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今朝のNHKラジオニュースのニュースアップでは少し考えさせれる話題を取り上げていた。
最近は
「幼稚園や学校の演劇において、桃太郎が何人もいたりする」のだそうである。
脇役を志望する子供もいるが「その場合は、親に前もって承諾を取る」のだそうである。
学園祭や運動会のスナップ写真においては「他の子より、自分の子供が写っている枚数が少ない。」とクレームを付けてくる父兄もいるとの事である。
何か聞いていて「世も末だな。日本も末期症状をていしている」という気持ちになってしまった。
気持ちは分からないでもない。誰だって、主人公になりたいし、自分の子供に一番になってもらいたい。
しかし、世の中そんなふうにはいかない。表があれば裏があり、勝者がいれば敗者が生まれる。光があれば影ができる。
常識、良識、分相応、思い遣り・・・
そう言った当たり前の感覚が正常に成長していれば、こんなギャグマンガ(桃から16人の桃太郎)と言った事にはならないだろうと思う。
子供の父兄たる大人たちは「子供のままに大人になってしまった」と云う面・・・
教師たるものに指導力と威厳がなくなってしまったと云う側面・・・
教師だけではなく「他人の仕事の大変な面を見ようとしない」という社会になってしまったと云う側面・・・
権利意識のみが共同生活と云う場面を置き去りにして成長しすぎてしまったという部分・・・
主張するものこそが特をすると云う「現実」が存在していると云う実在の社会・・・
理屈重視が「社会を作るのは社会に暮らす人たちの共同作業」という概念を置き去りにしているのである。
いずれ、この部分を権力側はとがめて来る。
「誰が見ても、常識を逸脱している状況がある」のだから、一変に「権利制限に流れる」だろう。
反戦平和勢力だから「少々の点は目をつぶろう」・・・
自分の嫌いな人を批判しているのだから「多少の事は大目に見よう」・・・
その積み重ねが「反動になった時」
一気に自由は制限され、人権は「公益を害するもの」と認定されてしまうのである。
反戦平和を叫ぶ者は「まず、自らの襟元を正さねばいけない」
行き過ぎた「権利主張には異を唱える必要」もある。
誹謗中傷をするものは「批判しなければならない」
如何なる者にも「言われ無き誹謗中傷をする」のなら、それは間違いなく人権侵害であり、人権侵害の行為から人権侵害のない社会は生まれない。
「表面的な数合わせ」に走る者には「表面的な体裁を繕った未来」が待っている。
「敵を誹謗中傷すること」に走る者には「自分が誹謗中傷される未来」が待っている。
「社会保険庁の職員は怠け者だ」という。他人の労働条件を否定した先に待っているのは「自分の労働条件が破壊された未来」である。
その職業の賃金の高低、労働条件の良悪、勤務条件の高低などは「その職場を体験し、一定期間過ごした後でなければ正確な判断をすべきではない」だろう。
それを、一面からの情報だけで「決め付ける」
結果論として「判断は正しかった」という場合もあるが、先の郵政選挙では「郵便局員は楽に違いない」という「思い込み」によって「何割の民営化賛成票が投じられたか?」
「銀行の小さな支店」と「小さな郵便局」の人数を比較してもらいたい。
窓から見える職員の人数を数えてほしい。
郵便局はおおむね2〜5人、銀行では、ほぼ10人を超えている。
郵便局は「銀行の半数以下の人員で、郵便、貯金、保険の3事業を行い」なおかつ「公務員としてのアドバイス的な情報も知らせてくれる」と云う場合も多いだろう。
「民営化すればサービスが向上する?」
確かに暇だったのなら「そうなったであろう」
しかし、入ってくる情報は「サービスの切捨て」のような情報だけではないのか?
己の卑しい心によって行った行動は「自分の首を絞める」と云う未来を生み出すだけである。