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(回答先: 犯罪抑止力と戦争抑止力について(マガジン9条『伊藤真のけんぽう手習い塾』) 投稿者 茶々 日時 2007 年 12 月 14 日 10:01:21)
>茶々さん どうもです。
茶々さんの引用された意見は「大方の部分で妥当性」を有していると思います。
日本においては「被害者の救済」という分野が立ち後れているという点は「正しい考察」と言えます。
>【外国には、犯罪被害者補償制度が確立していて、日本の10倍近くの補償が支払われる国もあります。
こうしたことを放置したままで、凶悪犯罪は死刑にすればいいんだという感情論だけでよいとはとても思えません。死刑にすべきだ、厳罰化を図るべきだという前にやるべきことが多くあるということです。】
この点は納得できますが「ただ、この意見では直接的には『死刑廃止論』には繋がりません。
『被害者救済問題』は基本的には別の問題です。
この点は「本人も分かっている」ようです。
それは【被害者救済と厳罰化を同時に進めればよいと言われてしまいそうですね。】に表れています。
この辺は非常に難しい部分ではありますが
「社会という環境が、犯罪者を生み出し、被害者を生み出したのだから、双方の救済は社会制度の中で行うべき」
という考え方は成立するはずです。
しかし、その一方では「他人の不幸を背負い込む」という「社会」に「支援の協力などする気はない」という考え方もあります。「運・不運も自己責任」という「相互援助制度」に背を向ける「個人主義」の考え方ですが、現行の「日本」の「小さな政府」の方向からすると「被害者救済」とは逆方向に進んでいるのでしょう。
>【そもそも、死刑に値するような犯罪を犯す人間は、その犯罪を実行する際に、この犯罪を犯せば死刑になるかもしれない、だから止めておこうと冷静な判断をすることはまずありません。】
表題に掲げた問題の部分は、この意見です。
これ「犯罪を犯した者」についてだけしか、考えられていないのです。
しかも、発作的な「理性が吹っ飛んだ状況下」という特定の案件の「殺人行為」とも言えるでしょう。
殺人という事件には「冷静に判断された計画的事件」もあります。もっとも、これは「死刑という制度」があることを知りながら「抑止力」にはなり得なかった事の事例ですから「無理に触れる」必要性がないので省略された可能性もあります。
衝動的な行動で「理性が吹っ飛んだ」という事によって「殺人まで至った」という例はあるでしょうが、頭に「死刑がちらつき、ギリギリのところで踏みとどまった」という例もあるはずです。
集団的なリンチがエスカレートする中、数名は「これ以上はヤバイよ」というような意見を言うようなドラマなどもありますが、実際の場合も「心の片隅に死刑による極刑の可能性への恐怖心」によって、エスカレートが止まるという場面はあるでしょう。
ただし、これが「人を殺すという恐怖心」と「死刑という自分の殺される恐怖心」のどちらが「より主因的なブレーキになった」のかは、即断も出来ません。
冷静な判断によって「他人を殺す」という罪の意識(罪悪感)によって「止まる」のか?、「死刑という罰」を恐れて「止まる」のか?、もケースバイケースでしょうが、多分、後者の理由によって「止まる」という事も数%くらいはあるでしょう。
>【日本で死刑と犯罪抑止との関係を実証することはできません。】
ここに「希望的観測」があるようです。
実証されるされないに関わらず、人が少しでも「これをやったら死刑になるかも」という「恐怖心」を持つのなら「多少の抑止力にはなる」と言えるでしょう。
現実には「様々な要素の中の一項目かもしれませんが、刑罰と犯罪には因果関係はあるでしょう。」
飲酒運転も重い罰則が「減少させる」のでしょう。
その上で「個別の事例」には「死刑は不当」というものもあるでしょうが、だからといって「廃止しても良い」とはなりません。