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Kは思うのだが、マスコミ・政府広報は「手に入れた情報は公開する義務がある」と考えている。
マスコミとか政府広報は公共的情報機関として、一般個人もしくは組織に比べ、情報の収集が出来るようになっている。
これを支えているのは「他ならぬ国民」である。
当然ながら、マスコミ・政府広報には「取材によって得た情報は国民に還元しなければならない」
しかし、どうも、往々にして「情報の公開が消極的になる事がある」
もちろん、時間とか、情報スペースとかの問題で、優先順位の上位から押した場合は「あぶれる」という記事がでるのは仕方がない。
しかし、人のミスによる交通事故と、社会的システムの不備によって「起こってしまった交通事故」では、問題の本質が違い、後者の場合は「社会全体にかなり重要な意味を持つ」だろうから、「単なる交通事故は報道からあぶれさせても、システム的な欠陥に起因する可能性のある事故は報道する義務がある」と思う。
Kの主観では報道されない「判断」がされるのは基本的に3つの場合である。
1 報道しても、読まれないと判断される時(視聴率が稼げない、数字が取れない)
2 報道する事によって、混乱が予想され、社会的な損失が予想される時
3 報道する側の「判断」(=報道主体の組織の損得勘定的に、都合が悪い)
これを明確に区別するのは、難しい面もあるが、組織の都合で「情報の選別」をするのは「情報公共機関」としては「行ってはいけない事」だろう。
例えば、ある列車が脱線しそうだという情報があったとして、それを公開しなかった事によって「実際の事故が起こって、被害者が出た場合」には、当然ながら「知りえた情報を公開しなかった罪」というのが発生する。
もちろん、公開まで達しなかったが、調査をしていて「間に合わなかった」というような場合もあるだろうが、裁判での有罪無罪の結果は別にして、「報道をするかどうかの判断をした罪を問う」事が法制度として確立されるべきではないだろうか?
前に問題にしたが「地方紙」では報道している事を、5大紙では報道しないとか、朝日と報知で「読者が違った受け止め方をする記事が載る」という事が問題だろう。
記事はあくまで、データ提供である。判断し評価するのは「読者」であり、マスコミではないのである。
「読者の意見」が賛成反対の双方の立場から掲載されるか、論票抜きで「データ・客観的事実」を報道するべきだろう。
メディアは「自己都合で誘導するのではなく、データを提供する義務がある」のである。
それを、怠った場合には「罪を問える制度」を設置する必要があるだろう。