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ふと考えたのだが、「いじめ」と言う問題がある。
先日、相撲部屋で若手力士の死亡という痛ましい事件があった。
多分であるが、相撲部屋は一般社会の常識で考えてはいけない。
格闘技は「勝ってなんぼ」という世界だから、義務教育のような「誰でも受け入れる」というような考えでは「部屋の運用」は出来ないだろう。
「才能がある者が血の滲むような努力をして、更に篩に掛けて行く」という世界である。
本来なら「その職業をやりたい」というような「希望」だけでは「立ち入り禁止」といえるだろう。
「才能のない者は去る」というのが最低限の掟であり、その過程では「篩い落とし」の作業が行われる。
外部から見たら「いじめ」と思われる事でも、強さを保つためには「必要な作業」と言えるだろう。
例えば一人の無能力者(超ド音痴の人材)がいたとする。
仮に、ある合唱団があり、そのチームは「実力的には全国大会レベル」だとする。
そこに無能力者(超ド音痴の人)が「私もチームに入れてほしい」と発したとする。
これを、断れば「排除」である。
人間には「誰にでも自由な行動の権利がある」はずであるが「仲間はずれ」によって、選択の自由を侵害したと見る事はできるだろう。
しかし、その人を入れた事によって「全国大会レベルの合唱音に不協和音が発生して、他のメンバー全員の全国大会出場の夢を破る」と言う事になるのなら、一人の「希望」は、多くの人の「夢を破壊する」という結果になる。
「君は音痴だから仲間には入れられない」
おそらくは、チームの責任者が、そのように「理由をハッキリ言った上で加入を断る」のがベストと言えないまでもベターな行動かと思うが、下手に「本当の事を言う」と「人権擁護団体から批判される」かもしれない。
正当な理由が無く「排除」するなら問題であろうが「合唱団に音痴」というのは「これ以上はないというくらい正当な理由がある。」と言えるだろうが、点数がハッキリと見える形で数値化されるテストなどとは違って「人間の主観に頼る音楽」になると「多少の音痴は大目に見ろよ」と思う人もいるだろう。
極論すれば「才能がある」「才能がない」の問題であるが、情け心を持って「一度は仲間に入れる」とすると、後は「自分の才能のなさを分からせて、自分から去るように仕向ける」という事にならざるを得ない。
しかし、音痴は「大抵自分の音痴を自覚していないから音痴」なのである。
この場合「いじめて、たたき出す」以外の選択肢がないのかもしれない。
それに躊躇すると「他のメンバー全員の不利益」という結果を生むのだろう。
仮に「メンバー全員で多数決を採った場合」には、どのような採決が下されるかは分からないが、少なくとも多少のお人好しは「不幸を受け入れるのも運命」という判断をする者がいる事は予想される。
これは、偽善とは言えないまでも「自分に嘘を付いている」のかもしれない。
多分であるが、このあたりに「既存の民主主義の限界が来ている」
「人は平等であるべきであるが、才能は平等ではないも現実」なのである。
「生きる権利と自由な行動権は別」である。
職業選択の自由も「才能の許容範囲内」においてであり、その範囲を逸脱すれば「集団生活において他人の権利の侵害」という結果を生み出すと言える。
例えば「選挙の投票権」においては「政治に関心もなく研究をする気も無い者」の投票が他の有権者の不利益を生み出すという可能性は常にあるのだろう。
投票においては「立候補者を知った上で選択の上に自らの選択において投票する」のが最低限の「資格」であり、盲目的に「人から言われた人に投票する」とか「流行に乗る」というような人は「投票の資格がない」という考え方は成立するだろう。
「ねじれ国会」とか「大連立」とか「二大政党制」とかが問題になっているが、本来、政党など無くても良い物で、「党議拘束を無くし、全ての議員は自らの信念において信じる者に投票する」のなら、どこにも問題はないのだろう。
国際貢献に対しても「個々の議員は様々な意見を持っているだろう。」
それが、党派の中で自分の信念を通そうとすれば「いじめ」のような不利益を受ける可能性があるから、「長いものには巻かれろ」と言う事になり、個性は埋没していく、個性を失った上での「民主主義」は「民主主義」ではなく、「数の取り合いレース」であり、詐欺師の誤魔化し合いでしかないのだろう。