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--日々是よろずER診療 から転載----------------------------------
http://blog.so-net.ne.jp/case-report-by-ERP/20080101
日本人の「死生観」と私の思い [雑感]
皆様、あけましておめでとうございます。今年も何卒よろしくお願いします。
記念すべき今年の第一エントリーは、日本人の死生観のあり方について、自分自身の今年の思いと皆様方への提言とさせていただきました。いつもの症例提示型エントリーは、おいおいと再開していきたいと思っています。
本エントリーのキーワードは、「気づき」、「逆観」、「日本人の死生観」です。 よろしくお願いします。
昨年末のエントリーで、病気・死は悪か? http://blog.so-net.ne.jp/case-report-by-ERP/20071222 の中で、私は、次のような提言を行った。
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むしろ、「病気・死は悪ではない」というスタンスを国が明確に打ち出したらどうですか?
日本社会の中での、隠れた前提 「病気は死は悪である」=「回避すべきである」
この社会前提を、
「病気・死は、受け容れて付き合うもの」 という
新たな社会前提に改変すべく事業を立ち上げ、そこに技術開発を中止することで浮いた金、人、ものを投入したらどうですか?
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しかしながら、病気・死というものは、他者から、「受け容れろ」といわれて、「はい、わかりました」と簡単に納得できるものではない。個人個人の内面にある価値観や人生観と関係するところが大きいからだ。春野ことり先生のブログ、天国へのビザでのエントリー 患者の皆さん、あきらめてください http://blog.m3.com/Visa/20071227/1 がとても大きな反響を読んだのも、「死を受け容れろ」という医療者側からの挑発とも受け取られかねない刺激的なタイトルが、読者の心を刺激したためではないかと、私は個人的に思っている。
四苦八苦という言葉がある。まさに、今年これからの医療情勢を表現する言葉として、ぴったりではないだろうか?
これは、仏教に由来した言葉だそうだ。仏教はこの世の苦しみは8つあるとしている。四苦とは、「生」「老」「病」「死」だ。これらは、誰にも避けることの出来ない苦しみと教えている。残りの四苦は、「愛するものと分かれる苦しみ」「憎んでいる人と会わなければならない苦しみ」「欲しいものが手に入らない苦しみ」「思いがこだわりを生む苦しみ」とのことだ。
なんだ、医療は、四苦そのものではないか・・・・・ということに私は気がついた。
医療は、どこかで宗教と切っても切れない何かがあるなあと昔から常々思っていたことが、これで腑に落ちた。
長い人類の歴史において、文化や宗教には様々な死生観が登場する。人間は誰でも死について考えずにはいられないからだろう。だが、「死は何なのか」についての答えを明確にしてくれた人は誰もいないし、これからもいないであろう。だからこそ、死は哲学的であり、宗教の教えとつながるのであろう。昨今の日本人の死生観について、奈良大学の大町教授は、その著書「命の終わり」 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4589030357/ の中で次のように述べている。
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ここ5年をとってもみても、2005年4月にJR福知山脱線事故、2004年には新潟県中越地震、2001年には附属池田小児童殺傷事件などが起きている。突発的な事故、災害、事件である。いずれも遺族は、予想もしていなかった。遺族はこの衝撃的な出来事を受け容れられない。心の傷をいつまでも癒すことができないでいる。いつか癒える日が来るなど考えられそうもない。なぜなのだろう?
戦後、いつからだろうか、われわれは共同の「日本人の死生観」とも言うべきものを喪ったからではないか。愛する者の死をどう考えたらよいのか。この悲しみをどう癒せばよいのか。今は、遺族一人一人の、いつ終わるとも知れない、長く孤独な作業にゆだねられている。
日本人はなぜ自らの死生観を喪ったのか。未曾有の敗戦が、われわれの親の世代に、それまでの文化的営為に対する自信を失わせたということもあるだろう。我々の戦後世代は欧米の文化に強い憧れをもったということもあるだろう。大人たちは、子供に死を語らなくなった。戦後、死生観は空洞化していった。それでも生きることはできた。経済的繁栄という目標が日本人の頭の中を占めていたからである。
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なるほどだと思う。日本経済繁栄というめぐまれた社会背景の中で、あまり死を考えなくても生きられる時代に生まれ、死の教育をほとんどうけることがないまま成人を迎えた昭和20年〜昭和50年代生まれの人たちが、今そしてこれから、自らの親を「老」「病」「死」によってすでに喪いまたはこれから喪っていくことに直面していくのだ。
その中で、その死を癒すことができなかった極一部の人達が、訴訟・責任追及という形で、医療者の前に現れてくるんだと私は思う。それがその人たち自身の苦しみや痛みの一表現であることは認めたいとは思うが、医療者がこういう一部の人達のために、モチベーションを失い、辞めていくのは、現在進行中の医療崩壊の一部の形であることだけは間違いないと思う。
決して、私は訴訟を起こす人を批判しているわけではない。ただ、起こされる側の気持ちを表出しているだけである。それだけは、誤解のないように言っておく。私自身も訴訟されるぎりぎりのところまでなら数回経験しているが、それでも、自分の心にのしかかるプレッシャーは相当なものだった。もし、自分が訴えられたら、私は、とうていもう医療を続ける気にはならないだろうと思う。
私のこの感覚は、ごく普通の医療者の感覚の平均像ではないだろか? 医療者の責任追及!責任追及!と主張される方々には、ぜひ今一度、自分の内面をよく見つめて考えてみてほしいものだと思う。責任追求以外にもっと他の考え方はないでしょうか?と。もっと違う考え方をすれば、あなた自身の苦しみや痛みの感じ方が変わってきませんか?と。
もちろん、私は、死や病気を受け容れるべきだという考えを一方的に押し付ける気持ちはない。個人個人が、自ら考え、自ら納得することが重要だと思っているからだ。 そして、医療者のあり方としては、医療者からの押し付けではなく、個人個人が自らの気づきを促せるようなアプローチができることが理想だと、私は考えるようになった。それは、次の書物との出会いが大きい。患者の気づきの援助という視点において、関西医大の中井教授は、その著書「いのちの医療」 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4862490891/ の中で次のように述べている。
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患者さんなら患者さんの病にも、必ず意味があるんです。僕はどの患者さんにも、あることを必ず聞くんですね。それは聞き方は聞くタイミングが非常に難しいんですけど、「病気になってよかったことはどんなことですか」って聞くんです。
そうするとはっとされるんですね。病気によって自分がどう変わったか。一生懸命考えられて、なかなか答えがでないこともあります。こういうことを「逆観」というんです。仏教の言葉です。−逆の見方をしてもらう。病気イコール悪と考えないと言いましたね。「病気になってよかった」というのは逆観です。
・・・・(中略)・・・・・・・
「失明してよかったことは・・・・」−患者さんもすぐそういう答えを言われるんですか。やっぱり、ものすごく腹がたつということをまず言われますね。僕みたいな答えを言う人はほとんどいないんです。でもそこで僕の考えは言わないで「そういう考えもあるでしょうけど、もっと違う考え方はないですか」と言いながら、自分のこころの中に入っていってもらって、気づいてもらうんです。
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病気や死を逆観すれば、さまざまな気づきがあると思う。中井先生のこの本から、私はそういうことを教えていただいたような気がする。 私は、地雷疾患は避けるべきものだとばかり思っていた。しかし、逆観してみれば、「(地雷疾患で)突然だったけど、苦しまずに逝けてよかったね」ともいえるわけである。ときには、そういうことを残された御家族に気づいてもらう援助を私達がお手伝いさせてもらうことがあってもいいのではないだろうか?
私は、最近、佐江衆一の「黄落(こうらく)」 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4101466076/ を読んだ。これは、父92歳、母87歳の高齢の老親を介護する夫婦の苦悩を描いた小説である。 自ら食断ちをして死のうとする母、それを認める子・・・・・・。このスタンスには、賛否両論があるだろう・・・・。難しい問題だ。
私が、内科病棟で勤務していたときのこと、一人の90代の高齢女性を看取った。自力歩行は厳しく、認知症もありコミュニケーションは困難な方だった。そんな高齢女性が、脱水と発熱で当院の時間外に緊急入院になったのだ。すでに患者さんの子供達は全員他界し、30代の孫娘が一人で世話をしているという家族背景だった。自分の子供達に全て先に逝かれ、さぞつらかったことだろう。そんな患者の思いは、孫娘に伝わっていたようだ。
私 「もうだいぶ弱っておられます。自分の口でお食事を食べるのは難しそうですね。
どうされますか?」
孫娘 「自然の経過にお任せします。
昔、お婆ちゃんは、早く息子や娘達のところに行きたいとよく言ってましたから」
私は、それでも、胃ろうや経管栄養、IVHなどの選択肢があることを説明した。
孫娘は、末梢点滴だけを望んだ。固い決意だった。私もそれを受け入れた。
その10日後、患者さんは静かに息を引き取った。臨終の際の孫娘の涙をみて、私は、きっとこの方の人生は幸せだったんだろうなと思った。孫娘さんも、きっとこの死を通して、今後自分の人生にプラスになる何かを感じ取ってくれたことと思う。
黄落と似たような状況である。誰も言葉にこそ出さないが、でも確実に、医療の中で「死」を目標にしていたのである。
今、診療関連死が、十分な議論を経ることなく、その定義もあいまいなまま、医師の処罰だけはしっかり明確化されただけのある法案が国会に出されようとしている。死に行く人や残された家族やそれに関わった医療者の心は置き去りにしたままに・・・・・。当然、日本人の「死生観」の配慮なんか、どこにもない。これを作った人たちの心の中には、死は避けるべきものという絶対前提しかないんだろうか?と私は感じてしまうのだ。
私は、この法案には、断固反対の立場をとる。我々も対案を出しつつ、もっと熟慮する必要があると考えるからだ。
私のこの体験だって、取り様によっては、診療関連死にできてしまうのだ。一人でも心情的に納得できない家族が入れば・・・・。 そんな状況になってしまえば、我々は、どうやって医療を提供すればいいのだろうか?
人が死ななくなった(死ねなくなった)今の社会・・・・。社会システムとしては、想定外の高齢社会となってしまっている故に、医療費、年金、住居、介護・・・・にしわ寄せが来ているように思う。政府を批判するのは簡単だ。しかし、批判はできても解決は難しいというのは、心の中で誰もが認めていることではないだろうか?そんな中で、様々な葛藤がある。医療者は、望むと望まざるに関わらず、その渦中に入り、なんらかの社会的役割を要求される。
共同の「日本人の死生観」が欠如していては、私達医療者もどう立ち振る舞っていいのか、ただ戸惑うしかない。個人個人の死生観に関する信念は、それを「モノクロトーン」で例えて言えば、「真っ白のトーン」から「真っ黒のトーン」まですべてにわたって分布していると考えられる。だから、医師だけの「トーン」で、患者のためによかれと思い行動しても、家族との「トーン」との違いから、対立が生じてしまうことが多々あると思われる。そして、そこに不信感があれば、もう目も当てられない惨状となる。
喪われた共同の「日本人の死生観」を復興させる私なりの提言をする。まず、医療者自らが、自らの内面を見つめ、まず自分でそれを考え、考え続けること。そして、次に、私達医療者が、その専門性に関係なく、患者に積極的にこのような気づきのアプローチをしていくこと。それらが、私達医療者が出来うる現実的なささやかな第一歩なのかもしれない。そして、それらが「個」から「社会」レベルへと上手く拡充していくとき、ようやく初めて、新たなる共同の「日本人の死生観」なるものが構築されていくのだろうと思う。少なくとも、私は、そう考えて、自らを見つめなおすとともに、今年、これから出会うであろう患者には、このような気づきのアプローチで接していきたいと思っている。
誰かに死生観を決めてもらおうというスタンスでは、いけないと、私は個人的には思う。とにかくまず自分で考える。その上で、他人との違いは違いとして認め、共通の落としどころを模索することを容認する・・・・。そういう個人レベルの人間的成熟がないと、当面の医療は社会システムとして上手く回らないであろう。私はそう思う。しかし、言うは易し、行うは難しである。だからこそ、宗教の存在が社会に不可欠なのだろう。それは、ある意味、自分の死生観を決めてもらうことになるのだから。
2008-01-01 00:13
コメント
では、お題のひとつ「逆観」で一席。
仲良くしてもらっている眼科の先生がいるんですが、その先生の言うには、白内障のオペをしたあと、「見えるようになって良かったですね」というと、ヨヨヨと泣き出すおばあちゃんが時にいるそうです。なぜかわかりますか?
鏡を見て、しみしわでムチャクチャになった自分の顔を見て、「こんなことなら見えないほうが良かった」んだそうです。眼科の先生は「世の中、見えないほうがいいことって多いのよね」が口癖です(眼科の先生にあるまじき発言のような気もする)。
わたしは美容外科なんで「それじゃあ、そのおばあちゃんたちを、うちに紹介してくださいよ」と持ちかけるんですが、彼女(眼科の先生)は、あまり乗り気じゃない。さて、その理由は?
1.しみやしわは、自然なものだから取る必要はない。
2.わたしの腕を信用していない。
3.その他。
答えは後日(笑)
by moto (2008-01-01 05:43)
あけましておめでとうございます。昨年はROMってばっかりだったので今年は少しでも書き込みができればと思います。
死生観についてですが、「人は必ず死ぬ」ことは皆さん頭の中で理解されています。しかし、いざという時に身近な事として受け入れ出来ない、受け入れようとしない方が多いように思います。かくいう私もその一人であることは、自覚しております。
死生観についてはよく論じられているかと思いますが、身近に「死」を体験しなくなったことと、仮想現実(主にゲーム)の中では「生き返る」ことが原因ではないかと思います。そういった意味では、生き物を飼う(金魚でも犬でも)ことは有意義であると思います。いずれ死別という経過を辿ることが多いので、愛着があればある程ショックも大きいですが、それは人間として成熟できる良い機会ではないかと思います。
「老」「病」「死」が罪になれば、「生」まれたこと自体が罪になります。「老」「病」「死」は避けて通れませんから・・・。
(なんだかまとまりなく、死生観とは、かけ離れてしまったコメントかもしれません)
by 風はば (2008-01-01 12:20)