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今、日本の政治で「最も優先度の高い、政策」は「生存権のセーフティーネットの構築」である事だろうとKは考えている。
災害地があり、そこの住民の生存権が危ういのなら「その災害地への救援が最優先課題」であるのと同じことである。
ネットカフェ難民とか言う言葉が出来てから、それほどの時間の経過はないが、すでに「親の脛をかじる事のできないフリーター・ニート・中高年ホームレス」には「生存権が保障されていない」のだろう。
ワーキングプア、リストラされた労働難民、過労死寸前の過密長時間労働者・・・
ホームレスでないのなら、多少はマシかもしれないが、それでも「生存権は限りなく危うい」と言えるだろう。
つまらない「政治の権力抗争」よりは先にすべき事があるはずである。
話は変わるが、人間が行動するには大抵は「動機と打算」がある。
例えば「虐殺」
人を殺すには相当のエネルギーが必要である。
「殺さなければ殺される」と云う状況ならば「殺せる」だろう。その場合にも「気持ちの切り替えは必要」であり、人によっては「殺されても殺せない」という人もいるだろう。
「食う」ためなら、人を殺せるだろう。もちろん、その状況にもよるが、2人の人がいて「食料は一人分」と云う場合なら「人は殺人ができる」だろう。比率的にも高いと思う。
人は「それほど強靭な精神を有してはいない」
それ以外の場合、「虐殺」が行えるとすると「見せしめ」か「復讐もしくは復讐の阻止」くらいしか「一般的にはない」だろう。
その昔、中国の最高刑には「九族皆殺しの刑(族滅)」というのがあったと云う、簡単に言うと「9等親以内の一族を皆殺し」と云うことであるが、これは「子孫の代での復讐を防ぐ」という考え方であろう。
日本の歴史を振り返ると「非人道的な虐殺」と思われるものも散見するが、この場合は「抵抗の意思を挫く」という目的が意図された「作戦」である事が多いと思う。
勝利者は「敗北者」に対して「優秀さを誇示」する事はある。
その場合、「暴行、強奪」という行為は相当数起こるが、それがエスカレートして「虐殺まで達する」には「人間性」が大きく関与する。
南京において「幕府山」において1万人を越える捕虜の虐殺は「ほぼ間違いなくあった」だろう。しかし、これは「始末に困った末」の事であり、「食わせる事もできず、逃がす事もできない」という状況下の「決断」であり、機関銃を使用した「作業」と言えるので、エネルギーを使うと云う意味では「別の次元の事になる」
「妊婦の腹を割いて殺した」とか「切り刻んで殺した」と云うレベルになると「見せしめ」か「個人の趣味」のどちらかであろう。
「見せしめ」ならば「現代まで残る確実な証拠がある」だろう。「見せしめ」が「隠蔽される」のは「意味がない」
個人の趣味の範疇なら「これは、当人でないと想像できない領域」であるが、まあ、4桁止まりではないだろうか?
例えば利害関係も理由も無しに趣味で「赤ちゃんを踏み殺す」事のできる人は人口の何パーセントいるだろうか?
おそらくは、コンマ以下だろうと思う。
自民党の議員であっても、民主党の議員であっても、個々の議員は「真面目な方の部類」だろうと思う。
しかし、団体組織の打算に組み込まれると「個人の良心は埋没してしまう」
必要以上に警戒しても無駄で、なるようにしかならないのだろう。
お手並みを見たうえで「判断する」のが正解だろう。