抗ガン剤など混合診療の解禁である。自らの企業が潤う立場にある人が、小泉政権の規制改革会議で、混合診療解禁の旗振り役をしているのだ」
■民間資金の導入・運営によって設立された公立病院の高知医療センター
「高知医療センターは、県立病院と市立病院を合体させ、PFI(プライベート・ファイナンス・イニシアティブ)によって設立された。病院の建設から、医療機器のリースなど、病院経営の多くをオリックスが仕切っている。
つまり、宮内氏の規制改革会議は、日本医療を米国資本のビジネスチャンスと、公的保険の抑制という相反する二代政策を掲げている。これは明らかな政策の間違いであり、医療本来のあるべき姿を基本にすえて考えるべきだ」
(「月刊保団連」臨時増刊 2006年 全国保険団体連合会発行より)
高知医療センターについては、地元紙の高知新聞が詳しい記事を連載しているので、以下を参照のこと<http://www.kochinews.co.jp/rensai05/05tougoufr.htm>。
院長の退任などのトラブルを抱え、オリックスの担当者は医療経営の素人であるがゆえの誤算など、「官から民」というスローガンは、決して成功しているように見えない。が、この高知方式は、全国的に赤字を抱えている公立病院のモデルケースとして注目されている。
■「小さな政府」のサッチャリズムを源流にしたPFI
高知方式のPFI(プライベート・ファイナンス・イニシアティブ)とは、いったいいかなる政策手法なのか。
1992年に英国で始めて導入された公共施設の建設、維持管理、運営などを民間の資金や経営能力や技術を活用して行う新しい社会資本整備の手法である。
日本では、1999年に「民間資金等の活用による公共施設等の整備等の促進に関する法律」の成立により、国や地方自治体などで、公共事業のコスト削減のためにさまざまなプロジェクトが実施されている。当初は庁舎などの公用施設が中心だったが、医療・教育・リサイクルなどと対象範囲が拡大されている。
最近、自治体の公共施設が指定管理者制度によって、どんどん民間に払い下げられているのだが、その根拠がPFIだったのかぁ、と思わず納得・・・。
英国でスタートしたというPFIだが、1980年代後半のサッチャー政権に源流があるようだ。財政再建政策の手法として「民営化」と「外注化(アウトソーシング)」を導入したが、公共サービスの質のコントロールができなくなるなどの弊害を招いた。
それまで収益を生まない公共事業の整備に民間資金を使うという手法は認められていなかったが、PFIは既存の法体系を変えずに、民間資金を使って公共事業の整備を進めることができるようになった。
■官民のパートナーシップ構築を訴えた労働党のブレア
1990年代の保守党メジャー政権は、サッチャリズムの「小さな政府と市場原理主義」を踏襲したが、労働党のブレアは「英国の経済繁栄の背景には、教育格差の拡大や貧富の差の拡大がある」と批判し、「将来の経済繁栄を持続させるためには、官民のパートナーシップを構築する必要がある」と訴え、1997年に労働党の政権奪還を果たした。
ブレア政権の官民のパートナーシップの構築の考え方が、PPP(パブリック・プライベート・パートナーシップ)と、PFI(パブリック・ファイナンス・イニシアティブ)である。
「行政と市民のパートナーシップ」というスローガンは、日本でも盛んに使われるが、英国などヨーロッパの公共としてのパートナーシップと、どうも根本的に違うのではないか。行政の下請けとして、安上がりにこき使われる福祉NPOなどのありようなどを見ていると、そう思わざるを得ない。日本では市民が、真の主権者としての機能しているとは思えないからだ。
小泉流「構造改革」(日本社会の破壊工作)は、弱肉強食の新自由主義政策である。その政策の源流をたどると、1980年代のサッチャーやレーガン、中曽根にたどり着く。レーガンとナカソネのロン・ヤス関係は、ブッシュ・コイズミ関係を彷彿とさせるし、更にもっとあぶない日米同盟関係という従属・隷属構造の深化を感じるのは、わたしだけではあるまい。