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【救急医療崩壊】  82歳心肺停止患者の蘇生中に呼吸困難の男性受け入れ不能と伝えても 「受け入れ拒否」
http://www.asyura2.com/07/iryo01/msg/295.html
投稿者 どっちだ 日時 2008 年 1 月 17 日 00:12:20: Neh0eMBXBwlZk
 

----天漢日乗 から転載-----------------------------------------
http://iori3.cocolog-nifty.com/tenkannichijo/2008/01/82_916f.html


2008-01-16
救急医療崩壊 82歳心肺停止患者の蘇生中に呼吸困難の男性受け入れ不能と伝えても「受け入れ拒否」

現在救急の前線で働いておられる「なんちゃって救急医」先生のblog「日々是よろずER診療」には、ご自分が経験されたり、症例として知っているたくさんの
 処置や判断が難しい事例
が毎日のように記されている。「なんちゃって救急医」先生の普段のスタイルは
 難しい症例の途中までの経過
を書いて、
 一体この症例は何だったのか
を尋ね、
 医師がコメント欄で答える
というテスト形式になっている。これを見ていると
 いかに似たような症状で搬送されてくる患者さんであっても、その原因となった疾患が違い、処置が難しいか
がよく分かるのだ。

昨今の
 救急搬送受け入れ不能報道
について、救急医療に携わる立場から、「なんちゃって救急医」先生が、実際に体験された
 82歳心肺停止の患者の蘇生にかかりっきりになっていて、搬送を断った高齢の患者の家族に「たらい回しにした」とクレームを入れられた例
をblogに書かれている。

昨今の救急報道に関する私見
http://blog.so-net.ne.jp/case-report-by-ERP/20080116

これを読むと、
 病気は必ず治ると信じる家族の思い
が、ともすると
 十分な処置を受けられなかったのは病院や医師が悪い
という形で噴出する経過が理解できる。「なんちゃって救急医」先生の立場は
 病気は受け入れる
というものだ。わたしの立場もこれに近い。

病気を受け入れるのは、負け戦ではない。生き延びるための知恵であり、避けがたい死があるのならば、死を受け入れ、準備を整えるために必要な手だてである。人間の致死率は100%なのだ。誰も死を避けることはできない。
わたしが、「受け入れる」立場なのは、生まれたときから弱視だった自分の経験で、
 弱視に対して、手術や訓練、矯正で戦ったとしても、健常者のように見えるようにはならない
と知っているからだ。治る弱視もあるだろうけど、わたしのような廃用性弱視は、悪くなることはあっても、良くなることはない。視力が安定してきたのは、ここ15年ほどだけれども、それまでは
 低下する視力を補う手だてをいろいろ考える
毎日だった。最善の努力をしても、良くなることはなく、落ちる速度が緩やかになるくらいで、たいした成果は得られないけれども、
 今ある資源を極力大切にする
というのが、わたしが、長い「闘いの日」を経て獲得した弱視との付き合い方である。一時期は、自暴自棄になって、見る努力をほとんど放棄したことがあり、この時はほとんど目が見えない状態に近づいた。弱視の場合は、心理的な状況と「見え方」に強い相関があって、
 泣くと見えなくなる(涙で目が痛めつけられるので、よほどのことがない限り1時間以上泣かないように注意している)
 落ち込むと見えなくなる
のが分かっているから、ともかくも、外出して、視力をフルに使わなければならない場合は、主治医に
 甲状腺機能昂進じゃないの?
と疑われるくらい、ハイテンションにしている。だって、そうでないと見えないんだもん。わたしに会ったことのある人は
 テンション高い人だな
と思ってるだろうけど、それは外に出るために必要な手だてなのである。てか、あれくらいのテンションじゃないと、外に出られない程度にしか見えてない。

外に出なくていい日は、ともかく身体を休めて、目を怠けさせる。あんまり目を怠けさせると頭も腐るので、文字を読むことは禁じない。

恐らく、普通の人から見れば、甚だ怠惰に見える生活である。もし、誰かが介助してくれるなら、もう少し作業ペースは上がるのだが、残念ながら、そうしたサポートは受けられない状況に甘んじている。

何か重い病気、重い障碍と「共生する」ということは、いろんなことを諦めなければならないことを意味する。
急性の病であれば、運が左右する。
そうしたすべてを受け入れないと、
 人間の死亡率は100%
という厳然たる事実を受け入れられないまま、
 死の原因を他に求める
ことになる。

わたしが弱視なのは誰かが悪いわけではない。

「善意ある家族」が病院や医師に「障碍や死の責任を問う」事例が増えているけれども、どんなに設備が整った病院で最善の治療を受けたとしても、ダメなときはある。それを乗り越えられるか否かは、
 不幸を受容できるかどうかの度量
にかかっているのだが、現在は
 障害を乗り越える勇気
より、
 躓いてけがをしたことを問題とする
のが、趨勢になっている。躓いたままだと前に進めないのだが、
 ああすればよかった、こうすればよかった
と、過去をたどっていくだけになってしまっているのは残念だ。それだけ過去をたどる余力があるならば、
 前に進む勇気
もあるはずなのだが、足下を見過ぎることで、勇気が挫かれているのではないかと憂う。
 今ある力をよりよく生かす
のが、重い病や障碍とつきあっていく一番の解決法だとわたしは信じている。

2008-01-16

コメント

初めまして。最近このサイトを読み始めた者です。

16日のエントリを読んでとても共鳴しましたので、コメントを書きました。
私も持病があります(重い病気ではありませんけど、、)。何度手術をしても痛みが発生することは生涯続きます。何をしてもどこに行っても痛みがついてくることから、一時期自暴自棄になったこともあります。
色々あって今はioriさんのように、

今ある力をよりよく生かすのが、重い病や障碍とつきあっていく一番の解決法だとわたしは信じている。

と思えるようになりました。
病院に行けば病気は絶対治るものだ、治らなければ医者のミスだという風潮になっているのが哀しいです。医療に「絶対大丈夫」なんて存在しないのに…。「絶対」を妄信するが故に誰かに責任を過剰に求めてしまう。これでは、誰かが悪いわけじゃないのに誰もが不幸になります。

諦めるのではなく、受け入れていかなければいけないと思います。

投稿 初心者 | 2008-01-16 19:17


良い文章を、ありがとうございました。久々に、心洗われる気がしました。最後の一文、しっかり覚えておきたいものです。病気も人の一部、そう前向きに思えるかどうかで、そのあとがずいぶん違うのではないかと、自分も考えます。

事後ですが、この文章を自分の日記で使わせていただきましたこと、お知らせいたします。

投稿 鴛泊愁 | 2008-01-16 20:41


災難に逢う時節には 災難に逢うがよく候、
死ぬ時節には 死ぬがよく候
是はこれ 災難を逃るゝ妙法にて候
良寛

病気に対しても、この解脱の心情を推し量るものが必要でしょう。
宗教のかかわりも必要かと。

投稿 龍 | 2008-01-16 21:13

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