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----日々是よろずER診療 から転載---------------------------------------
http://blog.so-net.ne.jp/case-report-by-ERP/20071223T
死の意味を考える [雑感]
前エントリーで、病気・死は悪か?という問いかけをしました。 ハッスル様、HDs様、じゅん様、 フィッシュ様のコメントを拝見させていただきましたが、それぞれに貴重なご意見だと思いました。その中で、一点引用をさせていただきます。
フィッシュ様のコメントより
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生きること、病むこと、老いること、そして死ぬことはどういうことなのか考えを深めていくことで、必要な医療とは何かの答えがみえてくるのでしょうか。
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得てして、人は、自分が不治の病にかかったとわかったときに初めて、このことを考える人が多いのではないでしょうか? そして、このときに、多くの人は痛みを感じます。 医師は、その痛みを感じている患者と接する以上、それにどんなものがあるのか知っておくことは大切かと思います。
突然の病気や事故に対して、 患者自身があるいは遺族が・・・・・
「なぜ、自分だけが・・・・」 「どうしてあの人がこんなことに・・・・・」
これは、患者や遺族の痛みです。spiritual pain http://www.world-reader.ne.jp/psychology/kokubo-000510.html といわれるものです。 医師の中でも、それに対応するのは看護師の仕事で、自分は自分の専門があるからそれに邁進すべきだと考える人もきっといることでしょう。 チーム医療としてうまくいくときはそれでもいいのかもしれない・・・・・。だけど、私達、医師の言葉や態度は、私達が考えている以上に、患者側は重く受け取ってしまう場合も多々ありそうです。ならば、私達医療者は、自分達の発言と行動を深く自己洞察できる自己管理能力が要求されるのだと思います。患者が感じるspiritual painを全て理解することは出来なくても、それを理解しようと努力する姿勢は、自分の自己洞察にもつながり、どの科の医師にとっても有益なことではないかと思います
フィッシュ様のコメントにあるようなことを、医療者側も患者側も、普段の日常時に、時々考えてみることは、いざというときに役に立つのかもしれません。言い換えれば、上手くspiritual painを乗り越えられることになるのかもしれません。
さて、このブログでは、地雷疾患が主テーマです。地雷疾患は常に死と紙一重ですから、医療者側が感じる患者の死の受け取り方についても書いてみたいと思います。 医療者側からと言うものの、あくまで、私個人の経験ベースであり、私の言うことが、どこまで医療者一般に拡張してよいものか・・・・それは私にはわからない ということだけは断っておきます。
早速症例に入ります。 「左肩痛」という地雷 ですでに紹介した事例を再掲します。
http://blog.so-net.ne.jp/case-report-by-ERP/20070403
62歳 男性 主訴 胸痛
高血圧で、循環器内科かかりつけ。昨晩、呼吸苦、胸の痛みが出現したため、朝になるのを待って、循環器内科外来を受診にきたとのこと。担当した外来医師は、心電図、血液、レントゲン、エコーなど一通りのオーダを出し、患者に各部署を回ってもらうようにした。患者が胸のレントゲンを取り終えて、レントゲン室から循環器外来までの同一フロアー平坦の約70mぐらいの道のりを戻る途中、あと外来まで20mくらいを残すところで、突然倒れた。
第1発見者は、通りがかりの男性医師
「どうしましたか!とうしましたか!」
反応がない・・・
続いて、通りがかりの女医さん
「ERへつれていきましょーーー!!!」
「ストレッチャー、だれかもってきてえええ!!!」
救急部は、比較的おだかやかあったところ、その二人が、ガラガラとストレッチャーの大きな音をたてながら、「急変!急変!」と救急外来に突然なだれ込んできたのだ。
すぐに救急部の医師たちも患者を観察
「あえぎ呼吸、脈触れない」「心臓マッサージ!」「モニタ!」「除細動器!」
あっという間に、蘇生チーム部隊ができあがり、処置開始。「PEA」「挿管」「確認」「ポータブル胸写」淡々と型どおり蘇生は続く。
写真ができた。最近の一枚、先ほど急変直前にとった一枚、そして急変後に今とった一枚3枚を並べてみた。(下の写真の通り)
http://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_735/case-report-by-ERP/10758186.jpg
皆が息を呑んだ。
TAA(胸部大動脈瘤)のラプチャー(破裂)だ・・・・・・。
だめだ、無理だ・・・
私が、奥さんに別室で病状説明をした。救命は無理だと。
奥さん
「わたしはね、救急車を呼ぼうかといったんですよ。夜中に。でも、朝まで待つって本人がどうしてもいうものだから・・・、それと昨日も肩が痛いって言って、整形外科で痛み止めの注射してもらってたんですよね。」
私
「え、き・昨日・・・、左肩・・・ですか」
おそらく、前日の左肩痛は、大動脈瘤の拡大との関連から来ていたものであろうと思いはしたが、その場では何もそれ以上言えなかった。
救急外来に運ばれてきて、30分後、死亡確認を行った。
(以上が、再掲の事例)
大動脈瘤破裂のように、突然に患者を失うということは、医療者側にとっても、純粋に心が痛むものです。 その心の痛みは、「あのとき・・・・すれば、助けられたのではないか」という自責の念が中心となると思います。 自分でそう思えたとき、私達は、次の診療では、ここをこういうふうに・・・してみよう とか前向きになれるのです。 ところが、昨今では、同じ思いを、他者から、「あのとき・・・・すれば、助けられたはずだ」と私達は、強制されるようになりました。 これでは、私達は前向きになれません。むしろ、後ろ向きになります。
私達は、患者を失ったときの痛みがあるからこそ、次の診療でファインプレーができるのです。私はそう思います。
最近の自験例を紹介します。
56歳 男性 胸痛
肥満、糖尿病、高血圧などに加え、胸部大動脈瘤(50mm)がすでに指摘されて、慎重なフォローがされている患者。 軽度の胸痛を認めたため、独歩で当院救急外来を受診。胸痛は、左側胸部で、持続は5分くらい?、冷汗なし、嘔気、嘔吐なし、移動する痛みなし、あごや左肩への放散なし。 来院時、症状ほぼ消失。意識清明 見た目に元気。血圧130/65 脈121 KT35.7 RR 16 SpO2 98 心電図は、洞性頻拍であるが、他特記すべきことなし。
患者カルテをみた。胸部大動脈瘤あり、フォロー中。60mmになれば手術紹介予定でムンテラ済みなどがわかった。 予診表には、胸痛と一言だけ。
私は、この時点で、この患者には、何があろうとCTが必要と考えた。患者をまったく見てない段階での判断だった。 それは、先に掲載した破裂事例のことが私の心に浮かんだからである。 患者急変の落差を身をもって知っているからこそ、決断できるジャッジである。
患者のところに行く時点で、そう決めているから、話は早い。 患者は、一番隅のベッドサイドで、Nsがバイタルをとり予診し、心電図をとっているところだった。
「それが、終わり次第、すぐに処置室へ行こう。そこで診察する」と私は告げた。
「はい!」と患者が、いきなり臥位から座位の姿勢をとろうとした。 私は、冷えた・・・。
「ちょっとまてえ・・・・。静かに行きましょう。静かに・・・・」と患者を制した。
そして、奥さんに告げた。
「お元気そうですね。もし、今日の症状が、瘤と関係しているものかどうかは、まだわかりません。ですが、もしそうだとすると、今すぐここで破裂して即死するかもしれません。だから、私達は、いまから、そういう最悪の状況を想定して、診察を進めます。ですので、診察場をここではなく、一番急変に対応できる場で、診察をすることにします。」
それから、問診をした。心エコーをした。 う〜ん??という感じである。 肥満体系でエコーの条件も悪く、胸水貯留や心のうえき貯留はないように思えた。病歴を整理しても、もともと狭心症がありそうな感じで、今回のエピソードも、急性冠症候群というには、ちと弱い病歴だった。 患者が、右足も痛いというし、休んだらすぐ直るというし、いわゆる閉塞性動脈硬化症(ASO)のような症状のこともいう・・・・。 胸のレントゲンも著変はない。ただ、なんで頻拍なのだろうというのが引っかかる点だった。
それでも、この患者は、瘤の変化がないということを100%つかんでおかないと返すわけはいかないと最初から決めていたので、なんの躊躇もなく、CTの段取りへ進んだ。
程なく、CT室から、一人の研修医が血相を変えて、走ってきた。
「先生〜〜! やばいです。切迫破裂です」
「ええ〜、まじ」 と私。
http://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_735/case-report-by-ERP/10758708.jpg
なんと、左胸腔内と心のう液に血液と思われる像(黄の矢印)がしっかりとCTに写っている。過去のCTと比べると、大動脈弓部に存在する瘤のサイズが心持ち大きくなっているような印象はあるが、さほどはっきりはしない。しかし、血液が血管外に漏れているのは100%間違いがない。これで、頻拍の理由も納得だ。
奥さんに告げた
「まさかのことが、現実になりました。大至急、心臓血管外科のある病院を紹介します。その途中で、破裂したら救命できません。最善の注意を払って対応します」
処置室へ移していたことが功を奏した。急変に備えてすぐに循環器の医師の応援も頼み、私は、その間、転送交渉を開始した。循環器の医師が、厳密な血圧コントロール(厳格な降圧)を率先して始めてくれた。 なんとか、転送先も決定した。 私は、急変のセット一式をもって、救急車に同乗して、転送先までついていった。
間一髪の症例でした。 胸部大動脈瘤の既往歴が、情報として入ってこなければ、まずすぐにCTをとることはない病歴だったし、破裂の恐ろしさを実体験したことがない医師ならば、患者の見た目の元気さに引っ張られて、まあ、あるのはわかってるけど、こんな症状なら、大丈夫でしょう・・・と判断してもぜんぜんおかしくないケースだったと私は思います。
まさに、この症例は、私の中での患者の死が、次の患者の救命につながった事例だと思う。言い換えると、62歳男性の死が、私という医療者を介して、56歳の男性を救ったと考えることができると思います。
医療で患者を失ってしまったとき、皆様が、そのご遺族の立場に立ったとき、様々痛みが生じることとは思いますが、医師も痛いのです。 私は、だから、遺族の方にお願いがあります。医師の痛みも考えてほしいのです。 そして、私の二つの事例のように、次に患者の死がその医師の中で次の生へと結びつくかもしれない と考えてほしいのです。併せてそう考えることで、患者の死の意味を前向きに捕らえることができないでしょうか?
どれほど、医師が患者の死に心を痛めるのか、それが、他者からの強制ではなくて、自らの気持ちであるのか。それを端緒に示す事例は、福島大野病院の加藤先生ではないでしょうか? 私は涙がでました。 こんな先生を逮捕する日本は、狂っているとしか言いようがありません。 紹介します。ロハスメディカルブログより。
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http://lohasmedical.jp/blog/2007/12/post_991.php
弁護人 遺族へ謝罪には行かれましたか。
加藤医師 はい12月26日に伺ったと記憶しています。
弁護人 誰と行きましたか。
加藤医師 院長、事務長、H先生と私です。
弁護人 次に遺族と会ったのはいつですか。
加藤医師 事故調査委員会の結果が出た時、その説明をするからということで病院に来ていただいて説明しました。墓前にも報告して謝罪してくれというので行きました。お墓を教えるから土下座してきてくれと言われたので、してきました。
弁護人 どういう気持ちでしたか。
加藤医師 亡くならせてしまったという気持ちが強くて本当に謝罪したいと自然に土下座しました。
弁護人 その後もお墓参りに行っていますね。
加藤医師 はい、逮捕前までは、月命日の前後の休日に行かせていただいていました。逮捕後は年1回命日に行っています。
弁護人 まさに命日が過ぎたばかりですが今年も行きましたね。
加藤医師 はい。
(略)
弁護人 最後にAさんとご家族に対して、どう思っていますか。
加藤医師 私を信頼して受診してくださっていたのに、亡くなってしまう悪い結果になって本当に申し訳なく思っております。当時、突然亡くなられて私もかなりショックでした。亡くなられてから一日中、初めて受診した日からお見送りした日までの色々な場面が頭に浮かんで離れませんでした。ご家族の方に分かっていただきたいとは思っておりますが、なかなか受け入れていただくのは難しいのかなと考えております。こういう風にすれば良かったのかなとか、いい方法はなかったかなと思いますが、あの状況で他のそれ以上の良い方法が思い浮かばないでいます。亡くなってしまった現場に私がいて、その現場の責任者が私のわけで、亡くなってしまったという事実があるわけで、その事実に対して責任があると思われるのも当然だと思います。できる限りのことは一生懸命しました。亡くなってしまったという結果はもう変えようのない結果ですし、私も非常に重い事実として受け止めております。申し訳ありませんでした。最後になりましたが、Aさんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。
1時間ほどで弁護側質問が終わり、検察側の質問。
相変わらずS検事が口調は穏やかだが
何を聞きたいのか分からないような事でネチネチ食い下がる。
加藤医師は弁護側に答える時はゆっくりしっかり話していたのだが
検察側の質問には声が小さくなり言い淀む場面が増える。
もっと胸を張って堂々と話せば良いのにと思って、ふと気づいた。
まるで「いじめっこ」の前に出た「いじめられっこ」のようなのだ。
素人がこんなことを軽々しく言うべきではないのだが
加藤医師は検察によるPTSD状態ではないか。
たとえ無罪判決が出ても
リスクのある周産期医療の現場はもちろん
臨床現場に復帰できないかもしれない、そんな気がした。
警察を招き入れることになった県の調査報告書の罪
そういう報告書を出さざるを得なかった役所の論理の罪に
強い怒りを覚えた。
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加藤先生がこの裁判に巻き込まれている限り、どこかで、本来は加藤先生に救われる人が、その恩恵を受けられていないということを、私達はもっと気がつくべきである。このケースは、患者の死が、次の生にまったく生かされていない・・・。いったい、日本社会は何をしたいのだ!私は強く言いたい。死の受容感の欠如、医師の心の痛みへの無理解・・・・・、今の日本社会に根付く心の病理が、福島大野病院の逮捕・刑事裁判事例から垣間見える気がしてならない。これを繰り返せば、私を含め、確実に日本から医師がいなくなることでしょう。
2007-12-23 09:45
コメント
本当に考えさせられるテーマをありがとうございます。
先日、加藤先生の裁判記録を読んだ時は自分のことのように胸が痛みました。そして、大淀病院の先生やスタッフの方の気持ちを思うとたまらなくなります。
医療スタッフの誰もが経験ゼロからスタートし、出会う患者さんや他のスタッフの体験から知識や技術を深めて、より良い医療につなげたいとしていると思います。ほとんどの人が、自分の未熟さゆえの、あるいは医療の不確実性ゆえの悲しい体験や怖かった体験を持っているのではないでしょうか。
普通の感覚であれば、それだけでも精神的に押しつぶされそうになるところだと思いますが、それを自分の中の戒めにしてより良い仕事へつなげていこうという希望になるからこそ働き続けられるのだと思います。
仕事に行きたくない、仕事に復帰するのが怖いと思うような状況になっても、続けていくのは、その体験を無にしてはいけないからだと思います。
ローリスクの分娩を対象にしたクリニックで働いていますが、妊娠中に問題がなくてもいきなり分娩時や産褥期に血圧が上がる方がいます。子癇や脳出血と紙一重という状況に、緊張します。その時にできる限りのことをするしかないのでしょうが、後で何が問題視されるのか・・・が最近気になってしまいます。
日々の「地雷」の中には、自分の思考や行動パターンが関係しているものもあると思います。先生のブログは症例だけでなく、いろいろな視点から考える良い機会を作ってくださっているので、勉強になるととも頑張って働き続けようという気持ちになります。
長文、そして連続投稿、お許しください。
by フィッシュ (2007-12-23 14:04)