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株式日記と経済展望
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu153.htm
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/
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ヨーロッパ言語では、言葉は異民族と対峙するための「武器」であり、
生死を分ける「手段」でもあり、「雄弁」こそが「金」であったわけです。
2007年10月14日 日曜日
◆あいまいな日本語表現と明確をめざす英語表現 TUBEN
http://www.rondely.com/tuben/JpnEng2.htm
「日本語はあいまいである」ということがよく言われます。その理由としては、性数の変化がないといった言語的な特徴もあるかもしれませんが、言語というものは、そこに使う人がいることでさまざまな特徴が形作られることから、やはり、その言語を使う人々の民族性・国民性、考え方などに起因するところが大きいのではないかと思われます。
そういう視点で、日本語という言語を考察した場合、日本人の「沈黙は金なり」といった考え方が大きく反映されていると言ってもいいでしょう。言語学者である金田一春彦氏は、その著書『日本人の言語表現』のなかで、
「日本人の言語生活の特色として、まず第一に注意すべきは、話さないこと、書かないことをよしとする精神があるということである。」
というふうに述べておられます。
これは、次の項目である 2. 省略を極める日本語表現と省略できない英語表現 にも大いに関わってくるのですが、日本人は本質的に「できれば発言したくない」という精神を持っており、それは「口は災いのもと」とか、「不言実行」、一昔流行ったCMの「男は黙ってサッポロビール」といった表現にもよく表れていると思います。
とは言え、現実問題として、全く発言しないというわけにはいきませんので、「発言はしたくないが、どうしてもしなければならないのなら、できるだけぼかした言い方を」ということになったのではないかと思われます。つまり、発言することに対する「慎重さ」や「躊躇」といった心理があいまいな表現として表れてくるわけです。その背景には、農耕民族としての共同体を形成し、そのなかで、個人というものが「集団に埋もれた個」のようなカタチで存在してきた日本人社会の特質、あるいは、古くから存在した「ことだま信仰」など、古代人の言葉に対する畏怖といった要素が考えられます。
(中略)
一方、英語をはじめとするヨーロッパ言語では、言葉は異民族と対峙するための「武器」であり、生死を分ける「手段」でもあり、「できれば発言したくない」どころか、発言できないということは(生きる)チャンスを与えられないということだったかもしれません。まさに、「沈黙」ではなく、「雄弁」こそが「金」であったわけです。
つまり、武器として鍛えられてきた言語ですから、あいまいで不明瞭であるということは致命的です。また、日本人は心の奥で密かに「難解でわからないもの」を有難がったりする心理もあると言われますが、英語圏の人にとっては、こういった「あいまいさ」や「不明瞭さ」に対する許容範囲は極めて狭いと思われます。公平さや誠実さがないと思われるかもしれません。逆に、英語のメッセージを日本語化する場合は、すべて訳出しないで「あいまい」な部分をわざと残しておくことが日本人の感覚に、よりマッチしたものになる場合もあります。輸入物のテレビショッピングのCMなどを見てもわかりますが、同じことを何度も何度も繰り返し、しかも、早口でまくしたてる、あのせわしないトークには、普通の日本人なら「くどさ」や「潤いのなさ」を感じます。日本人は「察する」ということを知っていますから、語られてはいないが、たぶんこの商品にはこんな特長もあるのではないか、といったことを自分で調べたり、発見したりするのが好きなのではないかと思うのです。
あいまいと明確さ。日本人がいかに「発言しないようにするか」を考え、そのための表現術を極めている間に、英語圏の人々は「いかに効果的に言葉を使い、相手を言い負かすか」の話術を鍛えながら歴史を歩んできたとも言えます。つまり、はっきり言うことを避ける傾向のある日本語で書かれたものを、そのまま英語のセンテンスにした場合、明確でわかりやすい英語にならないのは当然です。日本語と英語間の言語的変換作業として、この点は大前提として頭に置いておく必要があると思われます。
◆ 英語を超えた日本語ブログの投稿数,その理由は? 日経BP
http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/COLUMN/20070411/268068/
(1)日記文学・私小説の伝統
「土佐日記」以来の日記文学や,日本文学独自の様式と言われる私小説の伝統が日本にはある。日本人には日記を書くような感覚でブログを書いている人が諸外国に比べて多いのではないだろうか。日記形式であれば,特定のテーマ設定や批評,分析といった小難しい作業も必要なく,手軽に記述できる。タレントの中川翔子さんの「しょこたん☆ぶろぐ」のように,自分の日常を短い文章で大量に投稿している人もいる。
また,日本ではブログという言葉や「Movable Type」などのブログ・ソフトが紹介される以前から,「ハイパー日記システム」などのWeb日記システムがあったし,Web日記の更新を通知するアンテナ・サービスが人気を集めていた。2002年後半頃の国内における“ブログ登場”の以前からブログ的なものが日本のネット世界にはあった。
(3)中産階級の厚い層
ブログを書くためにはパソコンなどの情報端末が必須で,ネットワークも常時接続が望ましい。また,ブログを書き続けるには,ある程度の生活的余裕が必要だろう。格差社会と言われているが,まだまだ分厚い中産階級を保持し,ブロードバンドのインフラが整っている日本は,ブログを書きやすい社会環境と言える。
(4)「出る杭は打たれる」社会
「和を以って貴しとなす」「出る杭は打たれる」が日本社会の特徴であることは否定できないだろう。また先日,筆者の知り合いのあるカナダ人が,日本社会を「disciplined」(統制のとれた)という言葉で表現していた。日本人は礼儀正しく,地下鉄などはきれい過ぎるというのだ。
目立つことが必ずしも評価されない統制のとれた社会の中では,インターネットの匿名性の中で本音を吐き出したい。このような欲求が日本人の中には強いのではないだろうか。匿名でいろいろな意見を書けるブログはまさにうってつけの存在だ。ブログであれば「マイミク」(*)を増やし過ぎた結果,当たり障りのないことしか書けなくなってストレスがたまる「ミクシィ疲れ」も起こらない。
現在,YouTubeなどの動画投稿サイトでは「ビデオブログ」(vlog)が流行している。しかし,YouTubeにはあれだけ多くの日本人ユーザーがいるにもかかわらず,日本人のビデオブログは筆者の知る限りではかなり少ない。日本語が流暢な外国人のビデオブログの方が多いのではないか,と思わせるほどだ(参考リンク1,参考リンク2)。やはり匿名性が確保できないビデオブログよりも,通常の文字のブログが日本人に向いているのだろう。
(5)携帯電話からの投稿が簡単
世界的に第3世代携帯電話(3G)サービスであるW-CDMAが拡大しているとはいえ,日本は3Gサービスが最も発達している国の座を保っている。また,日本の携帯電話事業者は良くも悪くも垂直統合的なビジネスモデルを採用している。そのおかげで,携帯電話からのインターネット利用が非常に簡単だ。つまり,日本では電車の中からでもベットに寝転がりながらでも,簡単にブログを更新できる。このブログ投稿の敷居の低さは投稿数を増やしているだろう。
インターネットが普及し始めた1990年代後半,「これからはインターネットの時代だから英語がますます重要になる」といった意見をよく耳にした。確かに英語の重要性は増していると思うが,かといってインターネットの登場が日本語の存在感を低下させることはなかった(むしろアニメやJ-POPなどの文化がインターネットによって世界へ伝播したことで,日本語の存在感は拡大していると思う)。日本のネット世界では,ブログに批判的な書き込みが集中する「炎上」が発生しやすいといった問題が指摘されてはいるものの,「日本語ブログが投稿数1位」は素直にうれしくなる事実だ。
日本語の文化発信力は英語文化を上回っている!
(私のコメント)
今まで韓国語の問題点や中国語の問題点などを書いて来ましたが、日本語が一番対峙しなければならない言葉や文化は英語文化ということになります。ネットにおけるブログ投稿数の話題は以前にも5月7日に書きましたが、
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/d/20070507
人口から言えば日本語人口は1億3千万人ほどなのに、英語人口は15億人だから一人当たりで10倍以上のブログを投稿している事になる。
TUBANのブログ記事にも書いているように、日本人は口に出しては話したがらない国民であり、携帯電話も話しているよりもメールをチェックしている人のほうが圧倒的に多い。それに対して欧米人や中国人や韓国人はなぜあんなにおしゃべりなのだろう。東京を歩いても耳にする会話は日本語よりも中国語や韓国語や英語が多い。
欧米人や中国人などのように絶えず異民族と対峙しなければならない民族は、言葉こそ武器であり生死を分ける手段なのだ。だからこそ外人は雄弁であり日本人は電車の中でもエレベーターの中でも話している人は少ない。アメリカ人や中国人は通りを歩いている時でも陽気に話しながら歩いていますが、何を話しているのだろう?
私が考えるには日本語は話し言葉としてよりも、読み書きの言葉の方に適しているのだろう。だから携帯電話でも直接会話するよりもメールを送った方が手間もかからず時間的にも早いのかもしれない。もちろん日本人にもおしゃべりな人は沢山いるし、ラジオやテレビは話をしないと番組が成り立たないから、必要があれば日本人も話す。
TUBANの記事にもあるようにアメリカ人などは、いかに言葉を効果的に使って、いかに相手を言い負かすかの話術を、小さい頃から訓練を積んでいる。アメリカでは小学校からスピーチの授業がありますが、日本の学校ではスピーチの授業は無く、政治家すら演説は下手糞で、欧米の政治家は原稿なしで演説を何時間でもぶちまくる。
これでは彼らと議論しても、喋り捲るのはアメリカ人や中国人であり、日本人は聞き役にまわってしまう。小さい頃から議論の訓練をしていれば別なのでしょうが、日本と外国では生活環境が異なるから話し言葉の重要性がそれほど無いのだろう。それよりも日本語ではいかに省略して相手に伝えるかの訓練は積んでいるようだ。例えば主語を省略して曖昧に伝えるなどの訓練は年中積んでいるようだ。
だから二人の日本人が話している会話を傍から聞いても主語が省略されているから何を言っているのかわからないことが多い。女子高生なども彼女たちだけに通ずる隠語を使って話すからまるで分からない。だから日本語は仲間内でしか会話が出来ない人が多くて、公の前で正々堂々と話せと言われると何も言えなくなる人が多い。言葉が武器や意思を伝える道具ではないからだ。
日本ではどのようにして相手に意思を伝えるか、手紙などの文書で相手に伝える事が多かったのではないだろうか。だから携帯電話が普及しても会話よりもメールで伝える事の方が多いのだろう。アメリカ人や中国人は自己主張の塊のような国民だから直接相手にあって話で決着をつけることが多いのではないか? 手紙やメールでは面倒で会話でのほうが馴染めるのだろう。
昨日のNHKのニュースでもやっていましたが、若い人の間では携帯小説が流行っているようだ。携帯電話のボタンで文字を打ち込んでいるのですが、一画面千文字の小説を連載しているのだから器用なものだ。このように日本には日記や私小説などを書く人が多く、ネット時代に入ってブログで日記や私小説などを書く人が増えたのだろう。
「株式日記」もネットが無ければ書くことも無かっただろうし、読む人も無かった。日本語と言うのは会話として聞くよりもテキスト文章で見たほうが意味も正確に速く読むことが出来る。1時間の講演を聴くよりも、その講演を文章にして読んだほうが1,2分で読んだほうが早く理解できる。つまり日本語は漢字という表意文字で書かれているから見るだけで分かりますが、ヨーロッパ言語ではこのようなわけにはいかない。
ヨーロッパ言語では、文字を見て頭の中で音声に変換して意味を理解しますが、日本語のような表意文字は文字の形で理解するから頭の中で音声に変換せずに済む。だから文章を読んでも英語の文章よりも日本語の文章の方が早く読んで理解する事ができる。だから欧米人は会話によって相手に伝えた方が理解が早い。
ヨーロッパ言語はアルファベットという27文字の発音記号で出来ているから、単語を読んでもいったん音声にしないと単語にならない。だから英語と日本語が両方達者な同時通訳に人でも文書を見ると、日本語の文書は一瞬で分かるのに英語の文書はいったんは読まなければならないから意味を理解するのに数倍かかるということです。
私などもネットサーフィンで一日にかなりの量のブログを読みますが、日本語は少ない時間で大量の文章を読むのに適している。それに対してヨーロッパ言語の文章はアルファベットの羅列した文章であり、頭の中で文章を読み上げなければならないから非常に疲れる。つまりネットの時代は日本語のような表意文字が便利な時代であり、ネットがこれからますます普及していけば、英語よりも日本語の方が世界の公用語として普及していくのではないかと妄想する。