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(回答先: 個人的な解決ではなく労働運動として解決すべきだと私は思います。 投稿者 ワヤクチャ 日時 2007 年 11 月 17 日 18:18:55)
>ワヤクチャさん どうもです。
気になる事が一点
キチンと「相手の意見を読み、意味を分かろうとしている」のでしょうか?
Kだけでなく、最大多数の最大幸福さんとの議論でも気になるのですが、「相手の質問」に全く答えようとせず、自分の主張の強弁を繰り返すだけと感じるのが「Kだけ」なのかな?と考えています。
少し、過去の経緯を振り返っていただきたいのですが「質問・問いかけ」があるはずです。
無理に回答する必要はありませんが、少なくとも「前のレス」に沿ってのレスでなければ、対話は成立しません。
永遠の「自説の強弁の平行提示」にしかならないという事です。
まあ、それは良いでしょう。
>【個人的な解決ではなく労働運動として解決すべきだと私は思います。】
まあ、ニュアンスとして「言葉の使いよう」だなと思いますが、意味がないとも思います。
Kならば
「個人的な解決に優先する課題として労働者全体の地位向上という形で総体としての底上げを図るべき」と思います。
「労働運動」というのは「一つの手段でしかありません。」
解決すべき命題によっては「労働運動」で解決を図るのが「効果的」と言う事はあるでしょうが、それは「効果論」であり、「労働運動」が主体ではありません。
多分、理解できないでしょうから、少し補足しておきますが
「労働運動を盛り上げるために個人たる労働者の存在があるわけではない」と言う事です。これでは主客が転倒している事が分かるでしょうか?
本来なら「労働運動」など必要ではない社会環境であるべきであり、労働運動は「社会環境の中で仕方なく存在している」とも言えるものです。
>【無理な残業を断れと労働者個人に呼び掛けるのではなく過酷な労働を強いている企業に対して改善要求をする運動が必要だと思います。】
労働運動の歴史は「今日、長時間過密労働に気がついた」という訳ではありません。
長い歴史の中で「今日に至っても、この問題は解決できなかった」のが「現実」であり「結果」なのです。
これは、裏返せば「従来の労働運動の延長線上では、この問題の解決は限りなく困難」であることを物語っていると言う事です。
最近ですが、この問題の解決へのヒントと思われる事が「社会に起こっています」
それは「消費者の安全性を無視した食料品販売業の一連の不詳事件」です。
「利用者、消費者の食の安全を軽視した企業は利用者からそっぽを向かれる」
それによって「不二家」のような巨大な企業でも傾くのが「世論の力」です。
このヒントを元に考えれば「自社の労働者の命を大切にしない企業、労働基準法という法を遵守しようとしない企業は社会の敵」という認識を育て「そのような企業の存続に、労働力のダンピングまでして尽くそうとする労働者は、その企業の協力者だ」という「労働者全体での共通認識形成をしなければならない」でしょう。
「企業のためにサービス残業をする」のを「誇りとか美徳」と考えられたら、その人の「先走りのために被害を受ける他の労働者はたまったものではありません。」
少なくとも「俺は弱い労働者で失業するわけにもいかないので、悪いけど目を瞑って見逃してくれ」というような後ろめたさのような物を持って、残業をすべきでしょう。
「サービス残業は違法な犯罪行為である」
そのような意識を「労働者の全体としての共通認識」として形成する事が必要なのです。
>【貴方のような「無理な残業を断らない労働者は労働者の敵だ。」なんて意見にどれだけの労働者が賛同できるでしょうか?】
どれほどの労働者が賛同されるのか?は分かりませんが、論理的に考えてみれば「Kの意見の延長上にしか真の解決策はない」と言う事は理解できるはずです。
理解できないとしたら、失礼ですが、その人には「考察力がない」のだろうと思います。
ただし、Kよりマシな「解決策としての具体策がある」のなら、この限りではありません。
労働運動として「解決を図った方が良い」という意見は「方向性としてはある」でしょう。
しかし、それは「個々の労働者が闘う決心をしてこそ意味を持つ」のでしょう。
そのためには「個々の組合員、更には労働組合が、サービス残業は違法な犯罪行為と認識し、是正を求め、応じないなら、そんなブラック企業は潰すしかない」と意識の変更が出来てこそでしょう。
潰せない企業に依存しながら「その企業と本気で対決なんか出来ない」でしょう。
あまりにも当たり前の事です。
>【貴方の主張には無理があるのです。ブラック企業に対して個人的にではなく組織的に対抗する運動を構築する事によって過労死などを解決するしかないでしょう。】
組織に依存するのと、組織としての運動を構築するというのは「全くの別」の事です。
組織に頼り切って「自らは何のアクションも起こそうとしない」のが「依存」です。
組織の運動に「自分なりに参加し、その組織を背景に、企業に対しても自己主張を行う」のが「運動の構築」です。
同じ事を何度か書いているのですが「企業に対して、何も文句が言えない人、何のアクションも起こせない人」では、何人集まっても「労働運動に集約されない」のです。
「勇気が持てずに被害者として亡くなった人」の名誉を傷つけるような事は主張するな。
「時間外労働をしている労働者を責めるな」
意見として「分からなくもありません」が、そんな感情論に足を引っ張られていて、次なる「被害者を出す」としたら、それこそ「本末転倒」でしょう。