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(回答先: 日本は「宣戦布告をしていた」というのはキチンと裏が取れているのでしょうか? 投稿者 考察者K 日時 2007 年 5 月 31 日 07:06:45)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E6%9D%91%E5%90%89%E4%B8%89%E9%83%8E
日米交渉とその決裂…宣戦布告遅延問題
国際通であったことから、阿部信行内閣において外務大臣に抜擢された。1941年(昭和16)1月、日米関係が悪化の一途をたどる中、駐米特命全権大使に起用された。日本の南部仏印進駐によってアメリカとの関係が一層の悪化をたどる中、来栖三郎大使と共に、英・米との戦争回避のためにハル国務長官と交渉を行った。
しかしながら、満州を含む中国大陸からの日本軍の全面撤退や日独伊三国軍事同盟の破棄、(重慶に首都を移した)国民党政府以外の否認を求めるハル・ノートを最後通牒と受け取った日本は真珠湾攻撃を決定、アメリカとの間に太平洋戦争に突入することとなった。
なお、アメリカ合衆国に対する宣戦布告が遅れ、国際的非難を浴びた事について(真珠湾攻撃#宣戦布告遅延問題)、斎藤充功によると、野村吉三郎駐米大使らの新庄健吉の葬儀出席が原因と言う。葬儀はワシントン市内のバプテスト派教会で執り行われたが、この葬儀に磯田三郎駐米陸軍武官以下陸軍将校はもとより、複数の大使館職員や来栖三郎・野村吉三郎両大使が参加しており、その葬儀は現地時間で午後から行われ、来栖・野村大使らは葬儀が終ってから国務省に向ったと言う。
1942年に日米間の交換船で帰国、その後枢密顧問官に転じた。